犀川のクジラ

みん

文字の大きさ
10 / 56
1章 春

9話

しおりを挟む
 その時、ガシャーンという大きな音が聞こえた。

 店員が皿を落としたのだろうかと思っていると、こんどは誰かが言い争うような声が聞こえてくる。激しい怒声だ。その声のほうに目を向けると、男女が取っ組み合いのような形になり、もみ合っている。
 
 女の子は、心美だった。
 
 どうして彼女がいる?
 いや、どうして彼女が取っ組み合いのケンカなんてしているのだ。
 
 男の体格は普通だが、心美が小さすぎて子供と大人のケンカのように見えた。周囲の学生たちは大広間の端に寄り、彼らのケンカに野次を飛ばしている。心美は体格差が不利だと判断したのか、一度男を突き放し、距離をとる。そして、ふーっと息をはき、試合に臨むボクサーのようにファイティングポーズをとり、男を睨む。しばらく心美と男の睨みあいが続く。

「ちょっと、これどういう状況ですか」
 僕はそっと近づき、団体の端にいる女の子に小声で説明を求める。心美と男は睨み合っていて動かない。

「あなた、だあれ?」
「僕は六藤っていいます」
「六藤さんか。わたしはシオリ、よろしくね」

 自己紹介をしあっている場合ではないのだが、シオリと名乗る女性はのんきに焼き鳥を食べている。
「どうして彼らはケンカになっているんですか」僕はもう一度聞く。
「ああ」そのことね、とようやく納得したようにしてシオリは僕の耳に口を近づける。
「わたしたち、ゼミで新人の歓迎会しているんだけどね。ヤマグチくん、心美ちゃんが可愛いからって彼女がゼミに入ってからちょっかいばかりかけていたの。でも相手にされないものだから、心美ちゃんのお母さんの話をしたらしくて。そうしたら彼女が怒って、こんなかんじ。心美ちゃんも酔っぱらいの言うことなんて放っておけばいいのに、よっぽど腹が立ったんだろうね。彼女、負けん気つよいから」のんびりと状況を説明するシオリの息が耳にかかってくすぐったい。

 つまり、気に入った新入生に冷たい態度をとられた上級生が、怒って地雷を踏むような発言をしたということだろう。同じ芸術を志す人間たちの集まりなのだ。つれない心美に怒ったヤマグチという男が、彼女のお母さんの作品を馬鹿にしたのかもしれない、と僕は思う。
 その時、睨みあいが終わり、男が先に動いた。
 男は酒が入っているのかフラフラとして目を充血させながらなにかを叫び、心美になぐりかかる。心美はその拳を器用によけて身体をたたみ、右足を蹴りあげる。右足をよけた男が嘲笑うように声をあげるが、そのまま心美の身体はぎゅんっと一回転した。回転により加速がつくと、全身のバネが弾かれるように彼女は力強く空を飛んだ。
 
 見事な飛び回し蹴りだった。
 
 心美の一撃は男の顔面にクリーンヒットし、男は地面にたたきつけられる。すぐに心美は男の上に馬乗りになると、息もつかせず張り手で叩き、叩き、叩いた。身体の大きさから劣勢だと思われた彼女は、完全にそのケンカの勝者だった。
 周囲の学生たちは心美がなんども先輩を引っ叩く様子を、口をポカンと開けてと見ているだけだ。僕の横では、シオリが焼き鳥を食べ続けている。
「やめろ!」
 部外者であることに気兼ねして仲裁に入らなかった僕だったが、居酒屋の破壊神と化してしまった心美を男からなんとか引きはがす。

「おにいさん!?ちょっとはなして!」心美は僕に気づいたが、男への怒りがまだまだ収まらないようだ。
「そんなわけにはいかないって、何があったんだ」
「あいつが、わたしのお母さんを馬鹿にしたんだよ」
「小学生みたいな理由だ」
 
 そう言いあっていると、男が飛び回し蹴りの衝撃から目を覚ましたのか、ゆっくりと身体を起こし、立ち上がる。やられながら何度も立ち上がるロッキーのようだが、彼の素行はそんなに格好良くない。

「いてて、猿みてーに飛び跳ねやがって。可愛い顔しているから甘やかしたけど、化け物の子はやっぱり化け物だな」

「それ以上言うと、本気で怒る」
と言う心美は、もうすでに本気で怒っている。小さな身体からこれでもかというほどの熱を放出して、しゅーしゅーと音を立てているようだ。

「俺の父ちゃんは大学でお前の母ちゃんと同級生だったんだ。そのころからお前の母ちゃんは天才的な絵の才能をもっていたけど、器量がわるくて全く男にモテなかったんだってさ。父ちゃんもお前の母ちゃんだけは口説く気にはならなかったって言ってた、無口で絵ばかり描いて何考えているか分かんねえ女だったからな。」
男は口からつばを吐きながら、低い声で話した。
 
 女の子に一度ノックダウンされた羞恥からか、どんどんと悪意のある言葉が溢れてくる。僕はいつのまにか、店内が静かになっていることに気付く。大広間の学生たちも、男がなにを言いだすのかと固唾を飲んで見守っている。

「絵しか才能がなかったけどよ、さすがに上達してちょっとは売れるようになった。まあおれの父ちゃんは有名な画商だから、お前の母ちゃんの何倍も稼いでいたけどな。それで、なんだっけか。お前の母ちゃんが年をとってからやっとみつけた旦那は、お前が中学生のときに、カンタンに死んじまった。死んじまった?いや、ちがうか、そうじゃないな。」
 
 男は酒の酔いと心美から受けたダメージでハイになっているのかもしれない、ろれつは回ってないが、さらにヒートアップして話を続ける。騒ぎを聞いて駆けつけたのか、永井と由紀の姿が見える。心配そうにこちらを見ている。

「私のお母さんのことを、あんたになんか語られたくない。お母さんはずっと芸術を愛していた。描くことを愛していた。なんにも知らないあんたみたいな奴に、なにが分かる」

 後ろから抱きかかえるようにして抑えているのに、心美は強引に身体をねじり、抜け出そうともがく。彼女の小さな身体のどこにこの強烈なパワーが秘められているのだろうか。

 彼女の怒りの熱が僕につたわり、いっしょになって僕の身体までどんどんと熱くなっていく。熱さで頭がくらくらするほどだ。

「分かるさ」
「分かるわけない!」
「お前の母ちゃんは父ちゃんを殺して頭がおかしくなって最後には」
男は悦に入るように醜く顔を歪め、その言葉を言った。

「自殺したんだ」

 言い訳するわけではないけれど、普段の僕は周りから温厚だと言われていて、まずこんなことはしない人間だ。
だけどその日彼の言葉を聞いた瞬間、脳みそがふっと白く濁るのを感じた。赤の他人で、別に親しくもない少女のためになぜそんなことをしたのか分からない。彼女から伝わる激しい熱にでも浮かされてしまったのかもしれない。とにかく、その時僕は、僕自身の中から湧いてくるシンプルな怒りを止めることができなかった。

 気づけば僕は、その男の顔に拳を叩きこんでいた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。 その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。 全7話

入れ替わり夫婦

廣瀬純七
ファンタジー
モニターで送られてきた性別交換クリームで入れ替わった新婚夫婦の話

秘書と社長の秘密

廣瀬純七
大衆娯楽
社内の調査のため、社長・高橋健一はこっそり秘書・木村由紀と不思議なアプリで入れ替わることに。 突然“社長役”を任された由紀と、自由に動ける立場を手に入れた高橋。 ふたりの秘密の入れ替わり作戦は、どの様な結末になるのか?

性別交換ノート

廣瀬純七
ファンタジー
性別を交換できるノートを手に入れた高校生の山本渚の物語

処理中です...