中霧山の悪夢

黒巻雷鳴

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逃走

出席番号5番 河崎凛々子

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 珠比華とはじめて会ったときのことは、きのうのように覚えている。
 同じクラスの隣の席に、ビスクドールを彷彿とさせる可憐な少女が、不安そうにしてすわっていた。

「おはよう!」

 わたしのあいさつに、彼女はビクンと身体を小さく震わせると、ぎこちない笑顔で「おはよう」と返してくれた。

「あれっ……驚かせちゃったかな? ごめんね」自分の席にすわりながら話しかける。
「ち、違うよ! 謝らなくていいの! ちょっとびっくりしちゃっただけだから……」

 そう言ってまた、ぎこちない笑顔をみせる彼女。

「わたし、人見知りするタイプだから……その……中学でもなかなか、お友達ができなくって」

 今度は、どこか悲し気な笑顔だった。つぶらな瞳に、涙が滲んでいるようにも見える。
 そんな彼女を見て、わたしは本能で〝ああ、守ってあげたいな〟って思った。

「じゃあさ、友達になろうよ。わたし、河崎凛々子。凛々子でいいよ」

 着席したまま、握手を求めて手を差し出す。
 その手をしばらく見つめていた彼女は、頬と耳朶をピンク色に染めながら、手をそっとやさしく握ってくれた。

「佐藤珠比華です。わたしも下の名前で呼んでください。よ、よろしくお願いしまひゅ」
「あははは! 今、噛んだでしょ? 珠比華って可愛いなぁ」

 わたしの言葉に、珠比華の小顔は真っ赤になって照れていた。


 そして現在いまのわたしたちは、友達を超えて親友になった。
 親友だけど……ううん、親友だからこそ、珠比華のことを愛してる。なにがあっても、守らなきゃって思ってる。そんな不思議な感情が、ときどき胸を締めつける。
 一歩一歩下がり続けるわたしたちを見ていた子グマは、興味が失せたのか、茂みのなかへと帰っていった。

「……助かったの? わたしたち」

 珠比華の手が震えている。
 わたしは安心させようと思い、強く握り返した。

「そうみたい。珠比華、走ろう。走れるだけ走って、ここからなるべく遠くへ離れよう」

 珠比華はわたしの提案に、コクリとうなずいて同意した。


     *


 斜面を駆け降り、獣道や沢を走り抜ける。
 それから、わたしたちは身体を休めるため、倒木の陰に身を潜めた。

「ハァハァ……珠比華、ハァハァ……水筒の中身、まだある?」
「う、うん……ハァハァ……まだ残ってるよ」
「今のうちに水分補給をしとこう。塩タブレットもあるから、珠比華も食べな」

 リュックから袋を取り出して中身を1粒摘む。それを、珠比華の口にはこんだ。
 わたしの指先に、水分で潤った桜色の唇があたる。
 その指で塩タブレットをもう1粒摘み取り、自分の口に入れた。

「これって……間接キッス?」

 思わずこぼれたつぶやきに、珠比華は「えっ!?」と驚き、頬を赤らめた。

「ごめん、ごめん。女の子同士だからノーカンだよね……って、間接キッスなんて、誰でもふつうにするか」
「う、うん。する……のかな……?」

 気づけば、お互い見つめ合っていた。
 沈黙が長く続く。
 なんでだろう……胸の鼓動が早くなる。
 珠比華がいつも以上に可愛く見えてきた。

「い……行こうか。日が暮れるまえに、下山しないと!」

 場の空気を変えようと立ち上がった途端、わたしの身体が横へ飛んだ。

「凛々子ちゃん!」

 倒れたわたしの耳に、珠比華の叫び声が聞こえた。

「ううっ……」

 土のにおいがする。森の草木がわずかにそよぐ。
 いったいなにが自分の身に起きたのか──すぐにそれは理解ができた。
 体操着が切り裂かれ、肩から出血していた。
 クマだ。クマに襲われたんだ。倒木の裏側に、いつの間にか近づいて来ていたツキノワグマが隠れていたんだ。
 痛みを我慢しながら、身体を起こす。やっぱりクマが倒木の向こう側に居た。
 最初はさっきの子グマの母親かと思ったけど、立ち上がったクマの大きさは成人男性よりも大きかったので、オスのクマかもしれない。
 倒木に前脚を乗せたクマが、しゃがんだまま動けないでいる珠比華を見てうめき声を上げた。このままだと今度は、珠比華が襲われてしまう!

「そのまま死んだふりをして動かないで! 目を合わせちゃダメだからね!」

 そう叫んだけれど、遅かった。
 クマの動きは想像以上に速く、軽々と倒木を乗り越えると、珠比華の顔面を右前脚で地面に叩きつけた。

「きゃあああああ!! 凛々子ちゃん、凛々子ちゃん、助けてぇぇぇぇ!!」

 クマに組み伏せられた珠比華が、わたしに助けを求めてる。
 早く助けなきゃ!
 ──でも、どうやって?
 珠比華が、珠比華が喰い殺されちゃう!
 ──わたしは、どうすればいいの?
 頭が混乱する。傷口もめちゃくちゃ痛い。それでも、早くなんとかしないと珠比華の生命いのちが危ない!
 でも動けなかった。
 怖くて、怖くて、怖くて、怖くて……助けに行くことができなかった。

「嫌ぁぁぁぁぁ!! 痛い痛い痛い痛い、痛いよぉぉぉぉっ!!」

 クマが珠比華の顔に噛りついていた。
 この距離からでもよくわかる。
 珠比華の顔にはもう、皮膚がほとんど無いことが。

「す……」

 声が出なかった、出せなかった。
 すぐそこで親友が襲われているのに、恐怖で身体が強張ってしまい、指先ひとつ動かせなかった。

「凛々子しゃん……助けしぇ……ひはひょぉ……」

 眼球と鼻孔、歯が剥き出しになって真っ赤になった顔の珠比華と目が合う。

「うわああああああああああああ!!」

 走っていた。
 珠比華を置いて、逃げていた。
 なにが大丈夫だ。
 なにが守ってあげるだ。
 わたしは最低だ。
 最低の親友だ。
 愛するひとを見捨てて逃げた、最低の人間だ。
 ごめんね、ごめんね、ごめんね、ごめんね、ごめんね、ごめんなさい……!
 涙を流しながら、心のなかで何度も悔やみ、謝る。
 そして、気配を感じて振り返る。
 珠比華を襲っていたはずのクマが、今度はわたしを追いかけて来ていた。

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