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第二章
第三十一話
アリアの誓獣——バッケネウスを見送ると、バーナードはすぐさま手紙に目を通した。差出人は、フィリップ・ザイツヴェルク。この帝国の皇帝陛下である。
幽閉中の先帝アイザック・ザイツヴェルクについて話がある。書かれていたのは、それだけだった。重厚な封蝋もなければ、華美な装飾も見当たらない。
灯に透かすと浮かび上がる“黒猫”の姿だけが、その証である。
手紙は間違いなく、彼の手によって結ばれたものだった。几帳面に折り畳まれた薄い紙を見て、バーナードは思わず笑みを浮かべる。
「長身で屈強……なのに手先は、意外と器用なんだな」
やがて窓を閉め、机に向かう。引き出しから白い便箋を取り出し、しばし思案したのち、筆を取った。承諾の返事とともに『朝一番で皇城へ向かう』と書き記して、ディカルト家の封蝋を押す。
「にしても、相変わらずでいらっしゃる。約束の時刻もお決めにならんとは」
バーナードはソファに身を横たえ、天を仰いだ。長い脚を腕置きに乗せ、ぼんやりと考える。明日はどの程度、そしていったいどこで待たされるのやら——。
「……本でも持って行くか。——あ」
ここで初めて、アリアの“一押し”を持参しなかったことを悔いた。旅といえば“本”、それも“気楽に読めるもの”と相場は決まっているのだ。
「ここの本じゃ、退屈だ。なんの凌ぎにもならん」
小さく息を吐くと、呼び鈴を鳴らした。隣に連なるもう一つの執事部屋から、カーライルがひょっこりと顔を覗かせる。
「……どうなさいました?」
「悪いな、もう一つ頼まれてくれ。これを皇城に、至急で」
カーライルは頭を下げ、承諾の意を示した。ほんの少し笑みを溢すと、そのまま立ち去る。執事部屋は屋敷の一階にあり、二部屋続きの奥が彼の部屋だ。
「……二十二時か。こんな時間に、馬も気の毒だな」
カーライルの足音が遠ざかるのを聞きながら、夜道を走る早馬の姿を思い浮かべた。バーナードはふと、いつかの出来事を思い出す。
『夜道を照らせるからって何ですか!? 馬だって生きてるんですよ!』
魔灯の小型化が進み、非常識な時間に走らされることが増えた。そう言って馬丁が怒りを露わにしたことがあった。それを目の当たりにしながら、バーナードにはなす術がなかったのだ。
「……はは。また叱られるな。内緒だ、内緒!」
あのとき詰め寄った本邸の馬丁も、今では馬丁頭に出世している。今夜のことを話せば、タウンハウスの馬丁にも指導が入るに違いない。
「どうかされましたか?」
控えめなノックの音に続いて、カーライルの声が聞こえた。扉の前で、バーナードの独り言を耳にしたのだろう。
「いや、何でもない。思い出し笑いだ。もう寝るよ」
そう言って再びこみ上げる笑いを堪えながら、ベッドへ歩を進める。そうして横たわると、程なくして深い眠りへと落ちていった。
ディカルト公爵家で執事になって二十五年。本業を務めずに迎える、タウンハウスでの初めての夜だった。
◇
首都から遥か北の地——ディカルト公爵家本邸。アリアは夫人となって初めて、執事不在の夜を迎えていた。
夕食の後、寝室にノックの音が響く。アリアが自ら扉を開けると、厨房で働く若いメイドが立っていた。
「おくつろぎのところ、申し訳ございません」
メイドは頭を下げ、少し緊張した面持ちで口を開く。
「ご報告を持ってまいりました」
「何かあったの?」
「料理長からでございます。別邸から茶葉が届いたそうで、明朝から奥様にお出ししたいとのことです。問題ございませんでしょうか?」
手には恭しく茶葉の箱が携えられ、ちょうどメイドの目線ほどの高さに掲げられている。青に金の模様が入った、いかにも高級そうな箱だった。
「ありがとう。別邸というと……イザベラさん?」
“別邸”と聞いて、アリアはほんの少し眉を上げた。言うまでもなく怪しむ面持ちだが、これから起ころうとしていることを知れば——そんなものでは足りなかったと、後悔するだろう。
幽閉中の先帝アイザック・ザイツヴェルクについて話がある。書かれていたのは、それだけだった。重厚な封蝋もなければ、華美な装飾も見当たらない。
灯に透かすと浮かび上がる“黒猫”の姿だけが、その証である。
手紙は間違いなく、彼の手によって結ばれたものだった。几帳面に折り畳まれた薄い紙を見て、バーナードは思わず笑みを浮かべる。
「長身で屈強……なのに手先は、意外と器用なんだな」
やがて窓を閉め、机に向かう。引き出しから白い便箋を取り出し、しばし思案したのち、筆を取った。承諾の返事とともに『朝一番で皇城へ向かう』と書き記して、ディカルト家の封蝋を押す。
「にしても、相変わらずでいらっしゃる。約束の時刻もお決めにならんとは」
バーナードはソファに身を横たえ、天を仰いだ。長い脚を腕置きに乗せ、ぼんやりと考える。明日はどの程度、そしていったいどこで待たされるのやら——。
「……本でも持って行くか。——あ」
ここで初めて、アリアの“一押し”を持参しなかったことを悔いた。旅といえば“本”、それも“気楽に読めるもの”と相場は決まっているのだ。
「ここの本じゃ、退屈だ。なんの凌ぎにもならん」
小さく息を吐くと、呼び鈴を鳴らした。隣に連なるもう一つの執事部屋から、カーライルがひょっこりと顔を覗かせる。
「……どうなさいました?」
「悪いな、もう一つ頼まれてくれ。これを皇城に、至急で」
カーライルは頭を下げ、承諾の意を示した。ほんの少し笑みを溢すと、そのまま立ち去る。執事部屋は屋敷の一階にあり、二部屋続きの奥が彼の部屋だ。
「……二十二時か。こんな時間に、馬も気の毒だな」
カーライルの足音が遠ざかるのを聞きながら、夜道を走る早馬の姿を思い浮かべた。バーナードはふと、いつかの出来事を思い出す。
『夜道を照らせるからって何ですか!? 馬だって生きてるんですよ!』
魔灯の小型化が進み、非常識な時間に走らされることが増えた。そう言って馬丁が怒りを露わにしたことがあった。それを目の当たりにしながら、バーナードにはなす術がなかったのだ。
「……はは。また叱られるな。内緒だ、内緒!」
あのとき詰め寄った本邸の馬丁も、今では馬丁頭に出世している。今夜のことを話せば、タウンハウスの馬丁にも指導が入るに違いない。
「どうかされましたか?」
控えめなノックの音に続いて、カーライルの声が聞こえた。扉の前で、バーナードの独り言を耳にしたのだろう。
「いや、何でもない。思い出し笑いだ。もう寝るよ」
そう言って再びこみ上げる笑いを堪えながら、ベッドへ歩を進める。そうして横たわると、程なくして深い眠りへと落ちていった。
ディカルト公爵家で執事になって二十五年。本業を務めずに迎える、タウンハウスでの初めての夜だった。
◇
首都から遥か北の地——ディカルト公爵家本邸。アリアは夫人となって初めて、執事不在の夜を迎えていた。
夕食の後、寝室にノックの音が響く。アリアが自ら扉を開けると、厨房で働く若いメイドが立っていた。
「おくつろぎのところ、申し訳ございません」
メイドは頭を下げ、少し緊張した面持ちで口を開く。
「ご報告を持ってまいりました」
「何かあったの?」
「料理長からでございます。別邸から茶葉が届いたそうで、明朝から奥様にお出ししたいとのことです。問題ございませんでしょうか?」
手には恭しく茶葉の箱が携えられ、ちょうどメイドの目線ほどの高さに掲げられている。青に金の模様が入った、いかにも高級そうな箱だった。
「ありがとう。別邸というと……イザベラさん?」
“別邸”と聞いて、アリアはほんの少し眉を上げた。言うまでもなく怪しむ面持ちだが、これから起ころうとしていることを知れば——そんなものでは足りなかったと、後悔するだろう。
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