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1章 春
9話
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その時、ガシャーンという大きな音が聞こえた。
店員が皿を落としたのだろうかと思っていると、こんどは誰かが言い争うような声が聞こえてくる。激しい怒声だ。その声のほうに目を向けると、男女が取っ組み合いのような形になり、もみ合っている。
女の子は、心美だった。
どうして彼女がいる?
いや、どうして彼女が取っ組み合いのケンカなんてしているのだ。
男の体格は普通だが、心美が小さすぎて子供と大人のケンカのように見えた。周囲の学生たちは大広間の端に寄り、彼らのケンカに野次を飛ばしている。心美は体格差が不利だと判断したのか、一度男を突き放し、距離をとる。そして、ふーっと息をはき、試合に臨むボクサーのようにファイティングポーズをとり、男を睨む。しばらく心美と男の睨みあいが続く。
「ちょっと、これどういう状況ですか」
僕はそっと近づき、団体の端にいる女の子に小声で説明を求める。心美と男は睨み合っていて動かない。
「あなた、だあれ?」
「僕は六藤っていいます」
「六藤さんか。わたしはシオリ、よろしくね」
自己紹介をしあっている場合ではないのだが、シオリと名乗る女性はのんきに焼き鳥を食べている。
「どうして彼らはケンカになっているんですか」僕はもう一度聞く。
「ああ」そのことね、とようやく納得したようにしてシオリは僕の耳に口を近づける。
「わたしたち、ゼミで新人の歓迎会しているんだけどね。ヤマグチくん、心美ちゃんが可愛いからって彼女がゼミに入ってからちょっかいばかりかけていたの。でも相手にされないものだから、心美ちゃんのお母さんの話をしたらしくて。そうしたら彼女が怒って、こんなかんじ。心美ちゃんも酔っぱらいの言うことなんて放っておけばいいのに、よっぽど腹が立ったんだろうね。彼女、負けん気つよいから」のんびりと状況を説明するシオリの息が耳にかかってくすぐったい。
つまり、気に入った新入生に冷たい態度をとられた上級生が、怒って地雷を踏むような発言をしたということだろう。同じ芸術を志す人間たちの集まりなのだ。つれない心美に怒ったヤマグチという男が、彼女のお母さんの作品を馬鹿にしたのかもしれない、と僕は思う。
その時、睨みあいが終わり、男が先に動いた。
男は酒が入っているのかフラフラとして目を充血させながらなにかを叫び、心美になぐりかかる。心美はその拳を器用によけて身体をたたみ、右足を蹴りあげる。右足をよけた男が嘲笑うように声をあげるが、そのまま心美の身体はぎゅんっと一回転した。回転により加速がつくと、全身のバネが弾かれるように彼女は力強く空を飛んだ。
見事な飛び回し蹴りだった。
心美の一撃は男の顔面にクリーンヒットし、男は地面にたたきつけられる。すぐに心美は男の上に馬乗りになると、息もつかせず張り手で叩き、叩き、叩いた。身体の大きさから劣勢だと思われた彼女は、完全にそのケンカの勝者だった。
周囲の学生たちは心美がなんども先輩を引っ叩く様子を、口をポカンと開けてと見ているだけだ。僕の横では、シオリが焼き鳥を食べ続けている。
「やめろ!」
部外者であることに気兼ねして仲裁に入らなかった僕だったが、居酒屋の破壊神と化してしまった心美を男からなんとか引きはがす。
「おにいさん!?ちょっとはなして!」心美は僕に気づいたが、男への怒りがまだまだ収まらないようだ。
「そんなわけにはいかないって、何があったんだ」
「あいつが、わたしのお母さんを馬鹿にしたんだよ」
「小学生みたいな理由だ」
そう言いあっていると、男が飛び回し蹴りの衝撃から目を覚ましたのか、ゆっくりと身体を起こし、立ち上がる。やられながら何度も立ち上がるロッキーのようだが、彼の素行はそんなに格好良くない。
「いてて、猿みてーに飛び跳ねやがって。可愛い顔しているから甘やかしたけど、化け物の子はやっぱり化け物だな」
「それ以上言うと、本気で怒る」
と言う心美は、もうすでに本気で怒っている。小さな身体からこれでもかというほどの熱を放出して、しゅーしゅーと音を立てているようだ。
「俺の父ちゃんは大学でお前の母ちゃんと同級生だったんだ。そのころからお前の母ちゃんは天才的な絵の才能をもっていたけど、器量がわるくて全く男にモテなかったんだってさ。父ちゃんもお前の母ちゃんだけは口説く気にはならなかったって言ってた、無口で絵ばかり描いて何考えているか分かんねえ女だったからな。」
男は口からつばを吐きながら、低い声で話した。
女の子に一度ノックダウンされた羞恥からか、どんどんと悪意のある言葉が溢れてくる。僕はいつのまにか、店内が静かになっていることに気付く。大広間の学生たちも、男がなにを言いだすのかと固唾を飲んで見守っている。
「絵しか才能がなかったけどよ、さすがに上達してちょっとは売れるようになった。まあおれの父ちゃんは有名な画商だから、お前の母ちゃんの何倍も稼いでいたけどな。それで、なんだっけか。お前の母ちゃんが年をとってからやっとみつけた旦那は、お前が中学生のときに、カンタンに死んじまった。死んじまった?いや、ちがうか、そうじゃないな。」
男は酒の酔いと心美から受けたダメージでハイになっているのかもしれない、ろれつは回ってないが、さらにヒートアップして話を続ける。騒ぎを聞いて駆けつけたのか、永井と由紀の姿が見える。心配そうにこちらを見ている。
「私のお母さんのことを、あんたになんか語られたくない。お母さんはずっと芸術を愛していた。描くことを愛していた。なんにも知らないあんたみたいな奴に、なにが分かる」
後ろから抱きかかえるようにして抑えているのに、心美は強引に身体をねじり、抜け出そうともがく。彼女の小さな身体のどこにこの強烈なパワーが秘められているのだろうか。
彼女の怒りの熱が僕につたわり、いっしょになって僕の身体までどんどんと熱くなっていく。熱さで頭がくらくらするほどだ。
「分かるさ」
「分かるわけない!」
「お前の母ちゃんは父ちゃんを殺して頭がおかしくなって最後には」
男は悦に入るように醜く顔を歪め、その言葉を言った。
「自殺したんだ」
言い訳するわけではないけれど、普段の僕は周りから温厚だと言われていて、まずこんなことはしない人間だ。
だけどその日彼の言葉を聞いた瞬間、脳みそがふっと白く濁るのを感じた。赤の他人で、別に親しくもない少女のためになぜそんなことをしたのか分からない。彼女から伝わる激しい熱にでも浮かされてしまったのかもしれない。とにかく、その時僕は、僕自身の中から湧いてくるシンプルな怒りを止めることができなかった。
気づけば僕は、その男の顔に拳を叩きこんでいた。
店員が皿を落としたのだろうかと思っていると、こんどは誰かが言い争うような声が聞こえてくる。激しい怒声だ。その声のほうに目を向けると、男女が取っ組み合いのような形になり、もみ合っている。
女の子は、心美だった。
どうして彼女がいる?
いや、どうして彼女が取っ組み合いのケンカなんてしているのだ。
男の体格は普通だが、心美が小さすぎて子供と大人のケンカのように見えた。周囲の学生たちは大広間の端に寄り、彼らのケンカに野次を飛ばしている。心美は体格差が不利だと判断したのか、一度男を突き放し、距離をとる。そして、ふーっと息をはき、試合に臨むボクサーのようにファイティングポーズをとり、男を睨む。しばらく心美と男の睨みあいが続く。
「ちょっと、これどういう状況ですか」
僕はそっと近づき、団体の端にいる女の子に小声で説明を求める。心美と男は睨み合っていて動かない。
「あなた、だあれ?」
「僕は六藤っていいます」
「六藤さんか。わたしはシオリ、よろしくね」
自己紹介をしあっている場合ではないのだが、シオリと名乗る女性はのんきに焼き鳥を食べている。
「どうして彼らはケンカになっているんですか」僕はもう一度聞く。
「ああ」そのことね、とようやく納得したようにしてシオリは僕の耳に口を近づける。
「わたしたち、ゼミで新人の歓迎会しているんだけどね。ヤマグチくん、心美ちゃんが可愛いからって彼女がゼミに入ってからちょっかいばかりかけていたの。でも相手にされないものだから、心美ちゃんのお母さんの話をしたらしくて。そうしたら彼女が怒って、こんなかんじ。心美ちゃんも酔っぱらいの言うことなんて放っておけばいいのに、よっぽど腹が立ったんだろうね。彼女、負けん気つよいから」のんびりと状況を説明するシオリの息が耳にかかってくすぐったい。
つまり、気に入った新入生に冷たい態度をとられた上級生が、怒って地雷を踏むような発言をしたということだろう。同じ芸術を志す人間たちの集まりなのだ。つれない心美に怒ったヤマグチという男が、彼女のお母さんの作品を馬鹿にしたのかもしれない、と僕は思う。
その時、睨みあいが終わり、男が先に動いた。
男は酒が入っているのかフラフラとして目を充血させながらなにかを叫び、心美になぐりかかる。心美はその拳を器用によけて身体をたたみ、右足を蹴りあげる。右足をよけた男が嘲笑うように声をあげるが、そのまま心美の身体はぎゅんっと一回転した。回転により加速がつくと、全身のバネが弾かれるように彼女は力強く空を飛んだ。
見事な飛び回し蹴りだった。
心美の一撃は男の顔面にクリーンヒットし、男は地面にたたきつけられる。すぐに心美は男の上に馬乗りになると、息もつかせず張り手で叩き、叩き、叩いた。身体の大きさから劣勢だと思われた彼女は、完全にそのケンカの勝者だった。
周囲の学生たちは心美がなんども先輩を引っ叩く様子を、口をポカンと開けてと見ているだけだ。僕の横では、シオリが焼き鳥を食べ続けている。
「やめろ!」
部外者であることに気兼ねして仲裁に入らなかった僕だったが、居酒屋の破壊神と化してしまった心美を男からなんとか引きはがす。
「おにいさん!?ちょっとはなして!」心美は僕に気づいたが、男への怒りがまだまだ収まらないようだ。
「そんなわけにはいかないって、何があったんだ」
「あいつが、わたしのお母さんを馬鹿にしたんだよ」
「小学生みたいな理由だ」
そう言いあっていると、男が飛び回し蹴りの衝撃から目を覚ましたのか、ゆっくりと身体を起こし、立ち上がる。やられながら何度も立ち上がるロッキーのようだが、彼の素行はそんなに格好良くない。
「いてて、猿みてーに飛び跳ねやがって。可愛い顔しているから甘やかしたけど、化け物の子はやっぱり化け物だな」
「それ以上言うと、本気で怒る」
と言う心美は、もうすでに本気で怒っている。小さな身体からこれでもかというほどの熱を放出して、しゅーしゅーと音を立てているようだ。
「俺の父ちゃんは大学でお前の母ちゃんと同級生だったんだ。そのころからお前の母ちゃんは天才的な絵の才能をもっていたけど、器量がわるくて全く男にモテなかったんだってさ。父ちゃんもお前の母ちゃんだけは口説く気にはならなかったって言ってた、無口で絵ばかり描いて何考えているか分かんねえ女だったからな。」
男は口からつばを吐きながら、低い声で話した。
女の子に一度ノックダウンされた羞恥からか、どんどんと悪意のある言葉が溢れてくる。僕はいつのまにか、店内が静かになっていることに気付く。大広間の学生たちも、男がなにを言いだすのかと固唾を飲んで見守っている。
「絵しか才能がなかったけどよ、さすがに上達してちょっとは売れるようになった。まあおれの父ちゃんは有名な画商だから、お前の母ちゃんの何倍も稼いでいたけどな。それで、なんだっけか。お前の母ちゃんが年をとってからやっとみつけた旦那は、お前が中学生のときに、カンタンに死んじまった。死んじまった?いや、ちがうか、そうじゃないな。」
男は酒の酔いと心美から受けたダメージでハイになっているのかもしれない、ろれつは回ってないが、さらにヒートアップして話を続ける。騒ぎを聞いて駆けつけたのか、永井と由紀の姿が見える。心配そうにこちらを見ている。
「私のお母さんのことを、あんたになんか語られたくない。お母さんはずっと芸術を愛していた。描くことを愛していた。なんにも知らないあんたみたいな奴に、なにが分かる」
後ろから抱きかかえるようにして抑えているのに、心美は強引に身体をねじり、抜け出そうともがく。彼女の小さな身体のどこにこの強烈なパワーが秘められているのだろうか。
彼女の怒りの熱が僕につたわり、いっしょになって僕の身体までどんどんと熱くなっていく。熱さで頭がくらくらするほどだ。
「分かるさ」
「分かるわけない!」
「お前の母ちゃんは父ちゃんを殺して頭がおかしくなって最後には」
男は悦に入るように醜く顔を歪め、その言葉を言った。
「自殺したんだ」
言い訳するわけではないけれど、普段の僕は周りから温厚だと言われていて、まずこんなことはしない人間だ。
だけどその日彼の言葉を聞いた瞬間、脳みそがふっと白く濁るのを感じた。赤の他人で、別に親しくもない少女のためになぜそんなことをしたのか分からない。彼女から伝わる激しい熱にでも浮かされてしまったのかもしれない。とにかく、その時僕は、僕自身の中から湧いてくるシンプルな怒りを止めることができなかった。
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