ツバメ令嬢は空を舞いたい -How to Raise your Swallow-

アイザッカ

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私の道は北のどちらへと?

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「グレーンヴァルト嬢、お前との婚約を破棄する」
「なぜですの……? 結婚式まであと2月ですのに」
「お前には飽きた」

 デビュタント・ボールの盛り上がりも落ち着いたころに聞こえた妙な会話。ジョセフィンは視線を男女に向けた。
 男の言葉にグレーンヴァルド嬢は膨らむように目を開き雫を溜めた。歯を食いしばっている。ジョセフィンは一歩足を踏み出した。2人の会話はヒートアップしている。ほぼ口論だ。

「黙れ!」

 パシャッ。

 男がグレーンヴァルド嬢の頬をワイングラスでぶった!
 私はとっさに走った。男を背にグレーンヴァルド嬢の前にしゃがんだ。

 グレーンヴァルド嬢は「あなたは?」と唇を震わせた。

 こそっとハンカチで頬の血を拭いた。顔や首に掛かったワインを拭き取っていると、グレーンヴァルド嬢が涙を流した。あわわ。

「お前は誰だ?」と男が低い声を出した。
「ジョセフィンです」と拭う手を止めず答えた。「服のシミは叩くようにすればそれなりに取れますよ」とグレーンヴァルド嬢にハンカチを渡した。

 グレーンヴァルド嬢は男を窺うように一瞬視線を上げた。だがすぐにハンカチを受け取り、控室へ退いた。男が動く気配があった。
 私はハァと息を吐いてから立ち上がった。誰だろう、この人? 首を傾げた。
 男はふぅふぅと荒い息をしている。目は明らかにブチギレている。

「お前は、誰だ?」
「私の娘だ」と大きな冷たい手が私の肩を後ろに引っ張った。

 振り返るとお父様がすごくすごく冷たい目で男を見ていた。お父様は私を自分の背後にやった。

「お前は今日デビュタントを迎える者の名前すら知らなかったのか?」
 男は「まさか、ヴィア公爵の令嬢だとは……」と青ざめ子犬のように震えている。「ご令孫だと思っておりました」
「ほう……?」とお父様は地を這うように低く声を響かせた。「本日、デビュタントを迎えた者の中で最も身分の高い娘の、父親の名すら知らなかったのか」

 お父様、白髪多いし58歳だもんね。そりゃ孫と間違われるか。

「ジョセフィン。余計なことを考えるな」とお父様が振り返って睨んだ。
「はい」

 怖。
 お母様が来て、私の手を取った。さっさと離されてしまった。

「まったく、見なさいよ。ドレスにシミがついているじゃないの。ワインだから取れないわよ」
 
 そして、その日の舞踏会はシンとしたまま終わった。

 
 翌々日、また舞踏会があった。
 今日は濃ゆい赤の肩が剥き出しになったドレスを着ていた。お母様曰く「肌の白さと、眩い金髪が映える」。
 シャルロット王女と、叔父にあたるマキシマス王子のワルツを見守った。叔父と踊る、ということは16歳のシャルロット王女はまだ婚約なさっていないのかしら。ゴーディラックの王弟と婚約なさる可能性が高いと聞いたけど。シャンパンを片手にしているゴーディラックの王弟ケネスをそっと横目で見た。目があった。軽く会釈してから、視線を戻した。
 ワルツが終わると紳士が一斉に動いた。お目当ての令嬢を探しに行くのだろう。数人こちらに近寄ってきた。けれどもお父様とクラリモンド兄様に断りの返事を入れられていた。だが、若い男性が1人、許されて来た。シャルロット王女の15歳の弟だ。

「ジョセフィン・ド・ヴィア嬢」
「はい」と私は顔を上げた。「フィリップ王子」
「ワルツを一曲、ご一緒出来ませんか?」

 こっそり横目でお父様を見た。頷いている。
 だから先生に言われた通り、微笑んで会釈した。フィリップ王子のエスコートを受け、ホールの中央に進んだ。軽快なワルツが流れた。
 王子は踊りが上手であっという間に終わった。ちょっと私が足を踏んじゃったけど。

 曲が終わると私たちはお辞儀をした。

「楽しそうですね」とフィリップ王子は笑った。
「そうですか?」
「はい」

 それから笑い合った。お父様の視線を感じるけど、気にしない! 私たちは同い年だから良いじゃない!次の曲が始まってもお喋りが続いて、途中で止めに来たはずのドーリーマ姉様も混ざった。
 笑い合っていると突然、フィリップ王子の表情が真面目になった。

「王弟殿下、僕になにか御用ですか?」

 王弟殿下? マキシマス王子を呼ぶにしては余所余所しくない?
 振り返ってみた。銀髪の……。
 あ。ゴーディラックの王弟だ。
 ドーリーマ姉様は目を丸くして一歩退いた。私も退いといた。王子と王弟で大事な話だろう。

「ご安心ください、王子殿下」と王弟は目を細めて微笑んだ。「私はただ、そちらのご令嬢に用がありまして」

 私はそっとドーリーマ姉様を王弟の方に押し出した。肘で小突かれた。
 王弟は私たちに近づいてくると、私の前に立った。え。

「ヴィア公爵家のジョセフィン嬢。次の曲は花のワルツだそうですよ。ご一緒に踊っていただけませんか?」

 背中に冷や汗の流れる感覚があった。視線でお父様を探すと、国王と会話していた。私の視線と状況に気づいたようだが、頷いてきた。いや、この人こそ断ってよ。ドーリーマ姉様は既に逃げていた。ズルい。前奏が流れ始めた。
 とりあえず頷いた。大事なのは最初の踊りと最後の踊りだから!

 優雅で柔らかなチャイコフスキーで踊っている間、私の顔は少し強張っていたと思う。
 王弟が腰に腕を回してきた。

「ジョセフィン嬢」と踊りの最中に囁いた。「以前、あなたの姉君に託した手紙は読んでいただけましたか?」
「ええ」と無理やり笑った。「と、言うか本当にあなたが寄越して来られたのですね。いたずらかと思いましたわ」
「イタズラでも戯れでもありません」

 クルリと回った。彼は迫るように目を光らせた。

「以前お会いした時から続く想いです。私はあなたに心を寄せております」

 私はパチパチと瞬きした。彼は声を潜めた。

「私の真心を受け取っていただけますか?」
「いいえ」と食い気味に答えた。「あなたがティレアヌスに婿として来るのでない限りは」

 王弟の目が戸惑ったように揺れた。ちょうど曲が終わったのでお辞儀をして別れた。
 通常ゴーディラックでは成人した王太子以外の男性王族は貴族となる。なのに王弟は王族に残っている。何か事情があるのだろうから、ティレアヌスに婿として来ることはないだろう。
 背中に強い視線を感じる。でも、求婚は絶対に受けない。

 少し早歩きで踊りを適当に断りながら進んだ。軽食でも取りたい気分だった。

「ヴィア嬢」と知った声が掛かった。

 まさか、と少しワクワクしながら後ろを見た。

「イーリアス様!」と駆け寄った。「お久しぶりですね! 何年ぶりかしら? もうモンテルス領は大丈夫ですの?」
「はい、お陰様で。あなたはお元気そうですね」とイーリアスは嬉しそうに目を細めた。「それにお美しくなられて……」
「年寄りみたいな褒め言葉ね」と私は笑った。
「ゴーディラックの王弟よりは年上ですからね」
「あなたは18歳でしたよね?」
「いえ、先日19歳になりました」

 まあ、とイーリアス様を見上げた。3年前よりは身長の差もかなり縮まっていて、私の目がちょうど彼の唇辺りだった。もう少し伸びないかな?
 軽く話しながらテーブルの前へ行った。

「ヴィア嬢。お話したいことがあるので、東屋へ行きませんか?」とイーリアス様は少し切羽詰まった目だった。
「東屋って、恋人同士で行くところでしょう?」と私は訝しんだ。「姉から聞きましたわ」
「存じ上げております。しかし」

 イーリアス様はふと周囲を見た。それから小さなケーキが載った小皿を渡してくれた。イーリアス様はワインを一口飲んだ。チョコレートケーキ美味しい。

「場合によっては周囲に聞かれない方が良い話ですので」とイーリアス様は話を続けた。
「そうなんですか? なら行きましょう」と私は頷いた。イーリアス様だし不実なことはしないだろう。手紙の返事はくれないけど。

 イーリアス様は手を伸ばした。彼の手を取った。
 外に一歩出た瞬間、身が竦んだ。びゅうと冷たい風が吹いていた。雪は降れど、積もらないのがティレアヌス。それでも1月だった。
 とっさにイーリアス様が腕を伸ばしたが、すぐに引っ込めた。

「申し訳ありません。夜会であることを一瞬失念しておりました」と彼の視線は私の肩の辺りに向かっていた。
「嫌よね。真冬でも肌を……」
「それ以上は口を慎みください」

 ポルカが始まった。
 イーリアス様はハァと息を吐き、壁に引っついた。

「では、声を潜めてここでお話しましょう。あなたは僕の母と、あなたの祖母が密かに取り決めていたことをご存知ですか?」
「お祖母様が?」と私は小さく首を傾げた。「いえ、存じ上げませんわ」
「そうですか。ただ当時のあなたは12歳だったので想定内ではありました」

 ワインを口にするとイーリアス様はまた周囲を見た。その間にケーキを食べた。

「どんな約束ですの?」
「婚約です。あなたが15歳になり成人した暁には、僕とあなたが正式に婚約する、と言う約束でした」

 一瞬ケーキの味を忘れた。

「えと、つまり……」と思わず私はイーリアス様を見つめた。「だから祖母が亡くなった時、気にかけてくださったのですか?」
「それは違います」

 ちょうどダンスが終わった。皆、食事のため中央にあるテーブルへと向かっていた。私たちがいる壁際は空いていった。
 オーケストラは「金平糖の精の踊り」の演奏を始めた。
 イーリアス様がゴクリと飲み込んだ。

「お祖母様が亡くなられた時は、12歳だったあなたが心配だったからです。ですからラングレッド嬢と笑い会えているお姿を見た時は心底安心いたしました。彼女はお元気ですか?」
「ええ、とっても元気よ。今は私と一緒に教会で仕事しているわ」

 教会、という言葉を口にした時、イーリアス様の口の端が微かに引き攣った。彼はワイングラスを、通りがかったウエイターに渡した。イーリアス様は跪こうとしたようだが、止めた。そして、私の手を握った。白い手袋越しに。

「アウレリオのツバメ令嬢と呼ばれるヴィア嬢。私は3年待ちました。どうか、私が治めるモンテルスに、その翼を与え、帰る地とする栄誉をお与えください」

 ゆっくりと目を開き、私はイーリアス様を見つめた。
 3年。優しい年上の大人だった16歳の彼が、モンテルス領での毒物騒ぎを経て少年らしさを脱ぎ捨てた19歳になる年月だった。
 その3年で私は何をしただろう? イーリアス様を支えられる女性となれるのだろうか?

 ゆっくりと考えながら、首を傾げた。

「モンテルス領は今、あなたが治めているのですか?」
「はい」とイーリアス様は微かに顔を曇らせた。「昨今の事件はあなたもご存知でしょう」
「ええ、もちろんよ。でも領主一族はご無事だと聞いたけれど」
「それは表向きの情報です。父は毒を受け、解毒が遅れたため影響は抜けておりません。昨年の春は車椅子であれば執務が可能でした。しかし、秋に入ったころから床から上がれずにいます。そして今は、会話もままなりません」

 話し終えるとイーリアス様は息を吐き、俯いてしまった。私は彼の頬に手を伸ばした。少し冷たい。

「夜、お休みになれていますか?」

 イーリアス様は躊躇ったが、ゆっくりと首を横に振った。化粧で隠しているみたいだけど、青茶色の隈が見えている。
 私に何かできること……。

 口を開きかけると、クラリモンド兄様が来た。イーリアス様はクラリモンド兄様に気づくと恭しくお辞儀をした。

「ご無沙汰しております、ヴィア准公爵。妹君に伺いたいことがあり、本人と話しておりました」
「そうでしたか」とクラリモンド兄様は軽く私の腕を引き背後にやられた。「求婚なら、まず父に話を通してください。フィリップ王子もそうなさいました」
「ヴィア公爵との面会の以来でしたら、ご多忙のようで却下され続けておりました。ですからヴィア嬢本人に求婚しておりました」

 ん? クラリモンド兄様がサラッと言ったことが気になるんだけど。フィリップ王子が求婚!? ドーリーマ姉様に? それとも私に?
 背筋に小さな震えが走った。もし、ゴーディラックの王弟がお父様に話を通していたら?

「クラリモンド兄様」と私は前に出た。「お話が続くようでしたら、私、ドーリーマ姉様を探しに行きますね」
「ああ、そうすればいい」

 私は軽くお辞儀をした。わざとイーリアス様にぶつかるように通り過ぎた。

 「明日ご予定がなければ、昼の2時にアウレリオの平民街教会でお会いしましょう」と早口で伝えた。頬が熱い。心臓が早い。兄様にバレていませんように。

 それから、何人かに踊りの申し込みもされた。けれど、お父様とクラリモンド兄様に尽く断りの返事を入れられていた。
 最後の踊りが始まるころ、王弟から相手を申し込まれた。だから首を横に振った。

 舞踏会が終わり、家の部屋で眠りにつく直前、思い出した。そう言えばイーリアス様とは踊ってなかった。

 朝になった。カタリナのいない朝支度に慣れてきた。キラキラとした目のマルタに髪を梳かされながら、救貧院について考えた。
 昼食を取った後、ラピスラズリ色のワンピースに着替え、雀色のコートを羽織った。馬車に乗り平民街へと向かった。教会に着くと、コートのボタンを外した。チャンソン牧師と新年の挨拶してから、救貧院に入った。予算に悩まされながらも、寝室に設置したストーブは煌々と部屋を暖めていた。孤児院では子どもに帳簿の読み方を聞かれたが、分からなかった。ごめんねぇ。

 教会に戻るとイーリアス様が十字架を見つめて立っていた。私は思わず走りかけた。

「ごめんなさい、一方的にお約束しながら遅れてしまって」
「いえ。大丈夫ですよ」とイーリアス様はこちらを見て小さく笑った。「頬に煤がついていますよ」

 笑いながら拭いた。ついでに救貧院にストーブが入った喜びを分かち合った。そして、本題に入った。

「イーリアス様。私があなたの妻となる、それは未来の辺境伯夫人となることを指すのでしょう?」
「はい。しかも結婚直後にあなたが辺境伯夫人となる可能性すらあります」

 ゆっくりと白い息を吐いた。イーリアス様は手袋を貸してくれた。手袋をはめてから顔を上げた。

「私は、辺境伯の妻としてイーリアス様とモンテルス領を支えるに足るでしょうか?」
「もちろん」と彼はすぐに頷いた。「素質は溢れるほどにおありです」
「本当に?」
「はい。ただ……」

 イーリアス様は言葉を詰まらせた。私は顔を覗き込んでみた。私の視線に気づくと、イーリアス様は小さく笑った。

「簿記はわかりますか? 帳簿のことです」
「いいえ。さきほども子どもたちに聞かれましたが、サッパリでした。でも数字の計算ならできます」
「では看護や医療については?」
「血を拭くくらいなら」
「作物や、人員雇用についての知識はおありですか?」
「普段食べているものの材料くらいなら何となく。人員雇用については全くわかりません」
「わかりました」とイーリアス様は少し視線をズラした。
「これを身につければいいんですか?」と私は身を乗り出した。「家庭教師の先生に聞けば覚えられるのかしら?」

 イーリアス様は首を横に振った。公爵令嬢につけられた家庭教師では教えてくれないだろう、とのことだった。
 私は少し頭を捻った。

「帰りに本屋へ寄ったら……あるかしら?」
「あるでしょうね。選ぶのをお手伝いしたいところですが、帰る時間が迫っているのでオススメの本の題だけも教えますね」とイーリアス様は書字帳に殴り書いた。

 イーリアス様は紙を渡すと先に帰ってしまった。領主代行も大変ね。
 私はメモに目を通した。

 教会を出た。市場へと歩き始めた瞬間、「ジョセフィン嬢」と甘い声が掛けられた。

 最悪だ、と思いながら振り返ると王弟だった。地味な茶色のコートという出で立ちだった。

「ジョセフィン嬢。お伴も付けずにどちらへ?」
「買い物ですわ」と私は歩いた。「あなたこそ何の用で?」
「お伴させていただけませんか? 先ほどまでモンテルスの若領主といたでしょう? 求婚者には平等な機会を」

 思わず足を止めた。すると王弟は、私が持っていた籠を取った。

「もし本やレンガなど重いものをお求めになるのなら、男手があると楽ですよ」
「私は他国の王弟を荷物持ちになどしませんわ」と籠を奪い返した。「それに3秒で求婚を断られたあなたは求婚者と名乗れないでしょ?」
「では、求愛者、と美しい名でお呼びください。光放つ1人の女性を、愛する男に相応しい呼び名でしょう?」

 光放つ金髪、とでも言いたいのだろうか? 10歳だったころのアリエッタと似たようなセンスだ。それに……。
 私は籠を握りしめたまま、平民街に立つ彼を見据えた。

「失礼を承知で言いますと、王弟が他国の平民街にいらっしゃるなんて。間者とお呼びしてもいいかしら?」
「あなたのお心を探る、という間者でしたらどうぞ、その呼び名でお呼びください」

 埒が明かない。
 王弟はクク、と笑った。そして恍惚としたように顎を上げた。

「そのようなことより、マリアの娘さん、と慕われるあなたが教会の前で言い合いを続けているのはどうかと思いますよ」
「誰のせいかしら? それに、神を信じないゴーディラック人もそんなことを気にするのね」

 私はサッサと歩き始めた。王弟もついて来た。あぁぁ!
 市場に着くと、コセアおばさんが目を丸くしていた。そして、隣の屋台のおばさんに興奮した面持ちで話し始めた。
 ハァ、とため息が漏れた。屋内市場に入り、本屋を探した。とりあえず若い男の人が多くて、実用書が多そうな本屋に入ってみた。

「殿下は他の楽しそうなところにでも行っていてください。私は買い物があるので。あそこのカフェは美味しいとお若い殿方に評判だそうですよ」
「おや、あのカフェはアベックが多いようです。後ほどあなたをお誘いしたいですね」

 無視してポケットからメモを出した。少し探すとすぐに会計学の棚が見つかった。あった、これだ。つま先を伸ばし、高い棚にある本を取ろうとした。

「これですね」と王弟が取ってくれた。少しパラパラと捲った。「かなり実践的な内容ですね。お目が高い」
「ありがとうございます、殿下」と本を受け取った。

 "実践的な内容"というだけあり分厚い。少し読んでみた。うん、何いってんだ?
 本を取っては捲り棚に戻し、を王弟は数回繰り返している。納得したように頷くと、本を一冊差し出してきた。

「こちらは理論的ですが、帳簿をつけるだけ、よりは役に立つと思いますよ」
「何についての理論ですの?」と王弟が持つ本を見つめた。
「帳簿を読み解き、この先なにが起こるか想定できる術です」と王弟は少し黒く微笑んだ。「これは兄の経験ですが、その術を使って兄は政敵を退けました。だから私にも会計学はしっかり学べと何度も言われました」

 王弟の兄、それ即ちゴーディラックの国王だ。退けた政敵とは異母兄たちだろう。
 本当に役に立ちそうだから有り難く受け取ろうと手を伸ばした。だが、スカッと王弟は本を隠した。解せぬ。

 変な要求をされたら困るから無視して、医学の棚へ向かった。あった。幸運なことよ、兄弟たち。イーリアス様オススメの本は低い棚にあった。うん、さっきのより倍は分厚い。農業の棚で作物の本を取った。法学の棚でも本を取った。勘定所でお金を払い、本を籠に入れた。ズシリ。重い。
 出口で王弟が立っていた。如何にも「待っていました」って感じ。

「ジョセフィン嬢。この本をあなたに」と包装された本を渡してくれた。

 思わず顔が引き攣った。この本は贈り物ってことだよね。なら……。

「申し訳ございませんが、さすがに受け取れません」
「なぜ?」と王弟は首を傾げた。なんか可愛い。
「あなたからの贈り物でしょう? 下心でもあったら困りますもの」
「ありますよ」と王弟はさらりと答えた。「あなたの私への思いを解すことができれば、と」
「なら、受け取れません」と私は歩いた。
「ならばヴィア邸に押しかけて教授に行きますよ」
「ハァ?」

 素っ頓狂な声が漏れてしまった。王弟は愉しそうとしかいいようのない笑顔だ。

「輝けるあなたには生きてほしいので。ではどちらにします? 今受け取るか、私を招くか? もしヴィア邸へと行けば、私はあなたの婚約者として見なされるのでしょうね。おや、こちらの方が良いかな?」
「では、ありがたくいただきます」と本を受け取った。

 そして少し早歩きで屋内市場の出口へと向かった。そうだ。
 私は振り返って、王弟と向き合った。

「そう言えばなぜ、求婚は父を通さなかったのですか? 父も兄も、あなたが私に踊りの申し込みをしたことしか知りませんのよ」
「私が求婚をしたいのは、あなたの父君ではありませんから」

 王弟の言葉に思わず睨みつけてしまった。彼は一歩、近づき手を伸ばした。私の顔に触れるか、触れないかという近さ。

「あなたです。後光を放つ美だけでなく、喜びに踊り歩く輝きを持つあなたです」

 微かに指先が震えている。彼はまた一歩近づいたが、軽く肘を曲げたので触れなかった。無意識だろうか?

「生きているのだと感じられるほどの強さも、私からの本すらも受け取る合理的な面を持つあなたを、私は……」

 彼の指先が一瞬、頬に触れた。ピクッと指先が揺れた。
 私は首を横に振った。

「私はあなたの求婚を受けません」
「でしょうね。私がゴーディラックの王弟である限りは」と王弟は笑い離れた。

 籠を地面に置いた。胸に手を当てた。バクバクする。


 家に帰り、本を棚にしまった。
 最後に王弟が贈ってくれた本を手にした。本棚にしまった。


 1月が終わり、王弟はゴーディラックへと帰った。イーリアス様はモンテルス領へ戻った。
 翌月、モンテルス領主――イーリアス様のお父君――が亡くなられた、という報せを受けた。手紙を書いた。

 返事を受け取った。丁寧で強さの感じられる文面で、領主の座を引き継いだ者に相応しいのだろう。だからまた手紙を贈った。暇が出来たら読めるよう、短い手紙を。
 
 窓から空を見るとツバメが空を滑っていた。
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