イヴの誘惑

櫂 牡丹

文字の大きさ
上 下
8 / 9

イヴの知恵

しおりを挟む
 私たちへの罰はどうやら、エデンからの追放ということになったようです。

 私は樫の木の丘へ行きました。そこから知恵の樹を望みました。あんなに焦がれた知恵の樹の実が、今は他の果物と何ら変わらなく見えます。

 アダムは自らが名付けた動物たちにお別れを言いに行きました。

 私はエデンで数少ない話し相手であった蛇に挨拶をしようと思いました。

「なぜなのですか?」

 声をかけてきたのはケルビムでした。その顔は不自然に歪んでいました。天使は肉体を持ちません。便宜的にお父様の似姿を借りているだけなのです。なのに顔に感情を浮かべている。私は何か愉快な気がしました。

「この世界であなたたちほど主に愛されている者は他にないのですよ。それなのになぜ主を裏切るようなことを」

 今度は心底わからないといった風に首を左右に振りました。それを見るとますます可笑しさがこみ上げてきます。

 私は笑い出さないように気をつけながら「主に愛されているのはアダムです。私は附属品です。リリスと別れて寂しがったアダムのために主が創られたのが私です。アダムのために創られたに過ぎません」と言いました。

「それでも主はアダム同様あなたのことを愛されていました。あなたは愚かゆえ、主の御心が理解できなかったのです」

「えぇ、ヒトは愚かに創られたのですから。知恵の樹の実を食べなければ愚かなままでした」

「あなたは何もわかっていません。あなたたちが犯した罪の真の意味を」

「ケルビム、あなたもわかっていませんよ」

「何のことです……まさかあなたは蛇と不貞を働いたのですか」

 私はついに笑い出しました。

「何を笑っている」

 ケルビムは声を荒らげました。

「ごめんなさい、だってあんまり可笑しいんだもの。敏い方の考えることって回りくどいのね」

「お前たちヒトは確かに世界一主に愛されている。だが主の偉大な仕事の担い手は我ら天使である。そのために主は我らに知恵と力を授けられた。どちらがへりくだるべきかよくよく考えよ」

 ケルビムの全身が炎に包まれました。

「ごめんなさい。けれど私が愛しているのはアダムだけなのです。蛇だってそれは同じはず。リリス一人を愛しているでしょう」

「愛しているのならばなぜ罪を犯させるようなことをしたのです」

「あなたもヒトの女になればわかりますよ」

 ケルビムの炎は足先から上へと順々に消えていき、いつもの冷静な顔つきに戻りました。

 そこでアダムが丘を駆け上がってきて私に抱きつきました。

「探したよ。君がいなくなってしまったかと思った」

「あらどうして? いなくなったりしないわ」

「お父様の罰で君まで取り上げられたかと思ったんだ」

「罰は追放よ」

「アダムよ、あなたたちは追放されますがイヴが取り上げられることはありません、今はまだ。私はこれを届けにきたのです。受け取りなさい」

 ケルビムが右の掌を空に向けると空中から黒っぽい物体が現れました。それが私たちの方へと浮遊しながら近付き、目の前で止まりました。と、アダムが叫び出しました。

「あぁ! そんなっそんなっ!」

「受け取りなさい、主からの愛です」

 アダムは震えながらそれを掴むと膝から崩れ落ちました。

 ケルビムは私の方に顔を向け、もう一度「受け取りなさい、主からの愛です」と言いました。手に取るとそれはごわごわとした毛に覆われていました。

「なんてむごいことを」

 アダムは黒い毛に頭を押し付けながらおいおいと泣いていました。

 私がケルビムに向って顔を傾けて見せると、ケルビムは「動物の毛皮です。これを着て出て行きなさい」と言いました。「エデンの外は寒暖差が激しいのです」

 あぁなんだ。アダムが名付けた動物なのか。馬鹿だなぁ。

 私は泣き崩れているアダムの肩にそっと手を置きました。

 お父様はアダムに、一生苦しんで食を得なければならない、と仰いました。エデンの外には豊富な果物なんてないのです。時には動物の肉を喰らわなくてはいけないし、時には剥いだ毛皮でこの身を守らなくてはいけないでしょうに。そして動物を狩るのは、私より力の強いアダムの仕事になるでしょうに。馬鹿で愛おしい私だけのアダム。

「あなたたちが罪を選びました。罪には贖いが必要なのです」

 ケルビムがアダムを見下ろし言いました。

 アダムは片膝を立てなんとか立ち上がろうとしています。

「罪を悔い改め、主を信じるならば、あるいはいつしか赦される日が来るかもしれません」

「私、赦されようだなんて……」

「口を慎みなさい」ケルビムは私の言葉を遮りました。「全ては主のご意志によって決定されるのです。あなたの意志など関係ない」









しおりを挟む

処理中です...