犀川のクジラ

みん

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2章 夏

17話

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 季節がゆっくりと進んでいくなか、僕と永井、由紀の三人は市内の美術館にやってきていた。もちろん、僕らが美術や芸術に特別な感心をいだき、ぜひ勉強したいと意気込んでやって来たわけではない。

 心美が絵を出展するというので、見にきたのである。
 
 円の形をする美術館はそれ自体が美術品のようなつくりで、外壁がガラス張りになっていてとても解放的である。雨粒がはりつく大きなガラスを通して外を眺めると、芝生の上に銀色のオブジェがいくつも並んでいて、小さな男の子がラッパのような形をしたオブジェに向かって何かを叫んでいる。
 
 僕らはその光景を見ながら、美術館の通路を歩いていた。
「美術館ってけっこう面白いんだな」と永井が少し赤くなった顔をして言う。
 永井は到着早々ラッパのような形をしたオブジェに向かって六藤の馬鹿野郎と叫んだり、「美術品でお酒を嗜む」というイベントコーナーで日本酒の試飲をしたりして、彼なりの楽しみ方で美術館を楽しんでいた。
「今日は心美ちゃんの作品を観にきたんやろ。酔っぱらいはだめやよ」
 となりを歩く由紀が、永井の赤くなった顔を指さして言う。先輩と付き合っていたころの由紀と僕らのあいだには、なんとなく空気の壁のようなものがあったが、このごろ前よりもその壁が薄くなったように思う。単に付き合いが長くなってきたからかもしれないし、永井の言っていた”恋のチャンス”が到来しているのかもしれない。

 ただ、距離が近づいたからと言ってそう簡単に行動できるものでもない。

 「わかっているさ、おれはこの日のためにピカソ先生について勉強してきたんだ」永井はふっふっふと腕を組み、したり顔で由紀を見る。
「ピカソ先生ってあのピカソさん?」
「そうだ、やっぱり芸術の天才といえば、ピカソ先生だろ」
「勉強してくるなんてすごいね、見なおしたよ。なんか発見あったん?」由紀は感心したというように、素直な瞳で永井を見る。様々な作品を遺してきた偉大な画家に、彼がなにを学んできたのか興味があるようだった。
「由紀、よくぞ聞いてくれた。ピカソ先生はな・・・」と言って永井は言葉を溜める。そして、まるでとても大切なことでも言うようにゆっくりと、「鳩が大好きなんだ」と言った。
 由紀は永井の顔をまじまじと見つめると、そんなことやと思った、というように深くため息をついた。

「顔を洗って酔っぱらいを覚ましてきなさい」

 由紀は永井をにらみ、通路の奥にあるトイレを指さす。生徒をしかる先生のようだが、わざとらしく怒っている表情が可愛らしい。永井は、冗談なのになあー、と言ってひらひらと手を振ると、トイレへと向かっていった。

「永井くん、やっぱり少し変わったなあ」
由紀は永井がトイレに入るのを見届けると、窓際にある椅子に腰かける。美術館にあるような品の良い椅子は、デザイナーズチェアというのだったか。
「そうなの?」
「なんとなく、やけどね。中学のころの永井くんは明るくて面白くて、バスケ部にも入ってたからクラスの人気者で、女の子にもモテてたんやよ」
「へえ」
 今の永井とそんなに変わらないように思えた。永井は明るく騒がしい性格で、大学で僕の知らないたくさんの人達に囲まれ、よくフラフラと飲みに出かけている。
「わたしは地味で暗くて目立たないほうやってんけど、家が近所やったし、ときどき話したり遊んだりしてたんやあ」
僕は壁に背中をつけて、窓の外を見ながら由紀の話を聞いていた。外は雨が降りつづけていて、上空にはぶあつい雲がゆっくりと流れてゆく。
「・・・永井くんのお父さんが再婚したっていう話は知ってるんやね?」
「うん。少しだけね」
 大学で永井と出会ってまだ最初のころ、永井の親の話を聞いたことがあった。
その時の僕らは、夜の繁華街をなぜだか二人きりでふらついて、僕は自分の父が小学生の頃に亡くなっていることを語り、永井は彼の両親がずっと不仲だったことを語った。ふだんの明るい永井からは想像もできない暗い話だった。

 お酒も飲んでいないのに酔っぱらったような、不思議な夜だった。

 不動産業をしている永井の父親は付き合いなどで出かけることが多く、よく家を空けていたという。仕事だから仕方がないだろと父親は言い、母親はその言い分をただ黙って聞いていた。永井の母親は、とても気弱な人だったそうだ。
 父親の話は半分がほんとうで、半分が嘘だった。若い女性と腕を組んで歩いているのを見たわよ、この前とは違う女性とホテルに入っていったわ、などと頼んでもいないのに近所の人たちは母親に告げ口をしたそうだ。面白がっていたのだ。その内に、永井の母親はだんだんとおかしくなっていった。小学生の頃の永井には意味が分からなかったが、中学に上がった頃にはもう、家族関係が壊れてしまっていることを理解していた。

 永井が中学三年の終わりに離婚が決まり、永井は父親のほうで引き取られることになった。母親は精神的に不安定になり、永井を引き取って育てていくことなどできない状態だったそうだ。
 そして永井の父親は、何人かいた不倫相手のうちの一人と再婚することになった。
「永井くんとは高校がちがったから、中学を卒業してから大学に入るまでほとんど永井くんを見かけることはなかってん。たまに見かけて、話そうと思うんやけど、なんだか話しかけづらくて・・・」
「永井の両親が離婚したから?」
「そうかもね、あの頃とは状況が変わってしまったってゆうか・・・。あと、わたしの性格のせいもあると思う。中学までは永井くんのほうから話しかけてくれたけど、自分から知っている人に話しかけるのってすごく勇気いるんやよね」
 変やね、と由紀は弱々しく言う。
「ううん、ちょっとわかるよ。しばらく会っていないと、自分と相手との関係性とか、なんとなく声をかけてもいいのかとか、僕も考えるときあるし」
「六藤くんもそうなん?わたしが人見知りやからいけないのかと思ってた」由紀は恥ずかしそうに言うと、さらさらとした栗色の髪を揺らして笑った。
「永井が変わったと思うのは、中学の頃と比べてってことだよね?」
「うーん、本当になんとなくなんやけどね。本音で話すことを避けられているというか・・・。気のせいかな?」
「僕は、二人は仲が良いなあって思っていたけど」
「そう思う?」
「うん。幼なじみの空気感があって、いいなって」
「そっかあ。わたしの考えすぎかもしれんね」
 永井が僕に両親の話をしたときは、もうすでに吹っ切れているようではあった。一人目の母親、永井の実の母親も精神的によくなってきていて、今も金沢で暮らしているらしく、ときどき会っていると言っていた。
 由紀が永井とのあいだに距離を感じるように思うのは、単に二人が大人になったからというのもあるのかもしれない。小さいころはただの子供同士だけど、成長すれば、一人の男と女になる。子供のときと同じ距離感ではいられない。
「大学で永井くんに会ったときはびっくりしたんよ。“久しぶりだな、由紀。将棋教えてくれよ”って」
 由紀が永井の軽薄な口調を真似る。
「久しぶりに会って、いきなり将棋教えてくれってすごいな」
「ね、びっくり。高校のときにわたしが散々悩んでたのがバカみたいや。で、夕方になって、出場するには三人必要って分かって慌てて講義室に残ってる人たちに声をかけだしたんだよね」
「それで、僕が見つかった」
「そう。“チーム犀川”、ううん“犀川の会”結成と相成りました」
 妙にかしこまった口調で話しているが、表情には茶目っ気がある。
「得体の知れないものをさがす、危険なグループだ」

「しっ。だれかに聞かれたら、研究結果をうばわれちゃうよ」
 由紀はふわりとした唇に人差し指をあてて真剣な顔をするが、いたずらっぽい眼差しが楽しげだ。そして、いつもの穏やかな表情に戻ると、はにかむように笑った。
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