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第3章 帰らぬ善者が残したものは

21話 伝えるもの メヒー・クオル

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 護たちが今後の指針を決めているころ、別の小屋では窓を締め切って閉じこもる灯真の下へメヒー・クオルが訪れていた。

『メヒー姐さん、何をいってもトーマは口を開いてくれないぜ?』
『アタシ、他人からの情報だけで判断はしないの。知ってるでしょ?』
『……うん』

 灯真を心配そうに見つめるフェルディフだったが、どれだけ話しかけても彼は答えてくれなかった。今の自分ではどうすることもできない。己の無力さを痛感しながら、彼はメヒーを信じて小屋の外へと出ていく。
 外で食事の支度をしていたアーネスは、肩を落として小屋から出てくるフェルディフを見るや、持っていたナイフを野菜に突き刺し彼に歩み寄る。

『どうするって?』
『わかんない』
『そう……』

 小屋の扉は閉められ中の様子は外から見えない。メヒーが……いつも不思議な空気を纏っている彼女が何をしたいのかはわからないが、今はそんな彼女を頼るしかなかった。

 部屋の中は暗く、明かりはカーテンの隙間から入る微かな光だけ。それから遠ざかるように灯真は部屋の隅、影の中に身を置いている。メヒーの履いているブーツの踵が音を立てて灯真に近づいていく。

「ねえ、トーマ君のお母さんはドンナ人だったノ?」
「……日本……語……?」

 虚空をじっと見つめメヒーが近づいても反応しなかった灯真だったが、彼女の言葉は灯真の意識を刺激した。この世界に来て1ヶ月以上過ごしているが、護以外の人から日本語を聞いたのはこれが初めて。少しイントネーションに違和感はあるものの、しっかり聞き取れる。

「マモルに教ワッタ。アタシ、天才なの」

 一度はメヒーの顔を見上げた灯真だったが、視線は再び床へと落ちて体に寄せている膝を強く抱いた。今いる世界の拒絶。それが、メヒーの抱いた今の灯真の印象。
 他の人が彼の様子を見れば、どう声をかけるべきか迷うだろう。実際にフェルディフやアーネスはそうだった。しかし、メヒーに迷いはない。

「アタシね、興味アルの。トーマ君がそこまでして助ケタかった人がドンナ人なのか」
「母さん……」

 灯真の目から一雫、涙が頬を伝う。外の光を鏡のように写し微かに輝いたそれを目にすると、メヒーは灯真の横にゆっくりと腰を下ろす。

「良イ人だった?」
「……いつも笑顔で……母さんと一緒にいたらすごく幸せな気分になれた……いっぱい仕事して、大変だったはずなのに……遅くまで働いてて全然眠れてないのに……朝はいつも僕に……いってらっしゃいって……いってくれて」
「そう、スゴイ人ね」
「だから早く大きくなって……母さんを助けてあげようって……そう思ってたのに……仕事ばっかりじゃなくて……母さんの好きなことさせてあげようって……思ってたのに……」

 一粒……二粒……灯真の頬を伝う雫が増えていく。膝を抱える指が肌に食い込み、丸まって小さくなった肩は小さく震える。しかし、メヒーは灯真から出る言葉をじっと待っている。

「僕がいなかったら……あんなに頑張らなくてもよかったのに……体を壊すこともなかったのに……」
「トーマ君がイナカッタラって、お母さんは言ッタの?」
「母さんはそんなこと言わない!」

 それまで弱々しかった灯真の声は急に荒々しさを増し、彼女に向けられた表情には怒りの色が浮かんでいる。彼の反応を見たメヒーの口角がわずかに上げた。

「じゃあ、誰ガ言ッタの?」
「……新しい……母さんが言ってたんだ。僕が生まれてこなかったら……母さんは幸せだったのにって」
「そう」

 再び俯く灯真を見て、メヒーの頬が緩む。まるで、何かを企んでいる少女のように。 

「なら、アタシはトーマ君の言ウことを肯定シナイわ。だって天才のアタシでも、死ンジャったトーマ君のお母さんに聞カナイとソレは証明できナイもの」
「でも……」
「関係ナイ人の言葉に真実なんてナイ。トーマ君が生マレテこない方がヨカッタか、生マレテこなければ幸セだったか、それを証明デキルのは君を産ンダお母さんだけ。お母さんは、君に何て言ッテタ?」
「…………」

 メヒーの言葉は、灯真の記憶の底から母親と最後に言葉を交わした日の映像を呼び起こす。酸素マスクを付けて辛そうに呼吸をしていた彼女は、灯真の姿を見るやいつもと変わらぬ笑顔を見せた。そして、必死に伸ばした手で灯真の顔に触れると喉の奥から振り絞るように声を発した。

「……僕を見ると……元気になれるって……幸せだって……」

 母親はそれを最後に意識を失い、帰らぬ人となった。そのあと覚えているのは自分の頬に触れていた彼女の手がスッと離れたこと、ピーっと機械から音が聞こえて後ろから医者や看護師が走ってきたこと、そして祖父が自分の手を引いて病室を出たこと。次に母親に会えた時、彼女は何も語ることはなくその手に温もりは感じられなかった。
 溢れ出る涙を灯真は止められない。拭うこともせず、雫は服を濡らしていく。

「トーマ君のお母さんは、優シイ人。自分以外の人に優しく出来ル、素敵な人。それは、

 メヒーの両手が彼の頬を包んでいく。その温もりは、あの時の母親の手に似ていた。

「他人を助ケルために力を求メルなんて、この世界ではに知ラナイ。だからね、アタシは君にこれを渡シタイ」

 灯真の中に、魔力の存在を教えられた時の、あの感覚が流れ込む。しかし、アーネスに教わった時とは違う。ただ魔力を外に放出するのではない。体の外に出た魔力が、そのまま何かに変わっていくのが分かる。

「これがアタシの力、エルハ・オークスラエル治癒の桜樹テ。しっかり感ジテ、心に深く、刻ンデ」

 メヒーの指先から出る桜色の光が、灯真の手や足にあった治りかけの傷に集まり小さな枝を作り出す。

「自分の魔法に目覚メタばかりのトーマ君じゃまだ難シイけど、もしこれを上手に使ってくれたら、トーマ君はにとってどんな高価ナものよりも価値ガある」

 枝についた蕾が開き桜色の花びらを広げていく。全ての蕾が開きおえると枝は砕け、散っていく花びらと共に傷の中へと入っていく。灯真にはそれが何を意味するのかわかっている。メヒーの手から流れ込むイメージが彼に伝えてくれる。

「……できるわけないよ、僕なんかに」
「だったらソレを私に証明シテ」

 そういって彼女は灯真から手を離すと、意地悪な笑みを彼に向け立ち上がる。傷からはカサブタが剥がれ落ち、何もなかったかのように元の肌色へと戻っていた。

「聞キタイことも聞ケタし、アタシはこれで」
「あっ……」

 灯真が何かを言おうとするが、小屋の中に響いたのはゆっくりと扉が開かれた音と、遠ざかっていくメヒーの踵の音だけだった。

 

『メヒー姐さん!』

 小屋から出て来たメヒーを見つけ、すぐに駆け寄ったのはフェルディフだった。

『トーマは!?』
『どうかしら』
『そんなぁ……』
『あとは彼次第よ』
『トーマ次第?』

 フェルディフの後ろから歩み寄るアーネスの横を、メヒーは肩を竦めながら通り過ぎていく。いつもと変わらぬ態度の彼女だったが、オルゼのいる小屋へと足を進める彼女の、その表情に浮かぶ微かな影をアーネスは見逃さなかった。

『なんか……いつもの姐さんじゃないみたい……』

 メヒーは謎の多い人物だ。西の大陸から来たというわりに東側の言葉にも精通し、昔のことを調べているというがその目的は誰も知らない。自分が天才であるということ以外、己のことは決して口にしないのだ。ただ1人、相棒であるオルゼを除いて。


『クオル!』

 小屋から出て来たオルゼがメヒーに歩み寄ると、彼女は何も言わずオルゼを抱きしめた。自分より身長の高い彼女に抱きしめられ、オルゼの顔は彼女の豊満な胸の中に押し込まれる。
 彼女の行為の意味をオルゼはすぐに理解した。息苦しさに耐えながらも、彼女の背中に手を回し子供を宥めるように摩る。

『うまく……話せた?』
『ええ』
『カレならきっと……キミの力を上手に……使ってくれる……よ』
『それはそう。アタシは間違わないもの。ただ、アレはあの子の新しい枷にもなる』
『それが生きるために……必要なことも……ある……ボクみたいに……ね』
『オルゼ……』

 彼女の腕が離れ、オルゼはようやく解放される。何度か深く息を吸い込み、呼吸を整えていく。

『ボクは信じてるよ、キミの判断を』
『……好き』

 笑顔を見せるオルゼの体を再びメヒーの腕が抱きしめる。先ほどよりも強力な締め付けは、オルゼの意識を簡単に奪い去った。



 小屋の扉は開いたまま、外では女の人の叫び声を上げている。閉め切っていた小屋の中に強い光が入ってくるが、あと一歩というところで灯真には届かない。その境目をじっと見つめながら、灯真の頭の中でメヒーに言われたことが響き続けている。

「僕は……生きてていいのかな……母さん……」

 そういって灯真は、メヒーが触れていた自分の頬に手を当てる。まだ残っている。魔力を別の形へと変えた、あの感覚が。
 それがこの世界においてどれほど希有なことであるのか、そして彼女に与えられたものがどれほど自分の運命に大きく関わってくるのか、この時の灯真は知る由もなかった。 
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