鬼の瞳

〆鯖

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第九話

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――――息を荒げて、久野は奈津を探す。


 悲鳴が聞こえた森の奥まで走ってきたのだが、奈津の姿はまだ見えない。尋常ではない叫び声を上げる程の出来事が彼女に起こった。ならば早く見つけ出さないと下手をすれば手遅れに――……考えすぎかも知れない。けれど、あの叫び声は普通じゃない。昂る気持ちを出来る限り抑えながら、彼は走り続けた。


 因みにいえば、阿夜の姿も無かった。悲鳴を聞いたのはお互い同時ではあったが、行動に移る早さと行動自体の速さが彼とは段違いだった。例えるなら蟻と鼠。本当にそれほどの違いで、阿夜は久野よりも先に駆け出し消え去ってしまったのだ。


 空は既に紅い。木の葉の天井がその色と混ざって赤黒く染まっている。繋がる隙間が血の筋に見えて、何故だか嫌な予感を連想させる。


「久野様!」


「うわあ――っ!」


 突然横から声をかけられ、思わず盛大に転けた。気配を感じなかった。元から無い物が急に現れたよう。

 その実、一町先に見つけた久野との距離を彼女は三歩で縮めてきた事など、彼には知ることも理解することもできない。


「……阿夜さん、か。一体どこに行ってたんですか……」


「話は後です。急ぎ此方に」


 言って、また消える。急を要するとはいえ、これに付いて来いとはある意味仕打ちだ。

 けれども今度は初見でなく、またその様を見れていたので、彼女が通り過ぎた後に乱れ舞う落ち葉を道標として認識できた。

 鬼の疾走を初めて目の当たりにした久野は暫し呆然としたが、すぐに気を取り直し、腰を上げて後を追う。


 そこでふと思ったのだが、阿夜が向かった先は、先程まで自分達がいた場所に近い方角だった。久野は自分なりに悲鳴が聞こえた先を目指したつもりだったのだが、どうやら森の中で音が反響して乱れていたらしい。

 五感の感覚が彼女と違い過ぎた。目を瞑ったまま支障もなく行動できる理由を聞いていたが、改めて、鬼という存在を彼は噛み締める。















 ―――――――――――――。

















「――っ!」


 小高い丘に辿り着いた。そこに阿夜がいて、下に顔を向けている。久野も一緒になって俯瞰して……、息を呑む。


 気を失って横たわる花の傍らで、茶色い毛だるまがのそのそと徘徊している。

 周りに敵はいないか、食事を邪魔する虫ケラはいないか、と思案する猛獣の姿があった。


「羆だ……」


「ヒグマというのですか、あの方は」


 方って……。久野は呟く。けれど直ぐに払う。そして即座に、奈津を救出する手だてを考えた。


 迂闊に近付く事はまず出来ない。何せ相手は山の王と称してもそれに十分値する存在だからだ。

 全長は優に十尺を超え、全身が毛に隠れていようと筋骨隆々の体躯は嫌でも目に付く。

 加えて分厚い皮膚という甲冑で身を包んで、爪に牙という鋭い刃物までも持ち合わせている。

 とどめに、一番厄介であるその身軽さ。巨体に似合わない速度を難なく生み出し、あまつさえ木登りまでも可能とする柔らかさも兼ね備えている。


 戦いに適した完璧な肉体、思考能力も群を抜いて高見に位置する。全てに於いて覇者と名乗るに相応しい獣。山の王などと冗談めいた冠は過言ではない。この生き物よりも強い動物を連想できるだろうか――否、それは些末だ。

 いないでいい。それは間違いではない。何故なら王とは常に孤高なのだから。


 様子見を徹する久野は正解である。

 大切な幼なじみが危機に瀕していよう、それを優先させる事は真に正しい。自分と相手の差をよく理解している。


 ……ただ、今回は例外が一つある。


「えっ――」


 彼と手を組んでいた者が、鬼という事だ。


 阿夜は躊躇いなく丘から飛び降りた。さくっ、と優雅に着地して、姿勢正しく直立不動で相手と対面する。突然の来訪者に、羆は牙を剥き出しにして本能による臨戦態勢に入った。


「阿夜さっ…何して――!?」


 彼が戸惑うのも無理はない。あれほど危険な存在に華奢な肉体で立ち向かうのだ、戸惑うどころか若干の怒りさえこみ上げてくる。何とかして自分にできる限りを尽くさねばと起き上がった久野に対して、



「久野様。今日は御馳走で御座います」


 鬼は、微笑んだ。



 ……何を言った。いま彼女は、何と言った。久野の頭に不可解な言葉が渦巻く。意味はわかる。わからないのは、何故それをいま言ったのか。


「――やはり、同じ匂い。あの方達もヒグマという名前だったのでしょうか」


 誰に言った訳でもない悠然とした独り言。


 目の前に何がいるのか、恐らく殺気も感じ取れるであろう彼女ならわかっている筈なのに、余裕の空気を一切乱していない。牙を噛み締めて今にも飛びかからんとする敵意を前に、まるで客人を迎え入れる様に綺麗な姿勢を保っている。


 ――ふと。久野の脳裏に、あの夜の事が蘇ってきた。

 彼女の身なり、酷く汚れた風貌。土の茶色と……“何か”の黒色――。


「……!」


 答えを導き出す前に、事は始まってしまった。


 堪えを解いた羆は野太い咆哮と共に、その巨体を阿夜に向かって疾走させた。四肢で大地を蹴りつけ揺るがし、丸太を思わせる体躯を加速させ迫る。立ちふさがる障害を破壊せしめんとする強大な力が、佇む細身の女性に一直線に突進する。

 こんなものが直撃したならば一溜まりもない。意識を一瞬で閉ざされ、痛みを感じる間もなく命を落とされる事が目に見えて理解できる。

 羆と阿夜の距離は手が届く程。つまり、避けようにも時すでに遅し。


 このまま体をくの字にへし折られて死に絶える彼女の姿――もとい、


 体をくの字に叩きつけられて地面に頭を埋める獣の姿があった。


「は……?」


 過程など視認できていない。認識できたのは結果。突進してきた羆の頭頂部を拳で殴りつけ叩き伏せた阿夜の姿のみ。彼が予想した最悪の光景なんてものは、其処には微塵もありはしなかった。


 ……羆は体を震わし、埋まっていた頭を引き抜いて土を振り払う。まばたきを数回して焦点を合わせた目は、にこりと笑う少女を捉えた。

 ――飛び退く。そして前傾姿勢のまま、己が殺そうとした者は己を容易く殺せる者と今更ながら知った。


 まっとうな獣ならば、ここで逃げ去るのが常套である。正しい本能とは勝ち目のない勝負はしないもの、それは恥とはいわない、それは利口という。

 しかし悲しいかな。この獣には――が在ってしまった。










 売られた喧嘩など、呆気なく負かしてきた。


 見つけた獲物など、容易に捕まえてきた。


 王として山を闊歩し、王として山を蹂躙してきた月日は愉しかった。


 それは誇りでもあった。


 自分こそが頂点であり、その他の生き物全てが格下。自分のやる事は何もかもが当たり前で何もかもが正しい。自分は――孤高だった。


 虚勢でも傲慢でもない。それほどの実力は確かにあり、理想を幾度となく実現してきた。故に、これは間違う事なき孤高。何者も侵害できず何者にも侵害できるこの存在こそが、自分という生き物なのだ、と。










 ――――自尊心など生まれない訳がない。


 この獣は確かに唯として生きてきた。そうした生を謳歌してした。言わば、それは自分に向けた褒美なのだ。

 だから彼は、それを傷付けられた事が酷く気に食わなかった。


 獣は立ち上がる。四足を二足と変えて、両腕を広げ巨大な畏怖を放つ。丸太の次は大樹。その姿たるや圧巻の一言、まるで丸呑みにされてしまうのではないかという錯覚は必然だ。

 王の誇りを懸けた本気の姿勢で右腕を振りかぶった。ぎちぎちと唸る筋肉に力を込める。ぎらぎらと輝く爪に怒りを込める。

 足を踏み出すと同時にその暴力を解放し、己を穢した憎き相手を切り裂き殺す。二度と目の前に現れぬよう今この場で抹消する。そうして己は孤高である事を新たに証明する。


 ――――――――のは、実現できない理想。


 対向してきた拳に爪を折られ、肉を潰され、骨を砕かれ、右腕が爆ぜた獣の姿が其処にあった。


「あ――これは……ワタクシとした事が……」


 阿夜は呟く。破砕した感触を拳に、彼女は後悔する。


「熊の手は大変貴重な薬と聞きます。ならばあなた様の手はそうであるでしょうに……潰してしまいました」


 鬼は嘆く。名前をつい先ほど知ったとはいえ、あまりにも軽率な行為をしたと。


 しかしそれは相手を思いやる言葉ではなく。彼女はただ、勿体無い事をした、と言っただけである。

 無くした右手の激痛で叫びにならない悲鳴を上げ、のたうち回る獣の状態など、彼女には特別気にするものですら無かった。


 ――間欠泉の如く血は吹き出る。


 剥き出しの肉と骨は普段目にする事がない為、自分の物かと思わず疑ってしまう。現実逃避ではない、至極当然の事。その状態が何を意味するか、生き物とは無意識に理解しているから。それでも痛覚は勝手にきちんと役割を果たすので、やはりそれは自分の物だと狂うほどの痛みで理解させられてしまう。

 羆の頭には何が駆け巡っていよう。自慢の暴力がものの見事に物ごと消失させられた。腕を振るって手を無くしたなんて事象に、獣は何を思うのか。


 憤怒?悲哀?恐怖?憎悪?虚無?


 はたまた、


 歓喜?快楽?恍惚?滑稽?空虚?


 違う。どれも違う。そんな難しい考えではない。そんな洒落たものではない。これはとても単純で。


 ――痛い、だ。

 死にたいくらいに痛い、だ。

 早く殺してほしいほどに痛い、だ。

 痛くて痛くて痛くて痛くて痛くて痛い、だ――。


 最早そこに王としての威厳も振る舞いもない。あるのは痛みに耐えきれずに暴れ回るという無様さ。生き物全てに才能として備わっている阿鼻叫喚狂喜乱舞。


 ……彼女には、それはどうでもよい。痛かろうが苦しかろうが、彼女にはそんなもの関係ない。目的が一つなのだから、それだけに従って行動するのみ。


 飛び込む。


 斜め前十歩先で仰向けになっているのは視えている。そこへ風の速さで向かって、馬乗りになって左手首を殴る。断裂。勢い余って地面の内部にまで届く殴打は容易く羆の左手を分かつ。


 絶叫――声を通り越した魂の叫び。


 左右に激痛が走る体躯は最早痙攣しかしてくれない。いつしか涙なんてものが溢れてきたが、それが何であるかは獣には理解できない。理解できたのは、胴体に何かが入ってきた事。


 ――引き抜く。


 血飛沫を浴びる。生臭い液体は気にせず、粘着質に血塗れた拳に再び力を込めて落とす。分厚い皮膚と強靭な筋肉を紙の様に破いて、骨と腑をぐちゃぐちゃに散らかす。


 吐血――押し潰されていく己の命。


 体験の仕様がない初めての感覚を、遮る事も阻む事も赦されずに受ける。まるで陵辱されているかの様。だが辱められた気持ちはなく、混濁した意識が更に入り乱れるだけ。その他様々な思いは胴体の風穴から血と一緒に漏れていく。


 ――引き抜く。


 血飛沫を浴びる。赤黒く染まりゆく無表情。奈津から貰った燈の着物は見るも無惨な色に変色していた。そして着ている本人もまた、肌も髪も返り血でべっとりと濡れている。だが、それでもその美貌は全く見劣りしない。悪寒すら、妖艶で覆い尽くす。


 無言――諦めを決めた虚ろな瞳。


 その後も何発もの衝撃が胴体を穿ったが、体が上下するだけで何も感じなくなっていた。痛みなど無くて、ただ眠くて……眠くて。もう限界だ。このまま死を待ちわびる様に、あの愉しかった日々を思い出しながら、目を瞑る。六度目の衝撃で、完全に意識は消――――――……













 ―――――――――――――。















「――――」




 久野は、その様子をただただ見つめているしかなかった。大型を蹂躙した小型。為す術もなく殺されてしまった羆と、真っ赤に染まり立ち尽くす少女の姿。


 あまりにも呆気なく、あまりにも圧倒的で、あまりにも酷い有り様。まるで人形を壊すかのように、彼女は羆という生き物を容易く殺した。そこには慈悲も憐れみも一切ない。ただ“殺す”だけを執行した、鬼の闘争があった。


 くるり、と少女は振り返る。靡く髪と袖から血が飛ぶ。歩く度に血が垂れ落ちる少女は、丘の前まで来て、上を向き――


「久野様。熊鍋はお好きで御座いますか?」


 にこにこと、いつもの愛らしい笑顔でいた。

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