犀川のクジラ

みん

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3章 秋

36話

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「六藤、一局指そうぜ」

 祖母が男女別で寝室を用意してくれていて、僕らはトランプなどでひとしきり能登一日目の夜を楽しんだ後、それぞれの部屋に入っていた。女子たちはおやすみー、と言って二階へ上がっていき、僕と永井は一階の部屋にいる。祖母の家の窓は大きく、開けるとひんやりとした風が部屋に入ってきて、鈴虫の泣く声が聞こえた。
 
 永井は寝室の端に将棋盤と駒が置いてあるのを見つけると、一局指そうと僕を誘った。僕もすぐには眠れそうになかったので、その申し出を断る理由などなかった。
 
 対局が始まってすぐに歩と銀を進めてきたので、いつもの通り棒銀のみで攻めてくるのかと思ったら、今日の永井は少し違った。盤の左側に玉を動かし、角、金、銀で囲いを作った。左美濃囲いと呼ばれる囲いである。僕は永井が囲いを作るなど見たことがなかったので、驚いた。そのため、永井との対局ではほとんど負けたことがなかったが、僕は苦戦を強いられることになった。
 
 とくに時間制限は決めていなかったので、僕と永井の対局はゆっくりと進んだ。パチッと盤を鳴らす音以外にはなにも聞こえない。静寂だった。

 夜遅くになるとこの辺りの灯りは少なくなり、かわりに空から多くの光が差しこんでくる。とても美しい光景ではあるが、結局、ここにはなにもないという証拠にもなる。時間はおどろくほど緩やかに流れて、一日のリズムは太陽と月の動きによってつくられている。

「なあ、聞いてもいいか」
 永井は自陣の銀将を前に進めると、そう言った。気のせいだろうか。永井の声はかすかに震えているように思えた。

「うん?」

 このまま棒銀で攻めてこられると、守りが崩壊してしまう。さてどう受けようか、と考えながら永井の言葉を待った。だけど僕はなんとなく、永井が聞きたいことが分かるような気がしていた。それは、僕も話さなければならないと思っていたことだったからだ。

「濱田さんと話しているところ、聞いていたんだろ」

 どう答えようか迷った。
 あの夏の日、永井は彼らの会話を僕が聞いていたことを知っていた。僕はずっと永井にそのことを聞かなくてはと思っていたが、どうしても聞けていなかった。永井の内側にある芯の部分に触れるような気がして、簡単に問いかけることができなかったのだ。

「そうだね、聞いたよ」
 迷った末に、僕は素直に答えることにした。自陣の歩兵を一つ前に進めて、永井を見た。
「やっぱりか。バスの窓からちらっと六藤の姿が見えたんだ。書店で働いているときときも、六藤がなにか言おうと口を開いては、またつぐむのが分かった」
 永井は僕の手をみると、しばらく考えた後に彼の歩兵を前進させた。一手一手に隙がなく、まるで永井ではない他の人間と指し合っているようだった。僕は自陣の角を捨てて、飛車が竜王と成ることを目指した。
「濱田先輩、変わってしまったね」
「そう・・・いや、違うな。はじめからああいう人だったんだよ」
 パチッ、パチッと駒音が弾ける。指すことそれ自体が会話のように、僕たちはひたすらに将棋を指す。

「・・・おれも同じなんだ」
―君と僕は同類だ
 濱田の言葉が僕の頭をよぎる。
「ちがう」
「濱田さんの言うとおりなんだ。親父の不倫のことも、母さんを傷つけた上で離婚しちまうこともすっげえ嫌だったけど、実際に自分が大人になってくると分かる。おれはロクな人間じゃない。おれたちの家系は一人の女を大切に出来ない。じいちゃんも、そのまたじいちゃんもそうだったって聞いてんだ。血とか、遺伝とか、そういう類のもんだよ」
 永井の乾いた笑い方が、盤上に落ちる。

 血だなあ。
 春先の、十文字との会話が僕の頭の中に浮かんでくる。
 心美に流れるという絵描きの血と、永井に流れるという卑しい血。永井の家系は、浮気や不倫を繰り返してきてここまでやってきたのかもしれない。
 そしてそのロクでもない家系に流れる血に、永井自身が気づいているのだ。ときおり見せていた彼のさみしそうな顔を見れば分かる。自分の中には不道徳的な血が流れていて、それは簡単に止めることができるものではない。先祖がこぞって浮気や不倫を繰り返していたんだ、おれもそうなってしまうかもしれない。
 永井は愛する人を傷つけることが怖いのだ。
―君が一番分かっているはずだろう。自分が誰のことも愛せない、幸せにすることなどできない人間だということに。ほんとうに愛されたことがない人間は、根本的に“愛する”ということが分からないんだよ
 濱田の家族はもうすでに家族としての形を成していなかった。お互いがお互いの不義理を隠し、上っ面だけの仮面夫婦を演じている。
―まだ君の家のほうがましかもしれないな
 永井の母親は、夫の不義理を許せず、離婚という結論に至った。仮面をかぶったまま卑しく踊りつづける自分の家より、永井の家のほうがよっぽど健全だと言いたかったのかもしれない。それは濱田なりの、気遣いなのだろうか

「・・・由紀に、好きだって言われたことがある。中学の卒業式だ」
 驚いた。
 そんなこと、永井からも由紀からも、一度も聞いたことがない。
 
 永井は将棋盤に目を落とし、持ち駒から金将をとると、自陣の玉の守りにつかせた。僕の飛車は、これで安易に攻められなくなった。
「由紀とは家が近くて、小さいころから近所のグループで遊ぶ仲だった。あいつはあんまり喋らないやつだったけど、いつもニコニコしていて話すと安心するんだよな」
そうだね、と僕は相槌を打つ。
飛車の援軍に、桂馬を跳ねる。すかさず永井は歩兵を進め、桂馬の進路を阻んでくる。
「中学の卒業式で告白されたときは、素直に嬉しかったんだ。だけど、その時の俺の家はぐちゃぐちゃだった。親父とおふくろが離婚することになって、どっちの親に付いていくのか話し合ったり、不倫相手が家に乗り込んで来たり、本当に最悪だったよ。そんなときに誰かを好きになったり、誰かと付き合ったりなんか全然考えられなかった」
「由紀は、知らなかったんだよね?」
「当たり前だ。親父も隠していたし、おれだって誰かに話せるわけがない。だから、今は付き合えないって曖昧な言葉で断ったんだよ。高校のときも、由紀のことを避けていた。気まずかったし、多少立ち直って、彼女もできていたんだ」
 永井はすべて打ち明けると決めたのか、一度話をはじめると、ダムが決壊したかのように一気に喋った。
「子どもの、小さな恋で、終わるんだろうって思っていた」
 
 思っていた。
 そこでようやく、永井が本当に伝えたいことが分かった。

「永井は由紀のことが、好きなのか」

 僕が言うと、永井はコクリとうなづいた。
―六藤、チャンスだぞ
 最初、永井は由紀を遠ざけようとしていたのかもしれない。自分の家が、人を裏切ることをくり返して繁栄してきた家系だから。
―おれは、ほら、近すぎるから
 僕に由紀を勧めてきたことが何よりの証拠だ。それでも惹かれあう者たちは結局、お互いがお互いでしか埋められないということに、気づくのかもしれない。
「おれは、由紀が好きだ」
 永井は僕の玉に王手をかけた。彼の角行は竜馬となり、金将を引き連れて玉を取り囲もうとしている。
 僕は自分の手が止まるのを感じた。
「濱田さんと話して、夏のあいだ頭の中がおかしくなるくらいに考えて、六藤に相談して、今一番、おれ自身がそのことを実感している」
 永井は真っ直ぐな目で僕を見た。
 永井は自分の中に不道徳の血が流れているということを理解している。永井の父親は母親を裏切り、先祖もまた同じような形で不義理な行いをしてきた。
 それでもなお、永井は由紀のことが好きだと言う。
「おれは、大丈夫だと思うか」
 永井の心に、不安はたしかにあるように感じた。
それでも彼は、前に進むと決めたのだ。
「大丈夫だよ、永井」
 永井の王手をぎりぎりのところでかわした僕は、最後の反撃にでた。ありったけの持ち駒を永井の陣地に投入し、王手をかけていく。それでも永井が築いた左美濃囲いは簡単には突破できない。一手一手指すたびに、僕の打つべき手が消えていく。
 僕は深く息を吸って、言うべき言葉を整えていく。
「攻め一辺倒だった永井が、ちゃんと守ることを覚えた。血とか、遺伝とか、そんなの関係ない。それに、永井は僕が信頼する人間の一人で、大切な友達だ」
窓の外からひんやりとした風が流れてきて、頬をなでる。呼吸をするたびに新鮮な空気が身体のすみずみにまでゆき渡る。
僕の王手は結局、永井の玉には届かなかった。分かっていた。分かっていたけど、指してみようと思ったのだ。永井はゆっくりと持ち駒をつかむと、僕の玉の前に置いた。銀将だった。

「六藤、ありがとな」

 色々な意味が込められた、感謝の言葉だと思った。
 僕は由紀が好きだ。
 彼女の穏やかな笑顔も、暖かい陽だまりのような雰囲気も、静かな意志のつよさも。とても素敵なひとで、好きだと気づいたこと、好きになったことに後悔はない。
 ただ困ったことに、僕は永井のことも好きだった。いつも飄々としてふざけて、周りを明るくする。すこし強引なところもあるが、結局はリーダーシップがあって彼と一緒に進んでいけば楽しい。
 僕はいつのまにか、彼らが並んで笑い合っている姿を見るのが好きになっていた。永井がふざけて、由紀がたしなめる。由紀が笑うと、永井は穏やかにその笑顔を見つめる。そんな二人を僕はずっと見ていたいと思った。僕の小さな恋は流れ星みたいに突然あらわれると、そのまま消えてしまうことはなく、ずっと光りつづける確かなものへと変わった。
 きっとそういうのもある。

「負けました」
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