犀川のクジラ

みん

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2章 夏

23話

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「永井くん、ちょっと」

 森熊教授の部屋を出た後に構内を三人で歩いていると、背の高いスラッとした女性が声をかけてきた。こっちにきて、というように手招きをしている。永井が近づくと、女性は永井に何か耳打ちした。永井はそれを聞くと、
「わりぃ、今日はここで解散だ。また明日な」と言ってその女性と一緒にどこかへ行ってしまった。
 由紀は帰ると言ったが、僕は学生事務局に出さなければいけない資料があったので、そこで僕らも解散することになった。

 学生事務局を出ると、もう日が沈みかけていた。提出資料の一部に不備があったので直していたら、想像以上に時間が経っていた。帰ろうとバス乗り場のほうへと向かうと、二人掛けの椅子に座ったくしゃくしゃ頭の男ともう一人が、何やら話しこんでいるのが見えた。
 くしゃくしゃ頭は永井、もう一人は濱田“元”自治会長だった。濱田はいつも品の良いシャツを着ていてスラッと背の高い痩せ型であり、髪型のほかの外見は永井と似ている部分があると僕は思っていた。

「帰ってきてるなら、連絡よこしてくださいよ」

 大学一年の将棋大会後に学生自治会へ入会して、濱田は当時四年だったので、永井と濱田には一年ほどの付き合いがあった。リーダーシップがあって頭が切れて将棋もつえー、すごい人だよ。以前僕が濱田についてどう思うか永井に尋ねたとき、永井はそう答えていた。
僕はそこで、先ほど永井に声をかけてきた女性は自治会の人だったのだと気がついた。おそらく“濱田さんが帰ってきてるよ”という耳打ちだったのだろう。自治会の女性は濱田と由紀が以前に付き合っていたことを知っていて、由紀に配慮したのかもしれない。

「東京はどうですか。こっちとは違って色んなものに溢れているでしょう」

「そうだね、すべてが新しい出会いで戸惑っているよ。街も、文化も、人も」

「濱田さんが戸惑う?見たことねーや」

「失礼だな。僕だって生身の人間だよ」

 永井と濱田はそう言い合うと、顔を見合わせて笑った。ハハハと声をだしてはいるものの、お互いに目が笑っていない。二人が座っているそばには百日紅の木がいくつも立ち並んでいて、紅色の花が夕陽に照らされ、さらに美しい紅に染まっている。

「・・・その新しい出会いが、由紀と別れる原因ですか?」
 永井は静かに、そう言った。濱田の目が笑っていないのはいつもの通りだが、今日は永井も険しい顔をしている。
「園宮くんか。彼女は元気かい?」
 濱田はなんの動揺も見せず、まるで天気の話題でも振るように永井に尋ねた。濱田は空虚に百日紅の花を見つめている。
「元気っすよ、相変わらず将棋はクソ強いし」
「それは良かった。彼女の将棋は気持ちが良い」
 ふっと濱田が笑う。
 濱田は由紀と同じアマ六段の実力を持っていて、大学一年の頃は由紀から濱田との対局の話を聞くこともあった。きっとその頃の彼らの交際は順調だったのだろう。

「たった一年の付き合いですが、俺はあなたのことを尊敬していました。頭が良くて、自治会長として皆に慕われていた。なのにどうして浮気なんてしたんですか。それも、一人じゃないって聞きました」
 永井は声を抑えて話した。バス乗り場に並ぶ学生に、会話が聞こえないようにするためだろう。
「君がそれを聞くのかい?聞かなくても分かるだろう」
「どういう意味ですか?」
 永井は濱田の言葉に、食いつくように問いかけた。

「君と僕は似ている。君とちがって僕は医者の家で育っているが、家が金を持っていて、父親が女好きなところは似ているだろう」

「濱田さんのところは、離婚なんてしていないでしょう。俺の家とは違います」

「違わないさ。女遊びを繰り返すうちの父と母の関係は、利害関係のみで成り立っている。うちの母は、父のことは金を供給するだけの機械だとでも考えているのだろう、広く清潔な家に住み、高価な買い物をし、若く新しい男に貢ぐためだけの。そのように考えると、まだ君の家のほうがましかもしれないよ」
 
 濱田の父が三代目院長として経営する濱田医院は個人病院にもかかわらず、金沢でも大きな権力をもつ病院だった。十文字書店のように歴史があり、地域に根差した病院ではあったが、病院と本屋では動く金額も影響力もまったく違う。
「たしかに、似ているかもしれない。だけど、だからこそじゃないですか。父親が女遊びを繰り返すからと言って、子どもがそれを受け継ぐ必要はないでしょう」
「本気で言っているのか?君が一番分かっているはずだろう。自分が誰のことも愛せない、幸せにすることなどできない人間だということに。親からほんとうの意味で愛されたことがない人間は、根本的に誰かを“愛する”ということが分からないんだよ」
 濱田は淡々と自分の考えを告げた。静かに、ゆっくりと話しているのにかかわらず、まるで激昂しているかのような激しさがあった。
「でも、それでも・・・」
 永井は反論しようとしたが、言葉が出てこない。永井自身の家族が崩壊し、濱田も同じような経験をしている。そんな濱田の言葉に、永井自身が飲みこまれてしまっているように僕には思えた。

「もういいかな。知人と会う約束をしているんだ」

 濱田は立ち上がり、駐車場へと足を向けた。大学の敷地内に駐車場はいくつかあり、濱田は階段を上がった先にある駐車場に車を停めたようだ。
「待ってください。せめて由紀に、謝ってくれませんか・・・。濱田さんにはその義務があるはずです」
「義務?そんなもの、僕にはないだろう。そこまで言うなら君が由紀くんを幸せにしてあげたら良いんじゃないか」
 濱田は階段を少し上がったところで足をとめ、冷ややかな目で永井を見つめる。永井は唇を噛みしめるが、なにも答えられず、黙って濱田のほうを見ていた。

「まあ、無理だろう。君と僕は同類だ」

 濱田はそう言い残し、階段を上がっていった。
永井はしばらく濱田が上がっていった先を見つめていたが、諦めたようにため息をつくと、バス停のほうへと歩きだした。
沿線が違うため、僕と永井が乗るバスは一緒ではない。僕は永井になんと声をかけたら良いのか分からず、彼がバスに乗って帰っていくところを、ただ見送ることしかできなかった。
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