犀川のクジラ

みん

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1章 春

5話

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「血だなあ」

 心美の姿が見えなくなると、十文字がそうつぶやいた。先ほどまでギャーギャーと言い合っていたとは思えないほど、静かな顔をしている。

「血?てなんですか」

「心美ちゃんとは知り合いなのか?」

「いえ。今朝ぐうぜん、橋の下で会ったんです」僕が言うと、橋の下で会ったってなんだよ、と笑いながら十文字は言葉をつづける。

「・・・心美ちゃんはな、ここら近辺じゃ有名な絵描きの一人娘なんだよ」

「絵描き?」

「花川静香って名前、聞いたことないか?」

「花川静香・・・。もしかして、画家の花川静香ですか」
 花川静香。八年前にフランスの有名な絵画コンクールで大賞をとったことを皮切りに、いくつもの美しい絵を世にのこした。金沢で暮らしている画家だったため、地元のテレビで天才画家として紹介されているのを見たことがある。当時僕は中学生で、絵の魅力などまったく分からなかったのだが。

「正解!一枚絵をかけば何千万の値打ちがつくといわれていた天才絵描き。心美ちゃんはその天才絵描きの娘なんだ」

 “画家”と言えばいいのに、十文字は“絵描き”と呼んだ。こだわりなのか、ただ単に知らないだけなのか判別ができない。

「そういうことですか・・・。だけど、たしか花川静香って三年ほど前に―」

「そうだな、彼女は亡くなっている」十文字は静かに目を細め、「おれは亡くなる前の彼女から、絵を一枚あずかっているのさ」と言った。

さきほど十文字と心美の会話の中にでてきた、花川静香の絵だ。絵のことなどまったく興味のなさそうな十文字が、なぜそんなものを預かっているのだろうと疑問に思う。

「・・・店長は、花川静香とはどういう関係なんですか?」
 そう聞くと、十文字はよくぞ聞いてくれた、というように鼻の穴を膨らませる。

「彼女の旦那とおれが、昔からのツレだったんだよ。それでよく、うちの屋上で集まってバーベキューをしたり、花火を見たりしてた。ここの屋上けっこういいんだぜ、あの頃は楽しかったなあ」

今はもう、生きているのは俺だけになっちまったけど・・・と最後は尻すぼみになって、十文字はさみしそうに呟いた。

花川静香とバーベキューをしたり花火を見たりするような仲だったと話す十文字に、僕は少なからず驚いた。

僕は、十文字の奥さんがもうこの世にいないことを知っている。

「生きているのは俺だけになっちまった」と話す十文字の言葉から、心美の両親はすでに亡くなっているのだということが推測できた。

花川静香はどうして亡くなったのだったか。

事故?病気?

新聞やテレビで報道されていたような気がするが、すぐには思い出せない。

「花川静香はどうして亡くなっ・・・」
十文字に聞いてみようと問いかけた瞬間、後ろでゴーンと音が鳴った。

グランド・ファーザー・クロックが、午後二時になったことを知らせたのだ。十文字書店の開創当初から置かれているというその振り子時計は、たびたび時間がずれて、その度に修理業者を呼ばなければいけない。だが十文字は手間を惜しまず、古時計を手放すことはなかった。

「じーちゃんの代からの守り神だからよ」
と言って彼は時々、この古時計をすみずみまで磨いている。

「秀隆さん、時間です。三時半までに犀川中学校への配達を終わらせて、五時までに県立大学へ納品を済ませなければなりません」御手洗はメガネをくいっとあげると、よく通る声で言った。十文字の右腕として、御手洗はいつもテキパキと働く。

「もうこんな時間か。六藤、そろそろ永井がくるとおもうから、あいつが来たら交代して帰っていいぞ」

「わかりました」まだ花川静香や、心美に関して聞きたいことがあった。だが、時間に厳しい御手洗さんが、彼を引きとめることを許さない。

「あ、それからな」配達へ出かけようとした十文字が思い出したように立ち止まり、振り返る。

「はい?」

「女の子というのは、見ためによらないからな」
十文字は意味深長なセリフをのこし、御手洗と一緒に出かけていった。

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