犀川のクジラ

みん

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3章 秋

31話

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「三光さん」と呼ばれる月待ちの神事は、永井の家の近くにある神社で行われていた。卯辰山の稜線から黄色い月が昇りはじめ、ぼんやりと三つに分かれた下弦の月の光が、金沢の街並みを静かに照らす。時間が経つにつれ、三つの光はだんだんとお互いに近づきはじめ、やがて一つの光となる。その神秘的な光に祈りを捧げる神事は、室町時代からずっと行われているそうだ。

 永井の家は不動産業を営むからわら、金沢の新鮮な海鮮料理をだす料亭としても営業している。今日は「三光さん」を祝って、パーティが開かれていた。寺町の台地から突きだすようにしてつくられた木製の「川床」からは、卯辰山や医王山の稜線を一望することができる。真下を流れる雄大な犀川からは涼しげな風が吹いてきて、心地が良い。

 僕と心美、由紀の三人は永井からパーティに招待され、「川床」で豪勢な食事を楽しんでいた。飲み物はグラス交換制で、カウンターに持っていけばバーテンダーに入れてもらえる。昼はまだまだ残暑が厳しい季節だが、夜になるとやわらかな空気が顔を撫でる。

「すごいね。偉そうな人たちがいっぱいいる」

 心美がグラスを片手に持ち、僕の肩のあたりで小さく話す。
 いつも作業用の野暮ったいワンピースか動きやすく簡単な服装が多い心美が、今日はドレスアップしていた。鮮やかなグリーンのドレスは首元まできちんと覆われているが、肩のあたりはノースリーブで白くほっそりとした二の腕に料亭の明かりが反射する。耳元ではいつものサファイアブルーのイヤリングが揺れているが、普段の装いと違う彼女の姿に、僕はつい居心地の悪さを感じてしまう。

「偉そうとか、そういうのぜったい本人たちには言うなよ」
「分かってるってば。信用ないなあ」

 僕と心美はカウンターで飲み物を交換してもらっている。バーテンダーは年配のお爺さんで、ゆったりと流れるような動きはベテランの余裕を感じさせた。
「春の乱闘騒ぎを引き起こした張本人がなにを言う」
「あれは、わたし悪くないもん」
「悪くないとしても、普通あそこまでにはならないって」
 この会話は春から何度もしているが、心美は自分の非をまったく認めない。あの時のことは百パーセント一寸の狂いもなく、ヤマグチが悪いと言い張っていた。
 年配のバーテンダーが飲み物を作り終わり、僕と心美に渡す。心美は未成年なので、ノンアルコールドリンクだ。
「・・・もういいよ」僕はこの話題は終わりだ、降参だという風に手を挙げて「席に戻る前にお手洗いに行ってきてもいいかな?」と言った。
「トイレって言いなよ。ちょっと格好いいスーツ着ているからって上品な言葉づかいを意識しなくていいんだよ」
 べーっと心美は舌を出した。
 いちいち突っかかってくるなあ、と思いながら僕はカウンターから少し離れた場所にあるトイレへと向かった。用を済まし、手を洗ってガラスに映る自分の姿を見るが、全然見慣れない。
「もうすぐ就活も始まるんだし、ついでだろ」と言われ、永井に選んでもらったスーツは形が整っていて格好いいが、あからさまなストライプが入っていておそらく就活では使えない。

 トイレを出てカウンターへと戻ってくると、心美は見知らぬ男と話していた。
「だから、連れがいるって言ってるの」
「いいじゃないか。ちょっとだけ俺の車で話をするだけでいいんだ。別に彼氏ってわけじゃないんだろ?」
「余計なお世話よ」
 男は心美の肩に手をまわそうとするが、心美が払い落とした。どうやら典型的なナンパみたいだ。男は若く、同年代のようだが身なりがよく、手首にはロレックスの腕時計が巻かれている。金持ちの親の付き合いでこのパーティに連れてこられて、退屈していたというところだろうか。
 たしかに今の心美の外見は上品で知的な雰囲気があり、声をかけたくなる気持ちは理解できた。実際、僕と一緒に会場を歩いているときも、チラチラと男の視線が心美に集まるのを感じていた。中身はとんだ変わり者ですよ、と伝えればすぐに去っていくのではないだろうか。
言い争う二人の声は少しずつ大きくなり、周囲の人たちがざわつきはじめる。
まずいな、また心美が相手を蹴り飛ばしてしまう前に助けるか、と思っていると、
「あ、恭ちゃん!」
 と心美が僕に向かって手を振った。

 きょうちゃん?キョウチャン?

 心美は僕のほうへ小走りでやってくると、いきなり抱きついた。
「もう、怖かったよー。なんかいきなりあの人が車に連れ込もうとするんだもん。恭ちゃん追い払って!」
 いや、それは何キャラなんだ。

 心美の柔らかな身体が僕の胸に押し当てられ、首すじからほのかな香水の良い匂いが漂ってくる。とにかく、僕は自分がこのままではまずいことを感じた。

「なんだお前、お前はこの娘の何なんだよ」
「いや、とも・・・」
「彼女だよね?」
 
 友達と言いかけて横を見ると、心美が満面の笑みで僕を見つめている。その笑顔は、友達だとか言ったらこの面倒くさい男がパーティ中ずっと付きまとうだろうが、と言っている。
 仕方ない、と僕は内心ため息をついた。

「この子は僕の彼女だよ。手を出さないでくれないか」

「嘘だろ・・・。お前みたいな普通のやつ、この娘と釣り合うわけがないじゃないか」自分たちがカップルだと言えば男は去っていくかと思ったが、男のプライドに傷がついたのか、ただ単に腹が立ったのか、「じゃあ、この場でキスしてみせろよ」とわあわあと喚きだした。ほんとうに付き合っているなら簡単なことだろう、などと言い出す。
こういうことを言うやつは本当にいるのかと思いながら、スタッフを呼んで来るよ、と心美に言おうとすると突然腕をぐいっと引っ張られ、頬に柔らかなものが触れた。

 ぎょっとして横を見ると、頬を赤く染めた心美が僕を見つめていた。口紅を塗った桃色の唇は艶々として柔らかく、くるくるとカールした睫が美しい。

「人が見ているの。これが限界だよ」

 心美は男の方を向くと、恥ずかしそうに俯いた。
男は口をパクパクさせながら、まだ何かを言おうとしていたが、黒いスーツを着た人たちに肩を叩かれた。会場内の警備員のようだ。カウンターのほうに目を向けると、年配のバーテンダーがグッと親指を立てて僕の方へウインクをした。どうやら警備員を呼んでくれたのはあのバーテンダーみたいだ。僕は軽く頭を下げると、男が警備員たちに連れて行かれる様子を見送った。

「ごめんね、怒った?」
 男が去ると、心美は僕に謝ってきた。上目遣いで謝る彼女を見ていると、小さな女の子を苛めているようで、バツが悪い。

「いや、怒りはしないけど」
「じゃあ嬉しい?」心美は僕をからかうように声色を変えた。
「あの男を納得させるには、ああするのが早かった。そういう判断だろ?ちゃんと分かっているよ」僕は動揺していることを心美に悟られないように、早口で言う。
「つまんない答え。ここで蹴飛ばしてもよかったんだけど、招待してくれた永井さんに悪いでしょ?」
「他にもやり方があった気はするけど」
「いいじゃん、減るもんじゃないし」

 永井さんたちのところに戻ろうよ、と言って心美は僕の腕をとる。ぐんぐんと僕の腕を引っ張って歩く彼女の頬が赤く染まっているのを、僕はぼんやりと見ていた。
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