イヴの誘惑

櫂 牡丹

文字の大きさ
上 下
7 / 9

イヴの誘惑

しおりを挟む
「楽しかったよ。凛々しさと愛らしさを兼ね備えた動物に出会えてね、仲良くなれたんだ。彼らは群れで行動するんだけどリーダーにとても柔順なんだ。他にも面白い動物がたくさんいたよ。鼻がとても長い動物に首がとても長い動物。君にも見せたかったな」

 子どもでもこんなに鼻が長いんだよ、と言いアダムは両腕を大きく広げました。

 朝靄の中、アダムはケルビムと共に帰ってきました。

 帰ってくるなり私が採集しておいた果物を勢いよく食べ、私が川から汲んできた水を飲み干したアダムは今、倒木にもたれ掛かり旅の出来事を語っています。私は時々、適当に相槌を打ちます。私の心は知恵の樹の実のことでいっぱいで、アダムの話などどうでもよいのです。

 私はねぐらに、蛇に頼んで採ってきてもらった知恵の樹の実を隠していました。

 私は悪い子になりました、お父様。

 いつアダムに実を差し出しましょう。別に、本当に食べさせるつもりなどありません。これは賭けなのです。アダムがお父様の言いつけよりも私の言うことを聞いてくれるか。たとえ「死」という旅に出ることになっても、私と二人なら構わないと言ってくれるか。

 饒舌に話し続けるアダムを遮り言いました。「あのね、アダム。今日は特別なデザートを用意しているの」

 最初それを取り出した時、アダムはとても嬉しそうに手に取り、早速食べようとしました。私は慌ててアダムの手を止め、「これは知恵の樹の実よ」と言いました。

 アダムは怪訝な顔をして、「知恵の樹の実は食べちゃいけないんだ、本当は触ってもいけないんだよ。イヴ、忘れてしまったのかい? お父様の言いつけを」

「いいえ。でも食べたら死んでしまうというのはお父様の嘘なの。私たち、お父様に偽りを言われたの」

「そんなわけないじゃないか。誰に聞いたんだ?」

「……ガブリエルよ」私は咄嗟に偽りを言いました。蛇の話をアダムが信じるはずがないからです。「ガブリエルが食べるところをこの目で見たわ」

「天使には良くてもヒトには毒なのかもしれない」

「大丈夫よ。だってこんなに美味しそうなのよ? 毒なわけがない」

 朝露に濡れ、つややかに光る実は、芳醇な甘い香りを発していました。確かにこないだ萎びさせてしまったものよりもずっと赤く赤く美しい。滑らかな曲線はきっと私たちの口を優しく受け入れてくれるでしょう。

 アダムは実をじっと見つめ、喉を鳴らしました。

「ね、きっと美味しいわ。一口だけ。一口だけならお父様もわからないわ」

「そんなわけがない。お父様はなんでもお見通しだよ」

「でもせっかくアダムのために採ってきたのよ。一緒に食べましょう」

 私の願いならば、死んだって構わないでしょう? それが愛するということでしょう?

 アダムは不機嫌そうな顔で実から目を背けました。「僕は、いらない」

 罪、という言葉が頭に浮かびました。私は食べてはいけない実に触れて、アダムに蛇のことを隠す悪い子だけど、きっと罪人ではなかった。今日までは。

 私は罪を犯そうと思いました。アダムを手に入れるためだったら何だってしてみせる。アダムを破滅させたい。アダムを一番に愛しているのは私だと証明したい。アダムに一番に愛されたい。私はアダムの附属品じゃない。私はリリスの代用品じゃない。

 私は知恵の樹の実に齧りつきました。歯を当てた瞬間から汁が湧き出て私の下唇を、顎を、つたって地面へとしたたり落ちます。爽やかな香りが鼻腔を抜けて脳天まで届きます。水分まで全て咀嚼してから飲み込むと、もっともっとと喉が求めます。手が汁でベタベタになって気持ち悪いのに気持ち良い。

 一口だけのつもりでした。けれど私はアダムに声をかけられるまで夢中で貪っていたようです。

「イヴ! イヴ!」

「なぁに?」

 アダムが私の両肩を掴みました。アダムの手は大きく、力強い。私はアダムにもっと触れたくなりました。肩を掴まれたまま、アダムの二の腕、鎖骨、胸、下腹までを、実を持っていない方の指でなぞりました。はち切れんばかりの筋肉は、磨いた石のように硬く滑らかでした。

 アダムは声を漏らしました。私はアダムを懐柔している快感に震えました。

「あぁ、その実はとてもうまそうだ。それを食べている君の唇。たくさん汁がついてしまっている」

 アダムは私の唇を舐めました。私はアダムの舌の感触を私の舌で確かめてみました。アダムの舌は少しざらついていて、絡ませると私の唾液とアダムの唾液がどんどん溢れ出し、混ざり合いました。アダムの舌はまるでアダムとは切り離された一つの生き物のように私の口内を縦横無尽に動き回りました。

「甘いな」
 
 アダムが溜息のように呟きました。

 私はアダムの腕を解いてアダムの口の前に実を差し出し、

「食べる方がずっと甘いわ。さぁ食べて。死なないわ。ね」

 アダムは恐る恐る一口齧りました。そして全身を震わせながらそれを噛み締めました。シャクリ、という心地よい音が私の耳に届きました。

 アダムの目は急に虚ろになり、涙の膜が張ったように潤みました。

「さぁ、もう一口」

 私はずいとまた実を差し出しました。アダムは私の手から実を奪うように掴み取りました。アダムが実を食べ進めるとどんどん汁が滴っていきます。私はアダムの体にこぼれた汁を舌で掬い上げて飲み込みました。アダムの胸、脇腹、太腿。吸い上げるとアダムは「あぁ」と吐息を漏らします。その声を聞くと心の奥底が熱くなります。

 アダムは実を食べ終わると、私の胸を凝視して、「君の乳首は知恵の樹の実に似てる。赤くて瑞々しくてうまそうだ」と言いました。

 私が「じゃあ食べてみる?」と笑うとアダムがそこをかじったので驚きました。私たちは互いの体を舐め合い、吸い合い、かじり合いました。

 いつも見て、触れているはずのアダムの体に、初めて触れたような不思議な気分でした。そして、きっとそれはアダムも同じなのだと思います。実を食べていた時のように、私の体の隅々までアダムは貪り触れたので、時に痛いくらいでした。けれど私は今までにない幸福を味わいました。私に欠けていたのはこれなのではないかしら。アダムからの愛を最も感じた時間でした。


✽ ✽ ✽


 私たちは満たされた倦怠の中で眠りこんでいました。

 昼頃起き上がった私たちは何もする気がおきず、仕事はお休みにして、川に行き二人で水浴びをしました。

 アダムは時々「知恵の樹の実を食べたのは良くなかった」とか「大丈夫だろうか」とか「死んだらどうなるんだろう」などと切迫した調子で言いましたが、私に不安は何もありませんでした。ただただこの幸福な時間が続けばいい。いいえ、この時間に終わりがきたとしても、この思い出があるだけでいい、そんな気がしたのです。

 幸福な時間は長く続くことはありませんでした。

 水浴びで濡れた四肢のひんやりとした心地良さが過ぎ、肌寒くなってきた私たちはねぐらの近くにあるイチジクの葉をとり、体を覆いました。
 
 私が葉を腰に巻いた時、アダムは「君はとても美しい」と言ってくれました。またアダムは、「どうして今までイチジクの葉を綴り合せることを思いつかなかったんだろう。こうすれば少しは暖かいのに。でももっと体中を覆えるものがいいな。天使たちの衣のように」とも言いました。

 私たちはもっと体を暖めるために枯れ枝を集め火を焚くことにしました。アダムと並んでゆっくり歩くのは、随分と久しぶりに感じました。昨日まで、嫉妬していた自分が馬鹿らしく思いました。つがいというのはこんな風に落ち着いた心持ちでいるのが正しいことなんじゃないかしら。これが知恵を知ったということなのかしら。

 その時です。私の心が私を無視して歓びに沸き立ったのは。嫌だ、嫌だ、私は落ち着いて、静かな気持ちの中にいたいと思うのに、心が勝手に跳ね上がったのは。

 私は隣のアダムを見ました。アダムは法悦に浸っていて、私の方を向きませんでした。

 お父様の御声が聞こえました。アダムは我に返り、

「どうしよう、僕らの体は互いの齧り跡がついている。こんな醜い体をお父様に見せるわけにはいかない。あぁこんな時天使が身に着けているような衣があれば」

「とにかく隠れましょう」

 私たちは木の間に隠れ、お父様が通り過ぎるのを息を殺して待っていました。

 けれどすぐに私たちは見つかってしまったのです──。



しおりを挟む

処理中です...