犀川のクジラ

みん

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2章 夏

30話

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「ただいま」

 玄関のドアをゆっくりと閉め、靴を脱ぎ、居間に入ると母が椅子に座って何かを熱心に読んでいた。寝間着にカーディガンを羽織り、手に持つコップからは湯気が出ている。
「おかえりー」
 近づくと、母が熱心に読んでいるものは父が遺したノートであることが分かった。母はこのノートにはあまり興味がなかったので、珍しい、と感じた。
「それ、どうしたの?」
「あんたの部屋掃除しようと思って入ったら、このノートが机の上に置いてあったのよ。あの人の字だ、なつかしーって」
 母は【考察4】と書かれたノートを読んでいた。おもえば父は、最後の一週間を僕ら家族とゆっくり過ごすわけでもなく、このノートを作りあげるのに必死だった。当時の母さんは少し、寂しかっただろうな。
「汚い字だよねー。ほらこことか、“能登のクジラ?”って。ぐるぐる囲って強調しているけど、?ってなんなの。死ぬ前にあんなに必死で書いていたのに、疑問符はないでしょ」
 
 父のノートを読みながら、母はあきれたように笑った。
 
【考察4】に書かれている内容についてはちょうど僕も考えていたところだった。このプロットは完成してはおらず、父のなかでも最後まで疑問が残っていた可能性がある。ただ、「能登のクジラ」は父が犀川で見たクジラと関係してくるのかもしれない。
「そうだ、プリン買ってきたんだ。食べる?」
「あら、いいわね。頂くわ」
 僕は帰りにコンビニエンスストアで買ったプリンを並べる。母は台所に行くと、もう一つコップを持ってきて、僕に手渡した。それは紅茶で、柑橘系のフルーツが原料に含まれているのか、酸味があって美味しい。
「そういえばもうすぐ、前期の試験じゃないかい?」
「そうだよ」
「ちゃんと単位はとれるんでしょうね?」
「努力はしているよ」
 まあ私の息子だから大丈夫か、と母はなぜか自信たっぷりに主張して、プリンを一口食べた。
母の手にはたくさんの皺が刻まれていて、白髪もだいぶ増えている。もう五十代に入っているのだから当然なのかもしれないが、父がいなくなって多くの苦労をしたこともあるのだろう。
「前期の試験が終われば、もう恭二郎の卒業が近づいてくるのねー。就職、どこか行きたいところとか決めてる?」
「まだ。いま考え中だよ」
「そう」
 この間、永井や由紀たちとも話した内容である。永井は出版社、由紀は市役所で働きたいと言っていた。

 僕は?

 僕がやりたいことってなんだろう。

「早いもんね、恭二郎がもう社会人になるなんて」
「そうだね」
「・・・お父さんが死んでから、ずっと突っ走るようにして生きてきたから、あんたにも迷惑かけたわね。旅行とかもあまり連れて行ってあげられなかったし」
「迷惑?かけられた覚えなんてないけど」僕はスプーンでプリンをすくって「世間の息子が母親に対して思うことは、多少の煩わしさと、それよりちょっと多いくらいの感謝だよ」
「何おかしなこと言ってんのよ」母は紅茶から立ちのぼる湯気を見ながら笑う。
「恭二郎は、好きなように生きなさいね。あんたが何をして生きていこうがずっと、お母さんはあんたの味方なんだし」
「うん、ありがとう」
 この世界に味方でいてくれる人がいるということは、とてもありがたいことだ。ありがたくて、すごく幸せなことだ。
 羽衣ちゃんの話を聞いたときも同じようなことを考えていた。きっとこれから生きていくなかで、何度でも感じることなのだろう。

「そうだ母さん、連絡をとりたい人がいるんだけど」
 恭二郎からお願いなんて珍しいわね、と母は首をかしげる。
僕は母と話しながら、おそらく自分がクジラの正体に近づきつつあることを感じていた。もしかするとそれは、触ってはいけないパンドラの箱を開けるようなものなのかもしれない。そんな風に考えていた蒸し暑い夏の夜は、犀川の流れのようにゆっくりと進んでゆく。

 窓の外ではヒグラシが、いつまでも鳴いていた。
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