33 / 56
3章 秋
31話
しおりを挟む
「三光さん」と呼ばれる月待ちの神事は、永井の家の近くにある神社で行われていた。卯辰山の稜線から黄色い月が昇りはじめ、ぼんやりと三つに分かれた下弦の月の光が、金沢の街並みを静かに照らす。時間が経つにつれ、三つの光はだんだんとお互いに近づきはじめ、やがて一つの光となる。その神秘的な光に祈りを捧げる神事は、室町時代からずっと行われているそうだ。
永井の家は不動産業を営むからわら、金沢の新鮮な海鮮料理をだす料亭としても営業している。今日は「三光さん」を祝って、パーティが開かれていた。寺町の台地から突きだすようにしてつくられた木製の「川床」からは、卯辰山や医王山の稜線を一望することができる。真下を流れる雄大な犀川からは涼しげな風が吹いてきて、心地が良い。
僕と心美、由紀の三人は永井からパーティに招待され、「川床」で豪勢な食事を楽しんでいた。飲み物はグラス交換制で、カウンターに持っていけばバーテンダーに入れてもらえる。昼はまだまだ残暑が厳しい季節だが、夜になるとやわらかな空気が顔を撫でる。
「すごいね。偉そうな人たちがいっぱいいる」
心美がグラスを片手に持ち、僕の肩のあたりで小さく話す。
いつも作業用の野暮ったいワンピースか動きやすく簡単な服装が多い心美が、今日はドレスアップしていた。鮮やかなグリーンのドレスは首元まできちんと覆われているが、肩のあたりはノースリーブで白くほっそりとした二の腕に料亭の明かりが反射する。耳元ではいつものサファイアブルーのイヤリングが揺れているが、普段の装いと違う彼女の姿に、僕はつい居心地の悪さを感じてしまう。
「偉そうとか、そういうのぜったい本人たちには言うなよ」
「分かってるってば。信用ないなあ」
僕と心美はカウンターで飲み物を交換してもらっている。バーテンダーは年配のお爺さんで、ゆったりと流れるような動きはベテランの余裕を感じさせた。
「春の乱闘騒ぎを引き起こした張本人がなにを言う」
「あれは、わたし悪くないもん」
「悪くないとしても、普通あそこまでにはならないって」
この会話は春から何度もしているが、心美は自分の非をまったく認めない。あの時のことは百パーセント一寸の狂いもなく、ヤマグチが悪いと言い張っていた。
年配のバーテンダーが飲み物を作り終わり、僕と心美に渡す。心美は未成年なので、ノンアルコールドリンクだ。
「・・・もういいよ」僕はこの話題は終わりだ、降参だという風に手を挙げて「席に戻る前にお手洗いに行ってきてもいいかな?」と言った。
「トイレって言いなよ。ちょっと格好いいスーツ着ているからって上品な言葉づかいを意識しなくていいんだよ」
べーっと心美は舌を出した。
いちいち突っかかってくるなあ、と思いながら僕はカウンターから少し離れた場所にあるトイレへと向かった。用を済まし、手を洗ってガラスに映る自分の姿を見るが、全然見慣れない。
「もうすぐ就活も始まるんだし、ついでだろ」と言われ、永井に選んでもらったスーツは形が整っていて格好いいが、あからさまなストライプが入っていておそらく就活では使えない。
トイレを出てカウンターへと戻ってくると、心美は見知らぬ男と話していた。
「だから、連れがいるって言ってるの」
「いいじゃないか。ちょっとだけ俺の車で話をするだけでいいんだ。別に彼氏ってわけじゃないんだろ?」
「余計なお世話よ」
男は心美の肩に手をまわそうとするが、心美が払い落とした。どうやら典型的なナンパみたいだ。男は若く、同年代のようだが身なりがよく、手首にはロレックスの腕時計が巻かれている。金持ちの親の付き合いでこのパーティに連れてこられて、退屈していたというところだろうか。
たしかに今の心美の外見は上品で知的な雰囲気があり、声をかけたくなる気持ちは理解できた。実際、僕と一緒に会場を歩いているときも、チラチラと男の視線が心美に集まるのを感じていた。中身はとんだ変わり者ですよ、と伝えればすぐに去っていくのではないだろうか。
言い争う二人の声は少しずつ大きくなり、周囲の人たちがざわつきはじめる。
まずいな、また心美が相手を蹴り飛ばしてしまう前に助けるか、と思っていると、
「あ、恭ちゃん!」
と心美が僕に向かって手を振った。
きょうちゃん?キョウチャン?
心美は僕のほうへ小走りでやってくると、いきなり抱きついた。
「もう、怖かったよー。なんかいきなりあの人が車に連れ込もうとするんだもん。恭ちゃん追い払って!」
いや、それは何キャラなんだ。
心美の柔らかな身体が僕の胸に押し当てられ、首すじからほのかな香水の良い匂いが漂ってくる。とにかく、僕は自分がこのままではまずいことを感じた。
「なんだお前、お前はこの娘の何なんだよ」
「いや、とも・・・」
「彼女だよね?」
友達と言いかけて横を見ると、心美が満面の笑みで僕を見つめている。その笑顔は、友達だとか言ったらこの面倒くさい男がパーティ中ずっと付きまとうだろうが、と言っている。
仕方ない、と僕は内心ため息をついた。
「この子は僕の彼女だよ。手を出さないでくれないか」
「嘘だろ・・・。お前みたいな普通のやつ、この娘と釣り合うわけがないじゃないか」自分たちがカップルだと言えば男は去っていくかと思ったが、男のプライドに傷がついたのか、ただ単に腹が立ったのか、「じゃあ、この場でキスしてみせろよ」とわあわあと喚きだした。ほんとうに付き合っているなら簡単なことだろう、などと言い出す。
こういうことを言うやつは本当にいるのかと思いながら、スタッフを呼んで来るよ、と心美に言おうとすると突然腕をぐいっと引っ張られ、頬に柔らかなものが触れた。
ぎょっとして横を見ると、頬を赤く染めた心美が僕を見つめていた。口紅を塗った桃色の唇は艶々として柔らかく、くるくるとカールした睫が美しい。
「人が見ているの。これが限界だよ」
心美は男の方を向くと、恥ずかしそうに俯いた。
男は口をパクパクさせながら、まだ何かを言おうとしていたが、黒いスーツを着た人たちに肩を叩かれた。会場内の警備員のようだ。カウンターのほうに目を向けると、年配のバーテンダーがグッと親指を立てて僕の方へウインクをした。どうやら警備員を呼んでくれたのはあのバーテンダーみたいだ。僕は軽く頭を下げると、男が警備員たちに連れて行かれる様子を見送った。
「ごめんね、怒った?」
男が去ると、心美は僕に謝ってきた。上目遣いで謝る彼女を見ていると、小さな女の子を苛めているようで、バツが悪い。
「いや、怒りはしないけど」
「じゃあ嬉しい?」心美は僕をからかうように声色を変えた。
「あの男を納得させるには、ああするのが早かった。そういう判断だろ?ちゃんと分かっているよ」僕は動揺していることを心美に悟られないように、早口で言う。
「つまんない答え。ここで蹴飛ばしてもよかったんだけど、招待してくれた永井さんに悪いでしょ?」
「他にもやり方があった気はするけど」
「いいじゃん、減るもんじゃないし」
永井さんたちのところに戻ろうよ、と言って心美は僕の腕をとる。ぐんぐんと僕の腕を引っ張って歩く彼女の頬が赤く染まっているのを、僕はぼんやりと見ていた。
永井の家は不動産業を営むからわら、金沢の新鮮な海鮮料理をだす料亭としても営業している。今日は「三光さん」を祝って、パーティが開かれていた。寺町の台地から突きだすようにしてつくられた木製の「川床」からは、卯辰山や医王山の稜線を一望することができる。真下を流れる雄大な犀川からは涼しげな風が吹いてきて、心地が良い。
僕と心美、由紀の三人は永井からパーティに招待され、「川床」で豪勢な食事を楽しんでいた。飲み物はグラス交換制で、カウンターに持っていけばバーテンダーに入れてもらえる。昼はまだまだ残暑が厳しい季節だが、夜になるとやわらかな空気が顔を撫でる。
「すごいね。偉そうな人たちがいっぱいいる」
心美がグラスを片手に持ち、僕の肩のあたりで小さく話す。
いつも作業用の野暮ったいワンピースか動きやすく簡単な服装が多い心美が、今日はドレスアップしていた。鮮やかなグリーンのドレスは首元まできちんと覆われているが、肩のあたりはノースリーブで白くほっそりとした二の腕に料亭の明かりが反射する。耳元ではいつものサファイアブルーのイヤリングが揺れているが、普段の装いと違う彼女の姿に、僕はつい居心地の悪さを感じてしまう。
「偉そうとか、そういうのぜったい本人たちには言うなよ」
「分かってるってば。信用ないなあ」
僕と心美はカウンターで飲み物を交換してもらっている。バーテンダーは年配のお爺さんで、ゆったりと流れるような動きはベテランの余裕を感じさせた。
「春の乱闘騒ぎを引き起こした張本人がなにを言う」
「あれは、わたし悪くないもん」
「悪くないとしても、普通あそこまでにはならないって」
この会話は春から何度もしているが、心美は自分の非をまったく認めない。あの時のことは百パーセント一寸の狂いもなく、ヤマグチが悪いと言い張っていた。
年配のバーテンダーが飲み物を作り終わり、僕と心美に渡す。心美は未成年なので、ノンアルコールドリンクだ。
「・・・もういいよ」僕はこの話題は終わりだ、降参だという風に手を挙げて「席に戻る前にお手洗いに行ってきてもいいかな?」と言った。
「トイレって言いなよ。ちょっと格好いいスーツ着ているからって上品な言葉づかいを意識しなくていいんだよ」
べーっと心美は舌を出した。
いちいち突っかかってくるなあ、と思いながら僕はカウンターから少し離れた場所にあるトイレへと向かった。用を済まし、手を洗ってガラスに映る自分の姿を見るが、全然見慣れない。
「もうすぐ就活も始まるんだし、ついでだろ」と言われ、永井に選んでもらったスーツは形が整っていて格好いいが、あからさまなストライプが入っていておそらく就活では使えない。
トイレを出てカウンターへと戻ってくると、心美は見知らぬ男と話していた。
「だから、連れがいるって言ってるの」
「いいじゃないか。ちょっとだけ俺の車で話をするだけでいいんだ。別に彼氏ってわけじゃないんだろ?」
「余計なお世話よ」
男は心美の肩に手をまわそうとするが、心美が払い落とした。どうやら典型的なナンパみたいだ。男は若く、同年代のようだが身なりがよく、手首にはロレックスの腕時計が巻かれている。金持ちの親の付き合いでこのパーティに連れてこられて、退屈していたというところだろうか。
たしかに今の心美の外見は上品で知的な雰囲気があり、声をかけたくなる気持ちは理解できた。実際、僕と一緒に会場を歩いているときも、チラチラと男の視線が心美に集まるのを感じていた。中身はとんだ変わり者ですよ、と伝えればすぐに去っていくのではないだろうか。
言い争う二人の声は少しずつ大きくなり、周囲の人たちがざわつきはじめる。
まずいな、また心美が相手を蹴り飛ばしてしまう前に助けるか、と思っていると、
「あ、恭ちゃん!」
と心美が僕に向かって手を振った。
きょうちゃん?キョウチャン?
心美は僕のほうへ小走りでやってくると、いきなり抱きついた。
「もう、怖かったよー。なんかいきなりあの人が車に連れ込もうとするんだもん。恭ちゃん追い払って!」
いや、それは何キャラなんだ。
心美の柔らかな身体が僕の胸に押し当てられ、首すじからほのかな香水の良い匂いが漂ってくる。とにかく、僕は自分がこのままではまずいことを感じた。
「なんだお前、お前はこの娘の何なんだよ」
「いや、とも・・・」
「彼女だよね?」
友達と言いかけて横を見ると、心美が満面の笑みで僕を見つめている。その笑顔は、友達だとか言ったらこの面倒くさい男がパーティ中ずっと付きまとうだろうが、と言っている。
仕方ない、と僕は内心ため息をついた。
「この子は僕の彼女だよ。手を出さないでくれないか」
「嘘だろ・・・。お前みたいな普通のやつ、この娘と釣り合うわけがないじゃないか」自分たちがカップルだと言えば男は去っていくかと思ったが、男のプライドに傷がついたのか、ただ単に腹が立ったのか、「じゃあ、この場でキスしてみせろよ」とわあわあと喚きだした。ほんとうに付き合っているなら簡単なことだろう、などと言い出す。
こういうことを言うやつは本当にいるのかと思いながら、スタッフを呼んで来るよ、と心美に言おうとすると突然腕をぐいっと引っ張られ、頬に柔らかなものが触れた。
ぎょっとして横を見ると、頬を赤く染めた心美が僕を見つめていた。口紅を塗った桃色の唇は艶々として柔らかく、くるくるとカールした睫が美しい。
「人が見ているの。これが限界だよ」
心美は男の方を向くと、恥ずかしそうに俯いた。
男は口をパクパクさせながら、まだ何かを言おうとしていたが、黒いスーツを着た人たちに肩を叩かれた。会場内の警備員のようだ。カウンターのほうに目を向けると、年配のバーテンダーがグッと親指を立てて僕の方へウインクをした。どうやら警備員を呼んでくれたのはあのバーテンダーみたいだ。僕は軽く頭を下げると、男が警備員たちに連れて行かれる様子を見送った。
「ごめんね、怒った?」
男が去ると、心美は僕に謝ってきた。上目遣いで謝る彼女を見ていると、小さな女の子を苛めているようで、バツが悪い。
「いや、怒りはしないけど」
「じゃあ嬉しい?」心美は僕をからかうように声色を変えた。
「あの男を納得させるには、ああするのが早かった。そういう判断だろ?ちゃんと分かっているよ」僕は動揺していることを心美に悟られないように、早口で言う。
「つまんない答え。ここで蹴飛ばしてもよかったんだけど、招待してくれた永井さんに悪いでしょ?」
「他にもやり方があった気はするけど」
「いいじゃん、減るもんじゃないし」
永井さんたちのところに戻ろうよ、と言って心美は僕の腕をとる。ぐんぐんと僕の腕を引っ張って歩く彼女の頬が赤く染まっているのを、僕はぼんやりと見ていた。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
秘書と社長の秘密
廣瀬純七
大衆娯楽
社内の調査のため、社長・高橋健一はこっそり秘書・木村由紀と不思議なアプリで入れ替わることに。
突然“社長役”を任された由紀と、自由に動ける立場を手に入れた高橋。
ふたりの秘密の入れ替わり作戦は、どの様な結末になるのか?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる