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3章 秋
37話
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能登遠征が終わると、大学の後期授業が始まった。
夕陽が山の向こうへと消えていく時間が少しずつ早くなってきたことを感じる。身をすくめるような冷たい風が、季節の移り変わりを告げていた。
僕は授業を終えた後、十文字書店のレジに立っていた。永井はインターンシップが忙しいらしく、アルバイトを休んだままだ。ただ、由紀との関係を前進させることを決意したのか、先日二人で出かけたようだ。最近あまり二人の顔を見かけていないので、その後どうなったのかを聞くことは出来ていないのだが。
「むとー、おとうさんが、これ新しく出た文庫だから出しておけって。あと、ちょっと外でてくるって」
裏口から、羽衣ちゃんが台車を押して書店へ入ってきた。胸元に「十文字書店」と書かれたクリーム色のエプロンは、羽衣ちゃん専用の特製品で、彼女の成長と合わせて毎年新調されている。
「わかったよ。ありがとう、重かったでしょ」
「大丈夫だよ。ものすごい書店員さんになりたいから、いっつもきたえてるもん」羽衣ちゃんが腕にぐっと力をこめて折り曲げると、小さな力こぶができた。
羽衣ちゃんと一緒に新刊が並んでいる棚へと移動し、まずは以前に並べたものを既刊のところへ並べ直す作業から始める。そうすると本の位置が分からなくなるので、専用の小型端末で位置情報を更新する。こうして登録しておけば、レジにいる時に本の場所を尋ねられても、データを入れておいたパソコンで調べれば、すぐに場所を把握することができるのだ。
「この文庫は講談社だから・・・あっちの棚に入れてもらっていい?」
「わかった!」
「集英社は・・・こっちだね」
「らじゃ!」
羽衣ちゃんは夏祭りの後に彼女のお母さんのことを十文字と話し合ってから、少しずつ以前の彼女の明るさを取り戻してきていた。書店の仕事を手伝うようになり、「ものすごい書店員」を目指して日々頑張っている。
一通り作業を終えて、棚に入りきらなかった本はひとまず段ボールの中に入れて、保管することにした。レジに戻ると終業時間が近くなっていたので、レジ閉め作業をはじめる。
「そういえば羽衣ちゃん、最近クジラの唄は聞こえる?」
「ううん、ぜんぜん聞こえなくなっちゃったなあ・・・」
羽衣ちゃんは一緒にレジに立ち、僕の作業を見ながら答える。
心美には聞こえているが、羽衣ちゃんは近頃、クジラの唄が聞こえなくなったと言う。これでまたクジラの唄が聞こえる僕の友人は、心美一人になった。だけどなぜ、聞こえたり聞こえなかったりするのだろう。羽衣ちゃんに限って言えば、彼女の悩みが解消されたことが関係しているのだろうか。だとすれば犀川のクジラは人の夢を食べるという伝説の生き物「バク」のように、犀川沿いに住む人々の悩みや苦しみを食べているということなのだろうか。クジラが心美に唄で呼びかけ、わたしが食べてあげましょう、と言っている場面を想像する。自分で想像しておきながら、おとぎ話のような世界観に苦笑する。
「むとー、どうしたの?」
羽衣ちゃんが見上げるようにして、僕の顔を覗き込み、茶色の澄んだ瞳に僕の顔が映る。いけない。考えごとをしていたら、作業をする手が止まっていたようだ。
「ごめん、なんでもないよ」変なむとーだ、と羽衣ちゃんは首を傾げる。
「そういえば、今日も心美ちゃんこないの?」
「うん。なんか美大の文化祭の準備で忙しいらしいよ」
「ふーん、残念。お父さんも杏子ちゃんとでかけて行っちゃうし、なんだか今日の十文字書店はさみしい感じだなあ」と羽衣ちゃんは言った。
心美は文化祭で絵を出展するのに忙しく、最近十文字書店に顔を見せる頻度が減っていた。したがって、近頃の僕は家に帰る時間が少しだけ早くなっていた。
まあ文化祭が終われば、また心美を家に送り届けてから帰る生活に戻るのだろう。
「御手洗さんと?配達かな?」こんな夜遅い時間に、配達に行くだろうか。というか御手洗さんは今日、勤務に入っていないはずだけれど。
「わかんない。少しだけ出かけてくるから、六藤にしっかり書店のイロハを教わるんだぞーって」
「へえ、なんだろうね」
羽衣ちゃんに笑顔を見せながら、まだ勤務歴一年半程度なのに書店のイロハまで教えられるわけないだろ、と心の中で十文字に毒づく。
「あ、わすれてた。お店がしまる時間にはかえってくるから、ぜんぶ終わったら屋上にむとーをつれてきてほしいって言われてたんだった」ちゃんとつたえたからね、と羽衣ちゃんは胸を張った。
何の用だろう、今日は心美がいないから、早く帰れると思ったのに。
終業時間になり、店内にお客さんがいないことを確認すると、いつものように店内の電気を消し、ラーメン屋のような看板を裏返した。
二階にあがったところで羽衣ちゃんとはバイバイをして、僕は屋上へと上がった。
夕陽が山の向こうへと消えていく時間が少しずつ早くなってきたことを感じる。身をすくめるような冷たい風が、季節の移り変わりを告げていた。
僕は授業を終えた後、十文字書店のレジに立っていた。永井はインターンシップが忙しいらしく、アルバイトを休んだままだ。ただ、由紀との関係を前進させることを決意したのか、先日二人で出かけたようだ。最近あまり二人の顔を見かけていないので、その後どうなったのかを聞くことは出来ていないのだが。
「むとー、おとうさんが、これ新しく出た文庫だから出しておけって。あと、ちょっと外でてくるって」
裏口から、羽衣ちゃんが台車を押して書店へ入ってきた。胸元に「十文字書店」と書かれたクリーム色のエプロンは、羽衣ちゃん専用の特製品で、彼女の成長と合わせて毎年新調されている。
「わかったよ。ありがとう、重かったでしょ」
「大丈夫だよ。ものすごい書店員さんになりたいから、いっつもきたえてるもん」羽衣ちゃんが腕にぐっと力をこめて折り曲げると、小さな力こぶができた。
羽衣ちゃんと一緒に新刊が並んでいる棚へと移動し、まずは以前に並べたものを既刊のところへ並べ直す作業から始める。そうすると本の位置が分からなくなるので、専用の小型端末で位置情報を更新する。こうして登録しておけば、レジにいる時に本の場所を尋ねられても、データを入れておいたパソコンで調べれば、すぐに場所を把握することができるのだ。
「この文庫は講談社だから・・・あっちの棚に入れてもらっていい?」
「わかった!」
「集英社は・・・こっちだね」
「らじゃ!」
羽衣ちゃんは夏祭りの後に彼女のお母さんのことを十文字と話し合ってから、少しずつ以前の彼女の明るさを取り戻してきていた。書店の仕事を手伝うようになり、「ものすごい書店員」を目指して日々頑張っている。
一通り作業を終えて、棚に入りきらなかった本はひとまず段ボールの中に入れて、保管することにした。レジに戻ると終業時間が近くなっていたので、レジ閉め作業をはじめる。
「そういえば羽衣ちゃん、最近クジラの唄は聞こえる?」
「ううん、ぜんぜん聞こえなくなっちゃったなあ・・・」
羽衣ちゃんは一緒にレジに立ち、僕の作業を見ながら答える。
心美には聞こえているが、羽衣ちゃんは近頃、クジラの唄が聞こえなくなったと言う。これでまたクジラの唄が聞こえる僕の友人は、心美一人になった。だけどなぜ、聞こえたり聞こえなかったりするのだろう。羽衣ちゃんに限って言えば、彼女の悩みが解消されたことが関係しているのだろうか。だとすれば犀川のクジラは人の夢を食べるという伝説の生き物「バク」のように、犀川沿いに住む人々の悩みや苦しみを食べているということなのだろうか。クジラが心美に唄で呼びかけ、わたしが食べてあげましょう、と言っている場面を想像する。自分で想像しておきながら、おとぎ話のような世界観に苦笑する。
「むとー、どうしたの?」
羽衣ちゃんが見上げるようにして、僕の顔を覗き込み、茶色の澄んだ瞳に僕の顔が映る。いけない。考えごとをしていたら、作業をする手が止まっていたようだ。
「ごめん、なんでもないよ」変なむとーだ、と羽衣ちゃんは首を傾げる。
「そういえば、今日も心美ちゃんこないの?」
「うん。なんか美大の文化祭の準備で忙しいらしいよ」
「ふーん、残念。お父さんも杏子ちゃんとでかけて行っちゃうし、なんだか今日の十文字書店はさみしい感じだなあ」と羽衣ちゃんは言った。
心美は文化祭で絵を出展するのに忙しく、最近十文字書店に顔を見せる頻度が減っていた。したがって、近頃の僕は家に帰る時間が少しだけ早くなっていた。
まあ文化祭が終われば、また心美を家に送り届けてから帰る生活に戻るのだろう。
「御手洗さんと?配達かな?」こんな夜遅い時間に、配達に行くだろうか。というか御手洗さんは今日、勤務に入っていないはずだけれど。
「わかんない。少しだけ出かけてくるから、六藤にしっかり書店のイロハを教わるんだぞーって」
「へえ、なんだろうね」
羽衣ちゃんに笑顔を見せながら、まだ勤務歴一年半程度なのに書店のイロハまで教えられるわけないだろ、と心の中で十文字に毒づく。
「あ、わすれてた。お店がしまる時間にはかえってくるから、ぜんぶ終わったら屋上にむとーをつれてきてほしいって言われてたんだった」ちゃんとつたえたからね、と羽衣ちゃんは胸を張った。
何の用だろう、今日は心美がいないから、早く帰れると思ったのに。
終業時間になり、店内にお客さんがいないことを確認すると、いつものように店内の電気を消し、ラーメン屋のような看板を裏返した。
二階にあがったところで羽衣ちゃんとはバイバイをして、僕は屋上へと上がった。
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