鬼の瞳

〆鯖

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第八話

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「あらよっ、と」


 慣れた手つきで鎌を引く。


 よく手入れが行き届いている、銀色に光る刃は引っかかりも生まず容易く動いてくれる。久野が愛用している鎌は父親が生前に使っていた物であり、またその手つきも記憶の中にいる父親のもの。

真似事ではあるが、でも彼が息子であるからなのか、何年も続けている父親の技術は自然と彼のものになっていた。


 成長して茶色くなり立派に米を付けた稲を刈り取り、薙いだその場に供えるように置いていく。列んでいくそれを白い細腕が丁寧に集め、ある程度の大きさで束ねて、縄で括ったらまた繰り返し供えられた稲を集めていく。


「阿夜ー、こっちもお願ーい」


「はい。只今」


 奈津に呼ばれた阿夜は久野に一声かけてから、いそいそと小走りで向かい始める。道と田んぼの間にある溝、川から引いている水が流れる隙間をひょいひょいと二度飛び越え、今度は奈津が薙いだ稲をまた同じく束ねていく。


 とても、目を使っていないとは言い難い働きぶりであった。初めて見た周りの村人たちは当然に口を開けたまま唖然としていたが、武芸者だと誤魔化して何とかやり過ごしている。しかしそれ以前に、阿夜の容姿が放つ美しさに皆は心を奪われていた。彼女が何者かなど、正直気にも出来ないでいた。


「――奈津。そろそろ昼飯にしよう」


 切りがよい所まできたのか、ずっと曲げたままだった腰を伸ばし、提案する久野。そうしましょう、と奈津から返ってきた。


「阿夜、こっちこっち」


 瞼を閉じている相手に手招きする奈津もそうだが、それに応えて正確についてくる阿夜も阿夜である。今となっては、この三名にとって特別かわった事ではなくなってしまったようだ。


「大丈夫? 疲れてない?」


「お気になさらずに、奈津様。ワタクシはまだまだ働けますよ」


 近くの木陰に腰を下ろす若者たち。作業を開始する前から用意していた昼食で休憩を取る。

 奈津と阿夜は竹の入れ物に入った茶で喉を潤し、久野は二人の隣で握り飯を頬張る。


「……丸ばっかりだな。三角の練習したらどうだ、奈津」


「ふんっ、何よ藪から棒に。大きなお世話よ。肝心なのは味よ、味」


「まあ、それは一理あるかな。奈津の握り飯って昔から美味いから別にいいんだけどさ」


 何気ない会話のつもりだったらしく、久野は再び黙々と白い球体を小さくしていく。対して、奈津が仄かに頬を染めていたなど知る由もない。


「ふふ、まるで夫婦の様で御座います。お二人は」


「はああ!?」


 一番に反応したのは奈津だ。


「だ、だれがこんな奴の嫁よ!こっこっ、こんな奴なんかっ……!」


「はいはい。こんな奴で悪かったよ。ではまた一つ」


 さして気にもしない――本当に全く持って――久野はもう一つの球体を口に運ぶ。


 そんな姿に何か言いたげな幼なじみだったが、結局何も言えず、不機嫌に顔を逸らす。


 くすくすと、それが見えてもいない鬼は優美に笑う。


 ――暖かく、平穏な時間。


 清々しい日差しは明るさに反して暑く感じない。浄化を思わせる優しい光だ。時折吹く風もまた優しいもので、撫でる様に木々の頭を揺らしていく。それによって擦れ合う木の葉の音色は子守唄と同じで、目を瞑れば時間など忘れさせてくれた。


 いつしか、三者は黙っているだけだった。阿夜を珍しがるみんなと何度か会話はしたが、去った後はまた静寂を繰り返す。

 何も起こらず何もしない事での、平和をしみじみと感じていた。


「――あ」


 そこで、奈津は思い出したように呟いた。


「奈津様、如何なされました?」


「いや、今日は山菜でも採ろうかなあって思ってたのよ。危うく日が沈むまで忘れる所だった」


「と言っても、そろそろいい時間だな。早く稲を刈って、山菜採りに行こうか」


 横になっていた久野は起き上がる。そうね、と奈津も立ち上がり。阿夜もはい、と返事をした。













 ―――――――――――――。
















「あ、綺麗な茸見っけ」


「それ毒茸だよ」


「ワタクシもそう思います」


「ふぐっ……。わ、わかってるわよ……っ」


 上機嫌だった奈津は一気に冷めた。ぽいっと鮮やかな色の茸を捨て、足早にその場から離れる。無知を悟られない様に振る舞うが、赤くなって悔しそうな顔は隠しようがない。


「……それより、阿夜は本当にわかってんの?見えないのに」


「はい。不審な匂いがしますので、毒が含まれているかと。しかし毒と云いましても、味は悪く御座いませんが」


「えっ、食べた事あるんですか?」


 はい、と久野に向かって微笑みかける鬼。


 旅の最中、食べる物に困っていた時に仕方なく食した所、クセはあるが中々に美味だったらしい。そのクセが毒による味わいだったのか定かではないが、彼女にとって茸の毒程度は何でもなかったようだ。


 また常識外れな発言を聞いて、けれども、久野と奈津は驚かなかった。

 いや、少々は驚いたが、途端に笑い声へと移り変わったのは、阿夜に親しみが沸いていた証拠だ。


 稲刈りを済ませた三者は、予定通りに山菜採りをしている。村は周りを山で囲まれた盆地である為、どこでも少し歩けばすぐ森の中となる。自然豊かなこの一帯は山菜が豊富に生えており、籠の中身を苦もなく満たす事が出来る。


 木々の間隔は離れており、走り回れるほどに空間は広い。高い幹の頂上で群がる木の葉は緑色の天井、その隙間から落ちる陽光は一条の線として幾つも降り注ぐ。音もなく匂いも澄み、淡光と静寂を孕む森の中は、どこか幻想郷を思わせるよう。


「…………」


 ……阿夜にはこの光景が見えない。


 物はわかるが、色はわからない。気配は感じれるが、風景は感じれない。彼女に世界は見えている。しかし、彼女に世界は視えていない。彼女にとっての世界とは――やはり無である。


 其処には確かに何もかも、久野や奈津が見ているのと同じものが存在する。だが彼女からしてみれば其処には何も存在しない。否定ではない。ただ、彼女が視ているものは闇だけと云う話。所詮は瞼の裏でも、彼女には立派な虚無の世界。


 もし、視れたなら。もし、眼を開いたなら――


「…………」


 と、考えて止めた。わからなくても、さぞ目の前には美しい風景が広がっているのだろうとは思えている。それを我が儘で壊す事は出来ない。したくない。


「阿夜さん?」


 呆とする鬼に、久野が声をかけた。


「…っは、はい。なんでしょうか」


「いや、何だか心ここにあらずというか……気分でも悪いんですか?」


「あ、その……少々、考え事といいますか……」


 苦笑いを浮かべているあたり、見るからに様子がおかしかった。彼女が言い淀む姿を見たのは初めてだった。


「いえ……大した事ではないのです。どうか、お気になさらずに」


「……そうですか。……あの。もし何か、ボクに出来る事でもあれば遠慮なく言って下さい。頼りないだろうけど、力にはなりますから」


 と。脈絡もなく、何を悩んでいるのかわかりもしないのに、微笑みながら彼は言った。初めて出会った時と似た言葉を、全くの本心で告げた。彼女の為になるのならと、それだけの。


「――……久野様はどんな時でもお優しいのですね。奈津様との話言葉はワタクシと違って崩れますが、それでも想う気持ちはそのままで御座います」


「あ、ははは……いや、お恥ずかしい。みんなからはお人好しと馬鹿にされるんですけどね。まあ実際そう――」


「そんな事は御座いません!」


 急に大きい声を出した阿夜は、体が触れ合いそうな距離まで詰め寄る。。


「どわっ!? ……あ、阿夜さん……?」


「久野様の想うという気持ちは立派で御座います。何気ない事かも知れませんが、それは容易く真似できるものではありません。だから久野様は偉いのです。誰がなんと言おうと、ワタクシはそう思うております」


 真横、至近距離で言い放つ。きりっとした眉毛と切れ長の瞼に力を込めて、鬼は人をそう褒め称えた。久野からすれば大して気にしていない話題だったのだが、彼女は真剣に説いてきた。


 久野は言葉を失う。こんなにも真摯に受け止めるとは思っていなかったのと、感情的に迫ってきた彼女の気迫に押されたためだ。他愛の無い言葉に、まさかここまで反応するとは。そんな彼の頬は、次第に綻んでいく。


「……はは。今の阿夜さんも、相当にお優しいですよ。っはは」


「……ふふ。確かに。恐らく、久野様の優しさがうつってしまったのです。っふふ」


 それは申し訳ない、と返して、浅葱と燈は笑い合った。とても楽しげな声が双方だけを包み込む。


 ――いつの間にやら日は傾いていた。紅の一歩手前といった、薄い黄色の空。

 森の中に一条となって落ちる事も出来ないほどに、陽光は弱まっている。風も吹いてきて、世界は夜へと反転する為の準備を進めていく。


「っと。そろそろ帰りましょうか」


「はい。……はて、奈津様は…」


「…あれぇ? どこに行ったんだ…」


 周りを見渡すが、花の姿は全く見えない。この辺りに花は咲いていない為、彼女の花柄の着物はよく見栄えするのだが。


 ……少し、様子がおかしい。静かすぎる。元からの静けさとまた違う、まるで隠れる様な幽けさ。

 心なしか空気も重たい。深い重圧に内包されて、のしかかってこられた様に体が重い。徐々に紅に近付いていく空に嫌な気がしてきて、久野が口を開いた瞬間。









「いやあああああああ――!!」









 劈く叫び声が木霊した。

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