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第3章 帰らぬ善者が残したものは

15話 縛るもの アーネス・リューリン

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 森の外から入る白い光は護たちが狼を追うほど小さくなる。明かりの点灯していないトンネルに入ったのか、はたまた別の世界にでも入り込んだのか、そう錯覚するほどに辺りは暗い。空を覆う葉のわずかな隙間から見える空は、まるで夜空を彩る星のように見える。

 明かりを持ってくる余裕はなかったが、幸いにも人工物がないので魔力の膜を繰り返し広げていれば、木の位置も狼たちの位置も特定出来た。追うことに支障はない。

(これは森の主の魔法なんだろうか?)

 この森を進んでいる時から護は気になっていた。日中ならば、どんなに小さな穴からでも光は地表に向かって降り注ぐはずなのに、ここはそれがない。まるでこの森自体が光の侵入を拒んでいるような印象である。しかし森の中は天を覆い隠す木々の他にもたくさんの植物が自生している。光合成が出来ているということなのか、光がなくても育つ植物なのか今はわからない。

 護の拡張探知アンペクスドは魔法の痕跡を捉えてはいない。だが、アーネスや狼たちの像がぼやけて見えているのが気にかかる。すでに誰かの魔法を受けてしまっているのではないか。そんな仮説を立てていると、先行するアーネスが彼に掌を広げて見せながら速度を落とした。狼たちとの距離はおよそ100m。地球に住む狼であればこの距離でも護たちに気付きそうなものだが、そんな気配はまるでない。
 続いて、アーネスが指を3本だけ立てて見せると足を止めて茂みの影に隠れる。音を立てぬよう、持っていた槍を地面に置いた。頷いた護は彼女の数歩後ろで立ち止まり木の影に身を潜める。狼たちのそばにいる3つの存在は護も認識している。アーネスのように輪郭はボヤけているが、かろうじてそれが人であることは理解できた。

(やっぱり変だ。何かに邪魔をされているみたいな……)

 魔力の膜がぶつかり合って消される現象なら今までに経験がある。魔法使い同士の戦闘では常にそうやって相手に自分の動きを悟られないようにする必要があるからだ。しかし、今の状況はそれとも全く違う。護にとっても初めての経験だった。


(今ね)

 狼が謎の人物たちの前で動きを止めたところで、アーネスの足が再び動き出す。これまでで一番の加速。彼女の動きを察知した護だったが、反応した時にはすでに彼女の姿は見えなくなっていた。法執行機関キュージストの捜査員であっても、活性ヴァナティシオを使ってこんなにも早くトップスピードに持っていける者はいない。護はその精度の高さに感心する。彼女を追いかけることを忘れるほどに。戦闘区域であればそんなのは自殺行為に等しいが、護にはわかっていた。動かなくても大丈夫だと。

ザウエード何だ?』
ティールオイ遅いのよ

 姿勢を低くしたまま接近し、アーネスは狼や謎の人物たちの間をすり抜けていく。やった事といえば、彼らの足元に手を触れただけ。ただでさえ背の小さい彼女が地面スレスレを走っているのだ。よほど警戒していない限り、人が通ったとは思わないだろう。

 後ろに回り込まれてようやく彼女の存在を確認したのは、3人の男たち。1人は腰に携えたナイフに手を伸ばし、1人は持っていた杖を彼女に向ける。最後の1人は狼に指示を出すが、危険を察した狼たちは命令を聞かずその場から離れようと地面を蹴る。

ズシャーン!

 地面から空に向かって伸びる黄色い稲妻。離れた位置にいる護にも聞こえた、耳の中に突き刺さる轟音。狼と男たちは体を全身の毛を逆立てビクビクと痙攣しながらその場に倒れていった。

「あれは確か……」

 ロドを通った直後、自分が受けた正体不明の攻撃を護は思い出した。あの時は体が痺れる程度のものだったが今のは違う。音の激しさが、より強力なものであったことを確信させる。


******

『やったようだな』

 護が倒した狼の解体作業を行うフェルディフや様子を見守るジノリトの耳にもその音は届いていた。

「今の音……雷?」
『姉さんの魔法だよ』

 皮を丁寧に剥ぎながら、フェルディフは狼から目を背けている灯真にそう告げる。キリのいいところまで出来たのか、持っていたナイフを狼の体から離して額の汗を袖で拭う。

「アーネスさんの?」
『そう、姉さんは六十代目エクシエントユエス縛封師ドニブドゥルレスタムに選ばれたすごい人なんだよ』
「ドニブ……ドゥル……?」
『相手を縛って動きを封じる人って意味。フォウセの中でも優れた戦士に与えられる称号なんだ。ある意味、族長の父さんよりもすごいんだよ』
「敵を倒すんじゃなくて……捕まえる人ってこと?」

 戦士は強い人で、強い人とは敵を倒せる人。そういうイメージを持っていた灯真は、フェルディフのいう優れた戦士の定義に首を傾げる。

『命を奪うことはそう難しいことではない。相手の急所をこの槍で貫くことができればいい。先ほどマモルがやったようにな』

 近くの地面に刺していた槍を手に取ると、ジノリトは刃の先を灯真の心臓に向ける。ジノリトの鋭い目に見つめられ、驚いた灯真の左足が一歩後退する。

『しかし、他の種族に比べ肉体的に劣る我々フォウセにとってそれは簡単なことではない。だからこそ、相手を無力化できるものが優れた戦士として称えられるのだよ』
「無力化……」

 いつもの柔和な顔つきに戻ると、ジノリトは槍を灯真から離して自分の足元に突き立てる。槍が自分から離れてホッとすると、灯真はジノリトの言葉を反芻する。絶対に自分に向けられた槍が刺さらないとわかったなら、怖いと思うことはなかったと。
 灯真の納得したような表情を見て口元を緩めると、ジノリトの目線はフェルディフの方へ移る。疲労した手首を何度も振り、中途半端に毛皮を剥がれた狼に向けて顔を顰めていた。

『そんなことより、トーマも手伝ってくれよ。結構大変なんだ』
「む……無理だよ」
『今のうちに慣れておいた方がいい。元の世界にすぐに帰れないのなら、いずれ手伝ってもらうことになる』

 黄緑色の綺麗だった草原の一部は赤黒い血色に染まっている。護が仕留めた時のものだ。その場で血抜きも行ったので水溜りならぬ血溜まりができている。今は自分たちが作業で汚れないようそこから少し離れた位置にいるが、灯真の目の前には筋肉が剥き出しになった狼。腹の中から這い上がってくるものを必死に抑えている灯真に、ジノリトは新品の革手袋を渡し優しく背中を押した。

******


「相手が油断していたとはいえ、一瞬とは」
『何いってるかわかんないけど、馬鹿にしてるわけじゃなさそうね』

 アーネスのグローブの内側、手首に巻かれたブレスレットの石が微かに光ると、左の人差し指から糸が伸びて護の額につながる。それを確認した後、アーネスは腰から下げたポーチの中からロープを取り出して意識を失った男たちの手足を縛り上げていく。護の顔を見て、彼が自分のしたことに驚いていると感じたのだろう。アーネスはどこか自慢げな表情を彼に向ける。

「この人たちはどうするんですか?」
『森の外に連れていくんだけど、その前に目的を聞き出さないと』
「目的ですか……」
『2ヶ月くらい前から急に多くなったのよ、森に入ってくる奴ら。マモルたちを見つけるのが早かったのも、それを警戒してたせい』

 男たちを縛り終えると、アーネスは腰に下げていたナイフを手に取り倒れている狼たちの喉を裂いていく。

『これだけのデル・ロフゥ朱狼がいれば、しばらくお金には困らないはずなのに』
「高いんですか?」
『この子らの毛と皮は、市販の魔道具マイトより長持ちするもの。肉は固くて調理に困るけど』
「ちょっと待ってください。市販の魔道具マイトより長持ち……というのは?」
『ノガルダの角と一緒で、この子らの毛と皮は天然魔道具ラルタンマイトよ。この毛一本あれば野営の時の火に困らないし、皮は熱にすごく強いからグローブなんかに重宝するわ』

 アーネスが狼の紅い毛を一本むしり取ると、ライターを点けたような小さな火が毛先から現れ揺らめく。

天然ラルタン……魔道具マイト……?」

 アーネスの言葉と目の前で起きた光景を理解せんと護は記憶を遡っていく。しかし、一度たりとも天然魔道具ラルタンマイトなどという記述は見たことがないし、話も聞いたこともなかった。

『もしかして……そっちにはないの?』
「少なくとも私は聞いたこともないです」
『……デル・ロフゥ朱狼を蹴ったのも納得だわ』
「てっきりこちらの世界の動物も魔法を使うのかと思っていましたが、そうではないんですね」
『その辺は後で教えてあげるわ。それより……』

 アーネスは縛られたまま仰向けで地面に横たわる男に近づく。黒い髪の中に入った鮮やかな赤い髪のメッシュが、この暗い森の中でもよくわかる。アーネスの視線が男と護の顔を行ったり来たりする。堀の深い顔立ちは護とそう変わらない年齢に見えるが、護がそもそも年齢不詳な見た目だということを思い出しアーネスは肩を竦めた。
 
 男たちの意識が完全にないことを確認すると、アーネスは置いてきた槍を取りに戻った。その間に護は男たちを起こさぬよう少し離れた位置から彼らを観察していく。背丈は小柄なフォウセと違って護と大差ない大きさ。底のしっかりしたブーツに丈夫な布で作られたズボンや燻んだ赤茶色をした皮製のジャケット。意識を失ったままの他の2人は背中にバックパックを背負い、持っていたナイフや杖には魔道具マイトらしき小さな鉱石が柄の部分にはめ込んである。「偶然この森に迷い込んでしまった」などと言われても説得力のない装いなのは護でもわかった。
 一通り男たちの様子を見終えたところで槍を持って戻っていたアーネスは、男の首を挟むようにナイフと槍を地面に突き刺して男の顔面で手を振る。まるで何かを払うように。

『はっ!? なっ……何が』

 アーネスが手を振った直後、彼女の目の前にいる男が突然意識を取り戻した。首を左右に振って周囲の確認を試みた彼だったが、首に走った鋭い痛みと視界の端に映った刃、そして自分を見下ろすアーネスの姿を見てすぐに状況を理解した。



『何の目的でここに入ったの? 正直にいえば、森の外に出してあげなくもないわ」

 そう言いながら、アーネスは垂直に刺してあった槍を自分の方に傾けていく。刃が首に接触し、男が少し震えただけでも鋭い痛みが走った。同時に感じる、首筋を液体が伝う感触。

『あんた、フォウセか。背はちっせぇがなかなか良い女じゃねぇか。アンタなら森の外でいくらでも稼げるぜ』
『人のおもちゃになる気はないわよ』
『そいつは残念だぜ。随分昔に楽しませてもらったフォウセの女は最高だったんだ。小さいくせに良い体でよ。あれをもう一度味わいてぇと思ってんだが、なかなかいなくてよ』

 男のヘラヘラした態度を見て歯を食いしばったアーネスの手が、槍をさらに傾けようと力を込めるが別の力がそれを邪魔する。気付けば彼女の横に、槍を止めている護の姿があった。

『何すんのよ!?』
「挑発に乗っちゃいけません。目的を聞き出さないといけないんですよね?」
『……わかってるわよ』

 アーネスの手から力が抜けるのを確認すると、護も槍からゆっくりと手を離していく。

『何されたって俺ぁ何も話さねぇよ。ああ、フォウセの女を抱いた時のことならいくらでも教えてやんぜ』
『このぉ!』

「何も喋るな」

 男の言葉にアーネスが怒りを露わにしたその時であった。一瞬で冷静さを取り戻すほどに、アーネスの背筋を走る悪寒。その原因が先ほど自分を諌めてくれた護にあると勘づいた時には、槍は抜き取られ男の左足の脛に突き刺さっていた。

『うぐっ!……てめぇ……』
「冷静さを失えば魔法の効力は弱まる。次の攻撃にも隙ができる。それを狙ったのでしょう。昔、そういうのが得意な人がいたのでよくわかります。私は苦手でしたが」
『何言ってっかわからねぇが……どうだ、今からでも俺たちにつかねぇか? そしたら、そいつを売った金は全部くれてやるぜ?』
「そんなことをしたら、後で奥さんに殺されてしまいますよ」
『へっ……言ってることはわかんねぇけど、どうやら断られちまった感じだな』

 魔法の糸が繋がっていない男に、護の言葉は理解できていない。しかし男の顔を覗き込む護の目は、護の体から滲み出る気配は、拒絶の意思を十分に示していた。
 相手に自分の言葉が通じないことを思い出し、護は嘆息する。アーネスに通訳させることも考えたが、護は記憶の中にある単語と教えてもらった文法を思い出すと細い目で男を見下ろしながら自らの口で男に問う。

セポルプォウ目的を レルトロイス教えろ
『教えちまったら……』

 ふざけた口調だった男の声色が変わる。低く太いそれを聞いた直後、アーネスや護の顔を偶然撫でる小風。初夏を思わせる生温かさは、狼を追いかけていた時に感じていたものとは明らかに別物だった。

『プロとはいわねぇだろ』

 危険を察知して護が拡張探知アンペクスドの膜を急いで広げる。しかし、それが自分たちの地面の下にあったものに触れた時にはもう遅かった。護はすぐにアーネスを抱えると、足に魔力を集め全力でその場から離れていく。そんな彼らを襲う爆音と衝撃。アーネスに覆い被さるように護が倒れると、舞い上がった大量の土砂が2人に降り注ぐ。

「随分と思い切ったことをする……」

 土砂の雨が落ちつき、起き上がった護達の前には先ほどまで葉で隠れていた青い空と、陽光に照らされる地面の大きな穴が姿を現す。護が改めて魔力の膜が広げてみるが、捉えたのは少し離れたところに吹き飛んでいた木とデル・ロフゥ朱狼の遺体だけ。先ほどと違い、その輪郭をはっきりと確認できる。

『奴らどこに!?』
「爆発に紛れて逃げたんだと思います。向こうも無事ではないと思いますが」
『そう……』

 捕まえなければいけない相手を取り逃した。自身の役割を全う出来なかったことにアーネスは肩を落とす。

 アーネス・リューリンの魔法、縛鎖ドニービナウク霹靂ブレドルヌスが生み出す雷光は、ただ相手の動きを封じるわけではない。相手の意識や魔力操作にも制限をかける。ちゃんと効いていれば相手が魔法を使うことはできないはずだった。しかし、目的を白状させるために効果を一時的に和らげた結果、男に挑発されて感情的になり魔法の効果が弱まってしまった。アーネス自身、冷静さを欠くとそうなることはわかっていたというのに。

『あたしが落ち着いていられたらこんなこと……』
「感情的になれるのは悪いことじゃありませんよ」
『あたしはフォウセで、この森を守るのがあたし達の役目よ。なのに、あんな挑発を受けたくらいで』
「生きていく上で感情など不要だ。私はそう教えられてきました」

 アーネスの言葉を護が遮る。いつもの明るさを微塵も感じさせない静かな口調で。


******


『アニキ、大丈夫っすか!?』
『問題ねぇ……と言いてぇところだが……』

 槍が刺さっていたところに巻かれた布は、血を吸い切れず赤く染まりつつある。咄嗟に張った障壁エービラルで致命傷はないものの、爆発と飛び散った木や石の破片で2人の仲間共々服はボロボロ、足以外にも顔や体は傷だらけである。

『まさか我らが一瞬で封殺されるとは』
『あれは確か、情報にもあった女っすよ。地面から出る稲妻、間違いないっす』
『んなことはオレもわぁってる』

デル・ロフゥ朱狼をやられたのは痛ぇが、連中から逃げられただけマシか)

 男の脳裏に浮かび上がるのは、自分らの動きを封じたアーネスではない。彼女の魔法は脅威だが、彼女は精神的にまだ若かった。あのまま挑発に乗ってくれればいくらでも反撃できた。問題は一緒にいた男、護だ。

(なんだったんだあいつぁ……)

 足の痛み以上に、護から感じた恐怖の方が男の心を支配している。彼の目を思い出すたびに体が震えだす。

(フォウセが他の連中と一緒に行動するこたぁねぇ。だとしたら何者だアイツぁ……)

『アニキ、どうするっすか?』
『……一旦森の外に出る。この傷じゃ続きは無理だ』
『承知』


 男は傷を負った足を庇いながら仲間たちと一直線に森の中を駆けていく。護のことは気になったが、大事な目的のためにはここで立ち止まっているわけにはいかなかった。

(フォウセに恨みはねぇが、アイツらに好き勝手やらせるわけにはいかねぇんだ……)

 様々な思いが錯綜するセルキール大陸で、この男たちとの出会いがこの先起こる出来事に繋がるなど、この時の護とアーネスは想像すらしていなかった。


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