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看板の男と女
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鏡町の西側に、隣町へと続く、桜道と呼ばれる旧県道がある。その通りには住宅が並んでいるのだが、ちょうど半分辺りから桜の木々が歩道に並んで植えられていることから、桜道と呼ばれるようになった。桜道は、春になると桜が一斉に花を咲かせるため、花見スポットとして町内外で有名だった。
ところが、その賑やかな評判とは別に、桜道にはかつて、ある噂があった。
桜が並ぶ通りの途中、桜の並びを無視するように立てられた、地元の酒屋の看板があった。その看板には、《鏡町で酒を買うなら伊東酒店》と書かれており、酒の瓶を持って笑う、いかにも酒が好きそうな、赤ら顔の若い男が写っていた。
桜道に伝わる噂とは、この看板の男と、車の運転中に目が合うと、事故に遭ってしまうというものだった。
その噂に疑問を抱いた女性がいた。彼女は伊東智賀子といい、看板を立てた伊東酒店の長女だった。
智賀子は数年前に、亡くなった父親の跡を継いで、酒屋の女主人となったのだが、跡を継いで欲しがっていた父親の反対を押し切り、それまでは地元を離れて企業勤めをしていた。
生前の父親と疎遠になっていたこともあり、智賀子は伊東酒店の経営状態があまり芳しくないことを知らなかった。酒を買う客には、かねてからの常連しかおらず、新規の客がまったくといっていいほどいなかったのである。
そのような経営状態を立て直すために智賀子が思いついたのが、花見スポットとして有名な桜道に、伊東酒店の広告看板を立てることだった。それもただの広告ではなく、不仲ではあったが、酒を心の底から愛していた、自身の父親の若かりしころの写真をモデルとして……。
看板の噂を聞いた時、彼女はあまりいい気がしなかった。噂が出来るほど目立っているというのは嬉しかったが、看板を立てたことで経営を持ち直すことが出来たし、何よりも自分の父親が貶されているように感じたのだ。
智賀子は、自分自身で噂を検証することにした。事実、この根も葉もない噂は噂でしかなく、あの通りで事故があったという話はなかったのだ。
夜の桜道を車で走った。桜のシーズンはとうに終わっていて、秋に向かって、葉は色づきはじめていた。旧県道のため車どおりは少なく、対向車とは一台すれ違ったきりで、後続車もない。
やがて桜並木が出てくると、街灯に照らされた、あの看板が見えてきた。
智賀子は車のスピードを少し落とし、看板の全体を視界に入れていった。
徐々に父親の顔が見えていく……あの笑顔の、若かった父の顔だ。
智賀子は、ためらうことなく、父親と、目を合わせた。
ーーその瞬間だった。
笑顔だったはずの父親の顔から、笑顔が消えていた。
智賀子は目を疑った。
たしかにすれ違いざまに一瞬だけ、父が笑っていないように見えた。まるで喜怒哀楽を忘れてしまったかのような、怖ろしいほどの無が、その表情にはあった……。
智賀子は車をUターンさせて、看板の場所まで引き返した。
看板の近くまで来ると、智賀子は車を脇に寄せた。そして、車を降りた。車道を挟んだ向こう側にある、看板を見るために……。
その時、全身にどんと何かをぶつけられたような、強い衝撃が走った。それから体が宙に浮いているかのような浮遊感を覚えたかと思うと、すぐさま地面の冷たさを感じた。
ズキズキと頭が痛み、熱くなっていく……。
ぼやけていく視界の隅に、看板の近くに立っている人影が見えた。
その人影は、生前の父親の姿にも見えた……。
翌日、地方新聞に一件の交通事故のニュースが掲載された。見出しは《旧県道で死亡事故。加害者は飲酒運転》というものだった。
記事によると、加害者の男は車を運転する直前まで酒を飲んでいたという。そして皮肉なことに、男の車からは伊東酒店のレシートが発見された。いうまでもなく、被害者である伊東智賀子が経営していた酒屋だった。
男は飲酒していたことを全面的に認めており、さらに次のようにも供述しているという。
「事故を起こす直前に、看板の男と目が合ったーー」
後日、その看板は、智賀子から伊東酒店の跡を引き継いだ、彼女の弟である伊東正之が、立て直すことになった。
新しい看板には、先々代の笑顔が変わらずあり、キャッチコピーもそのままで何も変わっていないようだった。ただひとつ、酒の瓶を持った智賀子の写真が、新たに加えられたことを除いては……。
新しい看板について、正之は地方新聞の《がんばる地元商店》という小さな特集で、次のように語っている。
「酒屋の経験がない姉が来た時は驚きました。私の方がずっとここで働いていましたからね。ただ、姉は努力家でした。ここまで店を持ち直してくれたのですから。父は姉にここを継いでもらいたがっていたし、看板の中ですけど、二人で酒屋をやれて、天国で喜んでるんじゃないかな」
そのインタビュー記事に掲載された彼の笑顔は、先々代の顔に不思議とよく似ていた……。
伊東酒店の看板は今も、桜道の桜並木の途中に立てられたままだ。ただし、もしも近くを通る際には注意してほしい。
看板を立て直してからあの噂は、「看板の女と目を合わせると、看板の中に引きづり込まれる」という噂に変わっているから……。
ところが、その賑やかな評判とは別に、桜道にはかつて、ある噂があった。
桜が並ぶ通りの途中、桜の並びを無視するように立てられた、地元の酒屋の看板があった。その看板には、《鏡町で酒を買うなら伊東酒店》と書かれており、酒の瓶を持って笑う、いかにも酒が好きそうな、赤ら顔の若い男が写っていた。
桜道に伝わる噂とは、この看板の男と、車の運転中に目が合うと、事故に遭ってしまうというものだった。
その噂に疑問を抱いた女性がいた。彼女は伊東智賀子といい、看板を立てた伊東酒店の長女だった。
智賀子は数年前に、亡くなった父親の跡を継いで、酒屋の女主人となったのだが、跡を継いで欲しがっていた父親の反対を押し切り、それまでは地元を離れて企業勤めをしていた。
生前の父親と疎遠になっていたこともあり、智賀子は伊東酒店の経営状態があまり芳しくないことを知らなかった。酒を買う客には、かねてからの常連しかおらず、新規の客がまったくといっていいほどいなかったのである。
そのような経営状態を立て直すために智賀子が思いついたのが、花見スポットとして有名な桜道に、伊東酒店の広告看板を立てることだった。それもただの広告ではなく、不仲ではあったが、酒を心の底から愛していた、自身の父親の若かりしころの写真をモデルとして……。
看板の噂を聞いた時、彼女はあまりいい気がしなかった。噂が出来るほど目立っているというのは嬉しかったが、看板を立てたことで経営を持ち直すことが出来たし、何よりも自分の父親が貶されているように感じたのだ。
智賀子は、自分自身で噂を検証することにした。事実、この根も葉もない噂は噂でしかなく、あの通りで事故があったという話はなかったのだ。
夜の桜道を車で走った。桜のシーズンはとうに終わっていて、秋に向かって、葉は色づきはじめていた。旧県道のため車どおりは少なく、対向車とは一台すれ違ったきりで、後続車もない。
やがて桜並木が出てくると、街灯に照らされた、あの看板が見えてきた。
智賀子は車のスピードを少し落とし、看板の全体を視界に入れていった。
徐々に父親の顔が見えていく……あの笑顔の、若かった父の顔だ。
智賀子は、ためらうことなく、父親と、目を合わせた。
ーーその瞬間だった。
笑顔だったはずの父親の顔から、笑顔が消えていた。
智賀子は目を疑った。
たしかにすれ違いざまに一瞬だけ、父が笑っていないように見えた。まるで喜怒哀楽を忘れてしまったかのような、怖ろしいほどの無が、その表情にはあった……。
智賀子は車をUターンさせて、看板の場所まで引き返した。
看板の近くまで来ると、智賀子は車を脇に寄せた。そして、車を降りた。車道を挟んだ向こう側にある、看板を見るために……。
その時、全身にどんと何かをぶつけられたような、強い衝撃が走った。それから体が宙に浮いているかのような浮遊感を覚えたかと思うと、すぐさま地面の冷たさを感じた。
ズキズキと頭が痛み、熱くなっていく……。
ぼやけていく視界の隅に、看板の近くに立っている人影が見えた。
その人影は、生前の父親の姿にも見えた……。
翌日、地方新聞に一件の交通事故のニュースが掲載された。見出しは《旧県道で死亡事故。加害者は飲酒運転》というものだった。
記事によると、加害者の男は車を運転する直前まで酒を飲んでいたという。そして皮肉なことに、男の車からは伊東酒店のレシートが発見された。いうまでもなく、被害者である伊東智賀子が経営していた酒屋だった。
男は飲酒していたことを全面的に認めており、さらに次のようにも供述しているという。
「事故を起こす直前に、看板の男と目が合ったーー」
後日、その看板は、智賀子から伊東酒店の跡を引き継いだ、彼女の弟である伊東正之が、立て直すことになった。
新しい看板には、先々代の笑顔が変わらずあり、キャッチコピーもそのままで何も変わっていないようだった。ただひとつ、酒の瓶を持った智賀子の写真が、新たに加えられたことを除いては……。
新しい看板について、正之は地方新聞の《がんばる地元商店》という小さな特集で、次のように語っている。
「酒屋の経験がない姉が来た時は驚きました。私の方がずっとここで働いていましたからね。ただ、姉は努力家でした。ここまで店を持ち直してくれたのですから。父は姉にここを継いでもらいたがっていたし、看板の中ですけど、二人で酒屋をやれて、天国で喜んでるんじゃないかな」
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