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夜の王宮、甘い支配 前編
その部屋は、まるで異国の夢だった。
深い紅を基調にした絨毯。壁を彩る織物は、月光に銀糸がかすかに煌めき、空気ごと染め上げてしまうような静謐さを纏っている。
グレイヴ王宮の西棟――王に最も近い女官や高位の客人だけが使えると言われる専用の居室に、ミレイユは案内された。
「……これは、何かの間違いでは?」
揃えられた家具のひとつひとつが、明らかに高位の人物のためのものだった。
重厚なベッド、香木の香りが染み込んだ帳、天井を仰げば細工入りのシャンデリアが星のように光を落としている。
付き添いの侍女たちは礼儀正しく、けれどどこか妙に慣れた手つきで着替えや髪の手入れを行った。
まるで、王の寵愛を受ける女の扱いに慣れているかのような手際で。
心がざわつく。
この部屋のどこかに罠があるわけではないと分かっていても、まるで柔らかな絹に包まれて締め上げられていくような感覚。
王宮内の空気も、従者の目線も、どこか奇妙だった。
彼らは一様に穏やかに微笑みながら、ミレイユを見る。
尊敬でも、憐憫でもない。
ただ、観察するように。
──陛下の、新しいお相手はこの方か。
そんな言葉が、誰の声でもなく空気に浮かんでいた。
婚約破棄され、使節団の名目でこの国に送り出されたはずの自分が、今や王の寵愛を受ける女として扱われている。
現実とは思えない、悪い冗談のようだった。
「……私は、ただの外交随行者のはずなのに……」
口に出すと、まるでその肩書きすら虚ろに響く。
この部屋の空気が、そんな言葉を拒絶するかのように静かだった。
◇ ◇ ◇
日は落ち、空は群青から漆黒へと変わっていく。
部屋に灯された暖かな精霊灯の明かりが、静かに壁を照らしていた。
扉をノックする音がしたのは、夜の帳が降りてまもなくのことだった。
「失礼する」
低く、よく通る声。
思わず立ち上がると、入ってきたのは、まぎれもなく――王、レオンハルトだった。
昼間と変わらず、鋭く金色に輝く眼差し。そして、何より異質だったのはその格好だ。
彼は、王の衣装ではなかった。
黒いシャツにシンプルなジャケットという、私的な装い。
その分、鋭さと色気がむしろ露わになっている。
「……あの、どうなさいましたか。わたくしに何か……?」
「何をそんなに構える。礼儀ではなく、個人として会いに来た。少し、酒を共にしてくれ」
酒。
その単語に、ミレイユの肩の力が、ほんの少しだけ抜けた。
社交の場で育った令嬢にとって、ワインは会話のきっかけであり、心の鎧を一枚だけ脱ぐための魔法だ。
「……それは、命令ですか?」
問い返したのは、慎重さからだった。
けれど彼は、あっさりと否定する。
「いや。望まぬなら、俺は帰る」
その真っ直ぐな目が、嘘をつけない光を帯びていた。
ミレイユは小さくうなずいた。
「……お供いたします。けれど、酔っては失礼ですので、少しだけ」
その微笑みは、どこか安堵の色を含んでいた。
◇ ◇ ◇
二人で腰掛けたのは、室内の低い卓と長椅子。
精霊灯の灯りがゆらゆらと揺れる中、黒曜石の器に注がれた淡い琥珀色の酒が、ほんのりと甘い香りを立てていた。
「これは……蜂蜜酒、でしょうか」
「ああ。南の蜂蜜と果樹の果汁を低温で発酵させたものだ。強くはない。安心して飲め」
杯を口元に運ぶと、驚くほどやさしい味がした。
ふわりと香る甘さの奥に、微かに酸味と果実の苦みが潜んでいて、喉を通るころには胸が温かくなる。
「……こんな味、初めてです」
「そうか。俺は気に入っている。……疲れた時ほど、こういうものが染みる」
ぽつり、とそう言ったレオンの横顔に、ふと寂しさが浮かんで見えた気がした。
鋼鉄のような王。獣のような金の眼。
その裏にある、孤独という名の空白。
彼の言葉を聞いた時、ミレイユはふと、自分の中の何かが共鳴するのを感じた。
捨てられた者と、誰も寄せ付けられない者。
違う形で、似た空虚を抱えているのではないかと。
「……私も、好きです。こういうお酒」
「そうか」
たったそれだけの言葉なのに。
その目が、ほんの少しだけ柔らかく揺れた気がした。
「お前といると、奇妙に静かになる」
再び彼が呟く。
「普段は、周囲が俺の顔色をうかがってばかりだ。だが、お前は……違う。お前の目は、まだ怒っている。それでいい。誇りを捨てるな」
その言葉に、ミレイユは胸の奥をつかまれるような感覚を覚えた。
――捨てられても、踏みにじられても。
それでも、自分を裏切りたくなかった。
だからこそ、この王のまっすぐな言葉が、恐ろしいほどに沁みた。
杯を置くと、手のひらがかすかに震えていることに気づく。
酔いではない。
この部屋に満ちる、何か甘い、危険な熱。
「……陛下」
呼びかけた声が、思ったよりも掠れていた。
彼がゆっくりとこちらを振り向く。
その眼差しの奥に宿る熱を見て、ミレイユは悟った。
この夜は、始まりの夜なのだと。
深い紅を基調にした絨毯。壁を彩る織物は、月光に銀糸がかすかに煌めき、空気ごと染め上げてしまうような静謐さを纏っている。
グレイヴ王宮の西棟――王に最も近い女官や高位の客人だけが使えると言われる専用の居室に、ミレイユは案内された。
「……これは、何かの間違いでは?」
揃えられた家具のひとつひとつが、明らかに高位の人物のためのものだった。
重厚なベッド、香木の香りが染み込んだ帳、天井を仰げば細工入りのシャンデリアが星のように光を落としている。
付き添いの侍女たちは礼儀正しく、けれどどこか妙に慣れた手つきで着替えや髪の手入れを行った。
まるで、王の寵愛を受ける女の扱いに慣れているかのような手際で。
心がざわつく。
この部屋のどこかに罠があるわけではないと分かっていても、まるで柔らかな絹に包まれて締め上げられていくような感覚。
王宮内の空気も、従者の目線も、どこか奇妙だった。
彼らは一様に穏やかに微笑みながら、ミレイユを見る。
尊敬でも、憐憫でもない。
ただ、観察するように。
──陛下の、新しいお相手はこの方か。
そんな言葉が、誰の声でもなく空気に浮かんでいた。
婚約破棄され、使節団の名目でこの国に送り出されたはずの自分が、今や王の寵愛を受ける女として扱われている。
現実とは思えない、悪い冗談のようだった。
「……私は、ただの外交随行者のはずなのに……」
口に出すと、まるでその肩書きすら虚ろに響く。
この部屋の空気が、そんな言葉を拒絶するかのように静かだった。
◇ ◇ ◇
日は落ち、空は群青から漆黒へと変わっていく。
部屋に灯された暖かな精霊灯の明かりが、静かに壁を照らしていた。
扉をノックする音がしたのは、夜の帳が降りてまもなくのことだった。
「失礼する」
低く、よく通る声。
思わず立ち上がると、入ってきたのは、まぎれもなく――王、レオンハルトだった。
昼間と変わらず、鋭く金色に輝く眼差し。そして、何より異質だったのはその格好だ。
彼は、王の衣装ではなかった。
黒いシャツにシンプルなジャケットという、私的な装い。
その分、鋭さと色気がむしろ露わになっている。
「……あの、どうなさいましたか。わたくしに何か……?」
「何をそんなに構える。礼儀ではなく、個人として会いに来た。少し、酒を共にしてくれ」
酒。
その単語に、ミレイユの肩の力が、ほんの少しだけ抜けた。
社交の場で育った令嬢にとって、ワインは会話のきっかけであり、心の鎧を一枚だけ脱ぐための魔法だ。
「……それは、命令ですか?」
問い返したのは、慎重さからだった。
けれど彼は、あっさりと否定する。
「いや。望まぬなら、俺は帰る」
その真っ直ぐな目が、嘘をつけない光を帯びていた。
ミレイユは小さくうなずいた。
「……お供いたします。けれど、酔っては失礼ですので、少しだけ」
その微笑みは、どこか安堵の色を含んでいた。
◇ ◇ ◇
二人で腰掛けたのは、室内の低い卓と長椅子。
精霊灯の灯りがゆらゆらと揺れる中、黒曜石の器に注がれた淡い琥珀色の酒が、ほんのりと甘い香りを立てていた。
「これは……蜂蜜酒、でしょうか」
「ああ。南の蜂蜜と果樹の果汁を低温で発酵させたものだ。強くはない。安心して飲め」
杯を口元に運ぶと、驚くほどやさしい味がした。
ふわりと香る甘さの奥に、微かに酸味と果実の苦みが潜んでいて、喉を通るころには胸が温かくなる。
「……こんな味、初めてです」
「そうか。俺は気に入っている。……疲れた時ほど、こういうものが染みる」
ぽつり、とそう言ったレオンの横顔に、ふと寂しさが浮かんで見えた気がした。
鋼鉄のような王。獣のような金の眼。
その裏にある、孤独という名の空白。
彼の言葉を聞いた時、ミレイユはふと、自分の中の何かが共鳴するのを感じた。
捨てられた者と、誰も寄せ付けられない者。
違う形で、似た空虚を抱えているのではないかと。
「……私も、好きです。こういうお酒」
「そうか」
たったそれだけの言葉なのに。
その目が、ほんの少しだけ柔らかく揺れた気がした。
「お前といると、奇妙に静かになる」
再び彼が呟く。
「普段は、周囲が俺の顔色をうかがってばかりだ。だが、お前は……違う。お前の目は、まだ怒っている。それでいい。誇りを捨てるな」
その言葉に、ミレイユは胸の奥をつかまれるような感覚を覚えた。
――捨てられても、踏みにじられても。
それでも、自分を裏切りたくなかった。
だからこそ、この王のまっすぐな言葉が、恐ろしいほどに沁みた。
杯を置くと、手のひらがかすかに震えていることに気づく。
酔いではない。
この部屋に満ちる、何か甘い、危険な熱。
「……陛下」
呼びかけた声が、思ったよりも掠れていた。
彼がゆっくりとこちらを振り向く。
その眼差しの奥に宿る熱を見て、ミレイユは悟った。
この夜は、始まりの夜なのだと。
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