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3章 秋
39話
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十文字は無表情で、淡々と話した。
彼自身も、まるでどこかの国で起きてしまった忌まわしい事件のように話すことでしか、この出来事について語れないのかもしれない。そうおもった。
「・・・交通事故だったんですね」
「ああ。静香はなんとか一命を取りとめたんだが、拓郎のほうはダメだった。静香は入院して、結局家に帰ることが出来たのは一か月後くらいでな、帰ってきたころの静香はほんとうに落ち込んでいたよ」
「それで花川静香さんは、精神的に追い込まれてしまったのですか?」
「いや。たしかに静香は責任を感じて落ち込んでいたが、まだ彼女には心美ちゃんがいた。心美ちゃんのためにも何とか立ち直ろうと必死だった。退院してからの半年間、必死に絵を描いて、心美ちゃんと一緒に精いっぱい生きていこうと必死だったんだ。だけど元々彼女は精神的に脆い部分があってな、そこを突くようにして週刊誌やネットニュース、SNSであることないことが言いふらされるようになったんだ」
だんだんと聞いているのが辛くなってくる内容だった。当時の心美は、いったいどんな気持ちでいたのだろうか。
十文字はひと呼吸置いてから、話をつづける。
「花川静香は旦那と上手くいっていなくて、事故に見せかけた殺人だったとか、事故の前に睡眠薬を飲ませていたとか、そういう根も葉もない噂だよ。そんなのは無視しておけばいいんだが、当時の静香は有名人だったからな、仕事でネットを使ったり、本屋に出かけるとどうしても目に入るんだろう。ただでさえ弱っていた彼女はだんだんとおかしくなっていった。幻覚が見えたり、幻聴が聞こえたり、話していると急に汗が噴き出してろれつが回らなくなったりな・・・。そんなある日に、静香がこの絵を持ってきたんだ」
僕は花川静香が描いたという、クジラの絵に目を向ける。鮮やかに咲きほこる桜の木々に囲まれ、橋の上を巨大なクジラが飛んでいる光景は強く、雄大だ。
「十文字くん見て、犀川にクジラがいたのよ。想像で描いたんじゃなくて、ジャンプしているところをそのまま描いたのよってさ。綺麗な絵だよなあ。本当に綺麗なのに、おれはぞっとしたよ。だってそうだろ、こんな川にでっけえクジラがいるなんてありえねえ」
「でも店長は、あの骨を見ているじゃないですか」
「ああ見たよ。写真にも撮った。だけど、骨と実物はちがうだろ?骨は大雨で海の方から流れてきて、たまたま森熊ゼミが見つけただけだ。それ以上でも以下でもない。ほんとうのクジラが犀川を泳いで、しかも橋の上を飛ぶなんて・・・」
僕は、反論することができなかった。春からずっと調査を続けてきたのに、十文字の言葉をひっくり返すことのできるような証拠も、根拠も、何一つ持っていない。犀川沿いに住んでいる人間なら誰しもが分かる単純な事実だ。
ここにクジラなんて、いるわけない。
「おれは静香に病院に行くことをすすめて、静香はそのまま入院することになった。だけど入院してからも、幻聴や幻覚に悩まされたり、奇声を上げたりするもんだから、精神病棟に移されることになったんだ・・・。その後のことは、六藤も知っているんだろう」
「・・・はい」
最後には、彼女は自分自身でこの世界に別れを告げた。
話し方は乱暴だったが、ヤマグチは完全に嘘を言っていたわけではなかった。週刊誌やSNSで取り上げられた情報を聞けば、この町の人たちは花川静香が事故に見せかけて旦那を殺したと認識する可能性はあったのだろう。花川静香の人間性も、心美の優しさも、何も知らなければ、そうなのかもしれない、と面白半分で意見を言う人たちはきっといるのだろう。
だけどそれは、悲しいことだ。
誰かに非難を向けるときは、その意見に対して責任を持つべきだと僕は思う。花川家に対する直接的な批判や中傷があったにしろなかったにしろ、噂にすぎない情報がどれだけ当人たちに影響を及ぼしてしまうのかをよく考えたのだろうか。自分自身が安全な場所にいながら、苦悩している人間を攻撃できる残酷さと想像力の欠如は、とても悲しいことだと思う。
「花火大会のころだったか、六藤がクジラについて調べているって話をしてきたことがあったろ?」
「はい。店長から巨大な骨の写真をもらったときですね」
「あのとき俺は、本当はクジラの調査はやめておけって言うつもりだったんだ。静香がおかしくなる前に見たって言うクジラのことかもしれないだろ。もし心美ちゃんにそのクジラが見えてしまったら、彼女もおかしくなるかもしれない。そう思ったんだ」
「店長は、クジラは幻聴や幻覚の一種だと考えているんですか?」
「・・・そうだな。この世に存在しないものが聞こえたり、見えたりすることはあまり良いことだとは思えない」
―どうしようもなく身体の内側に溜まっちまった悪いものが、当人の意識にかかわらず影響を及ぼすことはあるもんだ
魚住の言葉が、頭をよぎる。
十文字も魚住も、同じようなことを言っている。
「羽衣ちゃんが、クジラの唄を聞いたという話は知っているんですよね?」
「ああ、だから余計に分からなくなった。羽衣は、そのクジラの唄を聞くと安心したと言っていた。すごく温かくて、お母さんの声みたいだったってさ。今はもう聞こえないみたいだけどな」
「それで、骨の写真をくれたときに歯切れが悪い感じだったんですね」
僕の言葉に、すまんな、と十文字は笑った。
べつに謝る必要はないのだけれど。
「あの子は、心美ちゃんはさ、拓郎と静香が死んだのは自分のせいだと思っているんだ」
「どうしてですか?」
「もしも自分がいなければ、大雪が降った夜に急いで帰ってくる必要はなかったのに。もっと自分がしっかりしていれば、お父さんを失ったお母さんをささえられていたのに・・・。もしも、の話をしても仕方がないのは彼女も分かっているとおもうんだ。それでも彼女は自分を責めて、自分自身をきずつけた時期もあった。悲しすぎたんだ、彼女にとって拓郎と静香は、最高の両親だったから」
だから、心美ちゃんのことを見ていてくれ、十文字は静かに言った。
花川静香は精神を病む前に犀川でクジラを見た。
クジラを描いた絵を十文字に渡した。
十文字は、心美ちゃんにクジラの姿が見えてしまうのではないかと危惧している。
十数年前に現れた巨大な骨は煙のように消え、心美の耳には今もなおクジラの歌声が聞こえる。
僕は頭の中でひとつひとつの事柄を整理して、事柄の繋がりを探す。だが思考がぐるぐると回って、答えを見つけられないまま迷宮へと迷いこみ、出口にたどり着けない。今さらながら、面倒な遺言を遺した父をなじりたいような、そんな気分になった。
彼自身も、まるでどこかの国で起きてしまった忌まわしい事件のように話すことでしか、この出来事について語れないのかもしれない。そうおもった。
「・・・交通事故だったんですね」
「ああ。静香はなんとか一命を取りとめたんだが、拓郎のほうはダメだった。静香は入院して、結局家に帰ることが出来たのは一か月後くらいでな、帰ってきたころの静香はほんとうに落ち込んでいたよ」
「それで花川静香さんは、精神的に追い込まれてしまったのですか?」
「いや。たしかに静香は責任を感じて落ち込んでいたが、まだ彼女には心美ちゃんがいた。心美ちゃんのためにも何とか立ち直ろうと必死だった。退院してからの半年間、必死に絵を描いて、心美ちゃんと一緒に精いっぱい生きていこうと必死だったんだ。だけど元々彼女は精神的に脆い部分があってな、そこを突くようにして週刊誌やネットニュース、SNSであることないことが言いふらされるようになったんだ」
だんだんと聞いているのが辛くなってくる内容だった。当時の心美は、いったいどんな気持ちでいたのだろうか。
十文字はひと呼吸置いてから、話をつづける。
「花川静香は旦那と上手くいっていなくて、事故に見せかけた殺人だったとか、事故の前に睡眠薬を飲ませていたとか、そういう根も葉もない噂だよ。そんなのは無視しておけばいいんだが、当時の静香は有名人だったからな、仕事でネットを使ったり、本屋に出かけるとどうしても目に入るんだろう。ただでさえ弱っていた彼女はだんだんとおかしくなっていった。幻覚が見えたり、幻聴が聞こえたり、話していると急に汗が噴き出してろれつが回らなくなったりな・・・。そんなある日に、静香がこの絵を持ってきたんだ」
僕は花川静香が描いたという、クジラの絵に目を向ける。鮮やかに咲きほこる桜の木々に囲まれ、橋の上を巨大なクジラが飛んでいる光景は強く、雄大だ。
「十文字くん見て、犀川にクジラがいたのよ。想像で描いたんじゃなくて、ジャンプしているところをそのまま描いたのよってさ。綺麗な絵だよなあ。本当に綺麗なのに、おれはぞっとしたよ。だってそうだろ、こんな川にでっけえクジラがいるなんてありえねえ」
「でも店長は、あの骨を見ているじゃないですか」
「ああ見たよ。写真にも撮った。だけど、骨と実物はちがうだろ?骨は大雨で海の方から流れてきて、たまたま森熊ゼミが見つけただけだ。それ以上でも以下でもない。ほんとうのクジラが犀川を泳いで、しかも橋の上を飛ぶなんて・・・」
僕は、反論することができなかった。春からずっと調査を続けてきたのに、十文字の言葉をひっくり返すことのできるような証拠も、根拠も、何一つ持っていない。犀川沿いに住んでいる人間なら誰しもが分かる単純な事実だ。
ここにクジラなんて、いるわけない。
「おれは静香に病院に行くことをすすめて、静香はそのまま入院することになった。だけど入院してからも、幻聴や幻覚に悩まされたり、奇声を上げたりするもんだから、精神病棟に移されることになったんだ・・・。その後のことは、六藤も知っているんだろう」
「・・・はい」
最後には、彼女は自分自身でこの世界に別れを告げた。
話し方は乱暴だったが、ヤマグチは完全に嘘を言っていたわけではなかった。週刊誌やSNSで取り上げられた情報を聞けば、この町の人たちは花川静香が事故に見せかけて旦那を殺したと認識する可能性はあったのだろう。花川静香の人間性も、心美の優しさも、何も知らなければ、そうなのかもしれない、と面白半分で意見を言う人たちはきっといるのだろう。
だけどそれは、悲しいことだ。
誰かに非難を向けるときは、その意見に対して責任を持つべきだと僕は思う。花川家に対する直接的な批判や中傷があったにしろなかったにしろ、噂にすぎない情報がどれだけ当人たちに影響を及ぼしてしまうのかをよく考えたのだろうか。自分自身が安全な場所にいながら、苦悩している人間を攻撃できる残酷さと想像力の欠如は、とても悲しいことだと思う。
「花火大会のころだったか、六藤がクジラについて調べているって話をしてきたことがあったろ?」
「はい。店長から巨大な骨の写真をもらったときですね」
「あのとき俺は、本当はクジラの調査はやめておけって言うつもりだったんだ。静香がおかしくなる前に見たって言うクジラのことかもしれないだろ。もし心美ちゃんにそのクジラが見えてしまったら、彼女もおかしくなるかもしれない。そう思ったんだ」
「店長は、クジラは幻聴や幻覚の一種だと考えているんですか?」
「・・・そうだな。この世に存在しないものが聞こえたり、見えたりすることはあまり良いことだとは思えない」
―どうしようもなく身体の内側に溜まっちまった悪いものが、当人の意識にかかわらず影響を及ぼすことはあるもんだ
魚住の言葉が、頭をよぎる。
十文字も魚住も、同じようなことを言っている。
「羽衣ちゃんが、クジラの唄を聞いたという話は知っているんですよね?」
「ああ、だから余計に分からなくなった。羽衣は、そのクジラの唄を聞くと安心したと言っていた。すごく温かくて、お母さんの声みたいだったってさ。今はもう聞こえないみたいだけどな」
「それで、骨の写真をくれたときに歯切れが悪い感じだったんですね」
僕の言葉に、すまんな、と十文字は笑った。
べつに謝る必要はないのだけれど。
「あの子は、心美ちゃんはさ、拓郎と静香が死んだのは自分のせいだと思っているんだ」
「どうしてですか?」
「もしも自分がいなければ、大雪が降った夜に急いで帰ってくる必要はなかったのに。もっと自分がしっかりしていれば、お父さんを失ったお母さんをささえられていたのに・・・。もしも、の話をしても仕方がないのは彼女も分かっているとおもうんだ。それでも彼女は自分を責めて、自分自身をきずつけた時期もあった。悲しすぎたんだ、彼女にとって拓郎と静香は、最高の両親だったから」
だから、心美ちゃんのことを見ていてくれ、十文字は静かに言った。
花川静香は精神を病む前に犀川でクジラを見た。
クジラを描いた絵を十文字に渡した。
十文字は、心美ちゃんにクジラの姿が見えてしまうのではないかと危惧している。
十数年前に現れた巨大な骨は煙のように消え、心美の耳には今もなおクジラの歌声が聞こえる。
僕は頭の中でひとつひとつの事柄を整理して、事柄の繋がりを探す。だが思考がぐるぐると回って、答えを見つけられないまま迷宮へと迷いこみ、出口にたどり着けない。今さらながら、面倒な遺言を遺した父をなじりたいような、そんな気分になった。
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