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最終話
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ニュンフェの扉を開けると、チリンチリンと店内に鈴の音が響く。客が来たことを知らせるための音色である。日が落ちてすぐということもあり、店内には客が1人もいなかった。カウンターの向こう側ではマスターがいつものように立っていて、「いらっしゃい。」と言ってウィスキーの瓶を準備してくれる。
ロックで頼む、と酒飲みが伝えるとマスターは「あいよ。」と言い、グラスに氷を入れる。店内にはサックスの音が落ち着いたリズムで流れていて、酒飲みの心を癒していく。席に置かれていた豆菓子をたべながらしばらくの間、酒が出来上がるのを待つ。
「お待ち。」と言い、マスターがウィスキーグラスを酒飲みの前に置く。
「ありがとうよ。」酒飲みはマスターに礼を言う。
「それで、デートはどうだったんだい。」店に入ってきたときに、一緒に来るはずだったサリーがいないので気になっていたのかもしれない。だが、すぐに聞かずに落ち着いたところで声をかけるあたりが、マスターのマスターたる所以なのだろう。
「・・・マスター、女っていうのは、色んな秘密を持っているものなんだな。」そう言って酒飲みはウィスキーをぐいっと飲む。自分の中で消化しきれていない考えを、話すことで整理しようとしているのかもしれない。
「わたしたち男にとって、女性というのは常に何を考えているのか分からない生き物なのかもしれないね。」マスターはグラスを丁寧に拭きながら、そう答える。マスターは男が振られたと思っているのかもしれないが、それは定かではない。ただ、男が何かに悩んでいることを感じ取ってはいるようだ。
「マスター、おれ言ったよな。1人の男に生まれたからにはたった1人の女を幸せにしてやりてえって。」
「ああ、言っていたね。」
「こんなに身体が小さくて、卑屈な性格をしている俺に向かってあの子は、やれ素直だのやれ優しいだの、嬉しい言葉をかけてくれるんだ。良い女だな、そう思ったよ。だが、その女を守るために、命を賭けなきゃいけないという状況になったら、マスターならどうする?」
「なんだ、その子はヤクザにでも追われているのかい?」
「そういうわけじゃないさ。」
「なら、哲学の話かい。」
「まあそんなもんだ。」酒飲みはふーっと息を吐く。こんなときは煙草を吸いながら物思いに耽けりたくもなるが、あいにく店内は禁煙だった。
「そうだね・・・。大切な人を守るときは、いつだって命をかける覚悟はしなきゃいけないんじゃないのかな。それなりに長く生きてくるとね、自分の命なんかより大切なものは、本当にたくさん生まれてしまうんだよ。だけど自分が死んでしまっては、大切な人を守ることができない。だから命をかけてもいいが、最後の最後まで這いつくばってでも懸命に生きる努力をしないといけないって、私はそう思う。」
マスターはテーブルを拭きながら、淡々と語る。落ち着いた声は店内を流れるサックスの音のように心地よく、とても素直に酒飲みの頭の中へ入ってくる。
「なああんた、大切な人や大切なものが出来るっていうのは幸せなことだよ。もちろん辛いことや大変なことはあるんだけどね。だけど、それがあるから生きていこう、それを守るためにより良い自分になろう、てそう思わせてくれる。私にとって命より大切なものは、この店と店に足を運んでくれるあんたたちお客さんだよ。世の中分からないことや難しいことはたくさんあるけれど、それだけは確かで、シンプルな事実なんだ。」
そんな風に話すマスターを、酒飲みは初めて見た。いつも飄々と落ち着いていて、本心ではなにを考えているか分からないマスターは、心の中でそんなことを考えていたのか、と酒飲みは思う。
「マスター、いいこと言うんだな。」
「また珍しく悩んでいる様子だったからね、少しでもあんたの勇気になってくれれば嬉しいよ。」
「生きていれば自分の命より大切なものはたくさん生まれる、か。やっぱりマスターにはかなわねえな。ありがとうよ。」そう言って酒飲みはウィスキーをぐいっと飲み、もう一杯、とマスターに頼む。
「そうだマスター、おれにも恋人ができるかもしれないんだ。」
「それはめでたいことだね。せっかくディナーを準備していたのに、この間の女性と現れないものだから、どうしようかと思っていたんだ。そうか、なら今日は祝杯をあげようかい。」やはりマスターは、酒飲みが2人でやってこなかったことを気にしていたようだ。自分のことのように嬉しそうな顔をするマスターを見て、酒飲みも嬉しくなる。
「色々とあってな、彼女とは近いうちにまた会う予定になっている。そうだ、その料理はマスターが一緒に食べてもらえないかい。ご馳走するよ。」
「おや、気前がいいね。ならお言葉に甘えるよ。」マスターはウィスキーを酒飲みに手渡し、料理を取りに店の裏に回る。いくつかの料理をもってきて、男の前に並べる。
「じゃあ、まずは前菜から出していくよ。夜はまだまだ長いからゆっくり食べな。」
「これから色々と大変になりそうなんだ。今日はもう少し、話を聞いてくれるかい。」
「何をいまさら言っているんだい。いつも聞いているじゃあないか。」
「そうか、そうだったな。いつもすまないね。」
「なんだい突然改まって。えらく素直だね。」
「おれはいつだって、素直で正直なやつでありたいと思っているのさ。」
「そうかい、それは良いことだ。」
先ほどまで妖精界がどうやら、王様がなにやらと言った話をしていたのに、今はいつもの日常に戻っている。もしかしたら、先ほどまでのことも全部夢だったのではと思うほどだ。だが、彼女の温もりがある。彼女の涙がある。身体に感じたその実感は、たしかに存在する形となって酒飲みに伝わってくる。そして目に焼き付いた妖精界の景色は、夢でも幻でもない。実際に起こったことなのだと、酒飲みに確信をもたせる。
「なあマスター、話を始める前にひとつだけ聞いてもいいか。」
「どうぞ。わたしも素直と正直さを大切にしているからね、なんでも答えるよ。」マスターはそう言って酒飲みに向かって微笑む。
「あんた、あの子に何か言われたかい?」
まだきちんと理解しきれていないが、妖精界とやらを無事救うことができたら、またこの店に来よう。そして、酒をグイグイと飲んで、マスターと馬鹿な話でもしよう。そう思うと、気分が軽くなった。
「私の王子様を見つけました。」そう言われたよ、とマスターは笑った。
店内の音楽がとても静かに、美しく流れていく。世界はとても不思議なことに満ち溢れていて、僕らは全てを知ったような気でいて、まるで何もしらない。そんな世界の片隅でおきた、ある日の出来事だった。
ロックで頼む、と酒飲みが伝えるとマスターは「あいよ。」と言い、グラスに氷を入れる。店内にはサックスの音が落ち着いたリズムで流れていて、酒飲みの心を癒していく。席に置かれていた豆菓子をたべながらしばらくの間、酒が出来上がるのを待つ。
「お待ち。」と言い、マスターがウィスキーグラスを酒飲みの前に置く。
「ありがとうよ。」酒飲みはマスターに礼を言う。
「それで、デートはどうだったんだい。」店に入ってきたときに、一緒に来るはずだったサリーがいないので気になっていたのかもしれない。だが、すぐに聞かずに落ち着いたところで声をかけるあたりが、マスターのマスターたる所以なのだろう。
「・・・マスター、女っていうのは、色んな秘密を持っているものなんだな。」そう言って酒飲みはウィスキーをぐいっと飲む。自分の中で消化しきれていない考えを、話すことで整理しようとしているのかもしれない。
「わたしたち男にとって、女性というのは常に何を考えているのか分からない生き物なのかもしれないね。」マスターはグラスを丁寧に拭きながら、そう答える。マスターは男が振られたと思っているのかもしれないが、それは定かではない。ただ、男が何かに悩んでいることを感じ取ってはいるようだ。
「マスター、おれ言ったよな。1人の男に生まれたからにはたった1人の女を幸せにしてやりてえって。」
「ああ、言っていたね。」
「こんなに身体が小さくて、卑屈な性格をしている俺に向かってあの子は、やれ素直だのやれ優しいだの、嬉しい言葉をかけてくれるんだ。良い女だな、そう思ったよ。だが、その女を守るために、命を賭けなきゃいけないという状況になったら、マスターならどうする?」
「なんだ、その子はヤクザにでも追われているのかい?」
「そういうわけじゃないさ。」
「なら、哲学の話かい。」
「まあそんなもんだ。」酒飲みはふーっと息を吐く。こんなときは煙草を吸いながら物思いに耽けりたくもなるが、あいにく店内は禁煙だった。
「そうだね・・・。大切な人を守るときは、いつだって命をかける覚悟はしなきゃいけないんじゃないのかな。それなりに長く生きてくるとね、自分の命なんかより大切なものは、本当にたくさん生まれてしまうんだよ。だけど自分が死んでしまっては、大切な人を守ることができない。だから命をかけてもいいが、最後の最後まで這いつくばってでも懸命に生きる努力をしないといけないって、私はそう思う。」
マスターはテーブルを拭きながら、淡々と語る。落ち着いた声は店内を流れるサックスの音のように心地よく、とても素直に酒飲みの頭の中へ入ってくる。
「なああんた、大切な人や大切なものが出来るっていうのは幸せなことだよ。もちろん辛いことや大変なことはあるんだけどね。だけど、それがあるから生きていこう、それを守るためにより良い自分になろう、てそう思わせてくれる。私にとって命より大切なものは、この店と店に足を運んでくれるあんたたちお客さんだよ。世の中分からないことや難しいことはたくさんあるけれど、それだけは確かで、シンプルな事実なんだ。」
そんな風に話すマスターを、酒飲みは初めて見た。いつも飄々と落ち着いていて、本心ではなにを考えているか分からないマスターは、心の中でそんなことを考えていたのか、と酒飲みは思う。
「マスター、いいこと言うんだな。」
「また珍しく悩んでいる様子だったからね、少しでもあんたの勇気になってくれれば嬉しいよ。」
「生きていれば自分の命より大切なものはたくさん生まれる、か。やっぱりマスターにはかなわねえな。ありがとうよ。」そう言って酒飲みはウィスキーをぐいっと飲み、もう一杯、とマスターに頼む。
「そうだマスター、おれにも恋人ができるかもしれないんだ。」
「それはめでたいことだね。せっかくディナーを準備していたのに、この間の女性と現れないものだから、どうしようかと思っていたんだ。そうか、なら今日は祝杯をあげようかい。」やはりマスターは、酒飲みが2人でやってこなかったことを気にしていたようだ。自分のことのように嬉しそうな顔をするマスターを見て、酒飲みも嬉しくなる。
「色々とあってな、彼女とは近いうちにまた会う予定になっている。そうだ、その料理はマスターが一緒に食べてもらえないかい。ご馳走するよ。」
「おや、気前がいいね。ならお言葉に甘えるよ。」マスターはウィスキーを酒飲みに手渡し、料理を取りに店の裏に回る。いくつかの料理をもってきて、男の前に並べる。
「じゃあ、まずは前菜から出していくよ。夜はまだまだ長いからゆっくり食べな。」
「これから色々と大変になりそうなんだ。今日はもう少し、話を聞いてくれるかい。」
「何をいまさら言っているんだい。いつも聞いているじゃあないか。」
「そうか、そうだったな。いつもすまないね。」
「なんだい突然改まって。えらく素直だね。」
「おれはいつだって、素直で正直なやつでありたいと思っているのさ。」
「そうかい、それは良いことだ。」
先ほどまで妖精界がどうやら、王様がなにやらと言った話をしていたのに、今はいつもの日常に戻っている。もしかしたら、先ほどまでのことも全部夢だったのではと思うほどだ。だが、彼女の温もりがある。彼女の涙がある。身体に感じたその実感は、たしかに存在する形となって酒飲みに伝わってくる。そして目に焼き付いた妖精界の景色は、夢でも幻でもない。実際に起こったことなのだと、酒飲みに確信をもたせる。
「なあマスター、話を始める前にひとつだけ聞いてもいいか。」
「どうぞ。わたしも素直と正直さを大切にしているからね、なんでも答えるよ。」マスターはそう言って酒飲みに向かって微笑む。
「あんた、あの子に何か言われたかい?」
まだきちんと理解しきれていないが、妖精界とやらを無事救うことができたら、またこの店に来よう。そして、酒をグイグイと飲んで、マスターと馬鹿な話でもしよう。そう思うと、気分が軽くなった。
「私の王子様を見つけました。」そう言われたよ、とマスターは笑った。
店内の音楽がとても静かに、美しく流れていく。世界はとても不思議なことに満ち溢れていて、僕らは全てを知ったような気でいて、まるで何もしらない。そんな世界の片隅でおきた、ある日の出来事だった。
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