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ある銘菓
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その日、北鏡町交番で、警察官である向井隆明は夜勤の当番だった。
書類仕事もひと段落し、壁にかけられた時計を見上げると、午前二時を過ぎていた。
この時間帯になると、交番を訪れる者はいない。隆明は小休憩をとるため、交番の奥にある休憩室へと移動した。
何か大事でもあれば、中まで声をかけてくれる、と高をくくって。
休憩室は六畳ほどで畳が敷き詰められている。部屋の中央にある丸いちゃぶ台に、誰かがお菓子を置いていた。
そのお菓子は、紅芽焼という、鏡町の銘菓で、両面を焼いた平たいまんじゅうの中に、桜の香りがする、ほんのりピンク色をした白あんが詰められているもので、鏡町を訪れた観光客がよく土産に買うものだった。
銘菓だからこそ、地元の人間がわざわざ買って食べることはないのだが、きっと同僚の誰かが道案内のお礼ついでにもらったのだろう。
隆明は紅芽焼の箱を開けると、ひとつ取り出して、ひとくち食べた。白あんの甘さが口のなかに広がる。疲れた体にちょうどよかった。あっという間に紅芽焼を食べてしまった。小腹が空いていたのだろう、隆明はもうひとつ食べようと、箱に手を伸ばしたが、その時、
「すみません」
と声がした。
老人の絞り出したような、かすれた声だった。
こんな時間に珍しいなと思い、隆明が腰をあげると、
「すみません」
ともう一度同じ声がした。
せっかちな人だと思ったが、仕事なので仕方がないと、休憩室を出た。
ところがおかしい。
交番には誰もいなかった。確かに声がしたはずなのだが……。すると今度は、
「すみません」
と、交番の外から声がした。
田んぼに囲まれたこの交番の周りには、街灯がなく、一歩出ると何も見えないほどの暗闇である。
「すみません」
なおも老人の声が聞こえる。が、老人の姿はやはり見えない。
その声が、交番の外から聞こえてくるのは間違いなさそうだった。
隆明は、机の引き出しから懐中電灯を取り出し、外に向けた。
だが、懐中電灯の光は、むなしく田んぼを照らしただけで、人影は見えない。
「どなたかいるんですか」
と、隆明は声を出した。返事はなく、虫の鳴き声だけがこだましていた。
隆明はもう一度、暗闇に声をかけたが、やはり返事はなかった。
何かの音と聞き違えたのだろうかと、隆明は首をかしげたが、それからあの声もしなくなったので、休憩室に引き返した。
そして、畳の上にあぐらをかき、残っていた紅芽焼の箱に手を伸ばしたそのとき、異変に気がついた。
箱が空になっていたのである。
「誰かいるのか!」
隆明は思わず声を上げた。だが、誰からも返答がない。
隆明は腰に提げていた警棒を片手に持ち、ふたたび休憩室を出た。
すると突然、電話が鳴った。
この時間に電話というのもまた珍しかった。
隆明はおそるおそる、震える手で受話器を取った。
「もしもし……」
無音……相手は何も音を発さない。隆明はいたずら電話だと思い、電話を切ろうとした。
だが、相手の声が微かに聞こえてきた。
「………す……
み……ま……
…………せ……ん……」
隆明は、
「ど、どなたですか……?」と、声をふりしぼった。
すると、
「すみませんすみませんすみませんすみませんすみませんすみませんすみませんすみません…………」
その声は、複数の老人が、お経のようにひたすら「すみません」と繰り返しているようだった……。
隆明は気味が悪くなり受話器を叩くように戻した。
上がった息を整えようとした束の間、「すみません」と後ろから声がした。
隆明は、その声がする方向に振り返った。
そこに一人の老人が立っていた。
交番についていた電気が消えた。
隆明はパニック状態になり、闇雲に、言葉にならない声をあげながら、警棒を振り回した。
電気がついた。
今度は、老人が、隆明の目の前に立っていた。
老人の両目は糸でふさがれており、前が見えていないようだった……。老人の口がゆっくりと開いた。
「すみません……あなたのその目、もらえませんか」
翌日、北鏡町交番で、両目をくり抜かれた状態の隆明が発見された。
今もなお、彼は視力を奪われたままで生活している。
ところで、紅芽焼という銘菓は、その和菓子屋の初代が桜色の白あんを赤い芽のようだと思ったことから、そう名付けられたそうだが、実はもう一説由来がある。
紅芽焼の前身となる菓子を作った菓子職人は、目の病気を患っており、まんじゅうのあんを作っていた時に自分の眼球を、あんのなかに落としてしまった。
ところが菓子職人は、それをそのままにして、あんに混ぜてしまった。
そして、そのあんを仕込んだまんじゅうを妻に出したところ、妻はそのまんじゅうをうまいと言って食べたのである。菓子職人は、人間の目が美味であると思い込み、夜な夜な人を襲っては、その眼球を奪い、まんじゅうのあんに混ぜて売った。
あんとして使われた血に染まった赤い目玉……それが紅芽焼という名前の由来という説である。
さて、向井隆明の事件が起きた後も、紅芽焼は鏡町の銘菓としての地位を保ったままだ。
お土産として誰かから貰うことがあれば、用心した方がいいだろう。
そのあんには、誰かの目が使われているかもしれない……。
書類仕事もひと段落し、壁にかけられた時計を見上げると、午前二時を過ぎていた。
この時間帯になると、交番を訪れる者はいない。隆明は小休憩をとるため、交番の奥にある休憩室へと移動した。
何か大事でもあれば、中まで声をかけてくれる、と高をくくって。
休憩室は六畳ほどで畳が敷き詰められている。部屋の中央にある丸いちゃぶ台に、誰かがお菓子を置いていた。
そのお菓子は、紅芽焼という、鏡町の銘菓で、両面を焼いた平たいまんじゅうの中に、桜の香りがする、ほんのりピンク色をした白あんが詰められているもので、鏡町を訪れた観光客がよく土産に買うものだった。
銘菓だからこそ、地元の人間がわざわざ買って食べることはないのだが、きっと同僚の誰かが道案内のお礼ついでにもらったのだろう。
隆明は紅芽焼の箱を開けると、ひとつ取り出して、ひとくち食べた。白あんの甘さが口のなかに広がる。疲れた体にちょうどよかった。あっという間に紅芽焼を食べてしまった。小腹が空いていたのだろう、隆明はもうひとつ食べようと、箱に手を伸ばしたが、その時、
「すみません」
と声がした。
老人の絞り出したような、かすれた声だった。
こんな時間に珍しいなと思い、隆明が腰をあげると、
「すみません」
ともう一度同じ声がした。
せっかちな人だと思ったが、仕事なので仕方がないと、休憩室を出た。
ところがおかしい。
交番には誰もいなかった。確かに声がしたはずなのだが……。すると今度は、
「すみません」
と、交番の外から声がした。
田んぼに囲まれたこの交番の周りには、街灯がなく、一歩出ると何も見えないほどの暗闇である。
「すみません」
なおも老人の声が聞こえる。が、老人の姿はやはり見えない。
その声が、交番の外から聞こえてくるのは間違いなさそうだった。
隆明は、机の引き出しから懐中電灯を取り出し、外に向けた。
だが、懐中電灯の光は、むなしく田んぼを照らしただけで、人影は見えない。
「どなたかいるんですか」
と、隆明は声を出した。返事はなく、虫の鳴き声だけがこだましていた。
隆明はもう一度、暗闇に声をかけたが、やはり返事はなかった。
何かの音と聞き違えたのだろうかと、隆明は首をかしげたが、それからあの声もしなくなったので、休憩室に引き返した。
そして、畳の上にあぐらをかき、残っていた紅芽焼の箱に手を伸ばしたそのとき、異変に気がついた。
箱が空になっていたのである。
「誰かいるのか!」
隆明は思わず声を上げた。だが、誰からも返答がない。
隆明は腰に提げていた警棒を片手に持ち、ふたたび休憩室を出た。
すると突然、電話が鳴った。
この時間に電話というのもまた珍しかった。
隆明はおそるおそる、震える手で受話器を取った。
「もしもし……」
無音……相手は何も音を発さない。隆明はいたずら電話だと思い、電話を切ろうとした。
だが、相手の声が微かに聞こえてきた。
「………す……
み……ま……
…………せ……ん……」
隆明は、
「ど、どなたですか……?」と、声をふりしぼった。
すると、
「すみませんすみませんすみませんすみませんすみませんすみませんすみませんすみません…………」
その声は、複数の老人が、お経のようにひたすら「すみません」と繰り返しているようだった……。
隆明は気味が悪くなり受話器を叩くように戻した。
上がった息を整えようとした束の間、「すみません」と後ろから声がした。
隆明は、その声がする方向に振り返った。
そこに一人の老人が立っていた。
交番についていた電気が消えた。
隆明はパニック状態になり、闇雲に、言葉にならない声をあげながら、警棒を振り回した。
電気がついた。
今度は、老人が、隆明の目の前に立っていた。
老人の両目は糸でふさがれており、前が見えていないようだった……。老人の口がゆっくりと開いた。
「すみません……あなたのその目、もらえませんか」
翌日、北鏡町交番で、両目をくり抜かれた状態の隆明が発見された。
今もなお、彼は視力を奪われたままで生活している。
ところで、紅芽焼という銘菓は、その和菓子屋の初代が桜色の白あんを赤い芽のようだと思ったことから、そう名付けられたそうだが、実はもう一説由来がある。
紅芽焼の前身となる菓子を作った菓子職人は、目の病気を患っており、まんじゅうのあんを作っていた時に自分の眼球を、あんのなかに落としてしまった。
ところが菓子職人は、それをそのままにして、あんに混ぜてしまった。
そして、そのあんを仕込んだまんじゅうを妻に出したところ、妻はそのまんじゅうをうまいと言って食べたのである。菓子職人は、人間の目が美味であると思い込み、夜な夜な人を襲っては、その眼球を奪い、まんじゅうのあんに混ぜて売った。
あんとして使われた血に染まった赤い目玉……それが紅芽焼という名前の由来という説である。
さて、向井隆明の事件が起きた後も、紅芽焼は鏡町の銘菓としての地位を保ったままだ。
お土産として誰かから貰うことがあれば、用心した方がいいだろう。
そのあんには、誰かの目が使われているかもしれない……。
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