犀川のクジラ

みん

文字の大きさ
41 / 56
3章 秋

39話

しおりを挟む
 十文字は無表情で、淡々と話した。

 彼自身も、まるでどこかの国で起きてしまった忌まわしい事件のように話すことでしか、この出来事について語れないのかもしれない。そうおもった。

「・・・交通事故だったんですね」

「ああ。静香はなんとか一命を取りとめたんだが、拓郎のほうはダメだった。静香は入院して、結局家に帰ることが出来たのは一か月後くらいでな、帰ってきたころの静香はほんとうに落ち込んでいたよ」

「それで花川静香さんは、精神的に追い込まれてしまったのですか?」

「いや。たしかに静香は責任を感じて落ち込んでいたが、まだ彼女には心美ちゃんがいた。心美ちゃんのためにも何とか立ち直ろうと必死だった。退院してからの半年間、必死に絵を描いて、心美ちゃんと一緒に精いっぱい生きていこうと必死だったんだ。だけど元々彼女は精神的に脆い部分があってな、そこを突くようにして週刊誌やネットニュース、SNSであることないことが言いふらされるようになったんだ」

 だんだんと聞いているのが辛くなってくる内容だった。当時の心美は、いったいどんな気持ちでいたのだろうか。
 十文字はひと呼吸置いてから、話をつづける。
「花川静香は旦那と上手くいっていなくて、事故に見せかけた殺人だったとか、事故の前に睡眠薬を飲ませていたとか、そういう根も葉もない噂だよ。そんなのは無視しておけばいいんだが、当時の静香は有名人だったからな、仕事でネットを使ったり、本屋に出かけるとどうしても目に入るんだろう。ただでさえ弱っていた彼女はだんだんとおかしくなっていった。幻覚が見えたり、幻聴が聞こえたり、話していると急に汗が噴き出してろれつが回らなくなったりな・・・。そんなある日に、静香がこの絵を持ってきたんだ」
 僕は花川静香が描いたという、クジラの絵に目を向ける。鮮やかに咲きほこる桜の木々に囲まれ、橋の上を巨大なクジラが飛んでいる光景は強く、雄大だ。
「十文字くん見て、犀川にクジラがいたのよ。想像で描いたんじゃなくて、ジャンプしているところをそのまま描いたのよってさ。綺麗な絵だよなあ。本当に綺麗なのに、おれはぞっとしたよ。だってそうだろ、こんな川にでっけえクジラがいるなんてありえねえ」

「でも店長は、あの骨を見ているじゃないですか」

「ああ見たよ。写真にも撮った。だけど、骨と実物はちがうだろ?骨は大雨で海の方から流れてきて、たまたま森熊ゼミが見つけただけだ。それ以上でも以下でもない。ほんとうのクジラが犀川を泳いで、しかも橋の上を飛ぶなんて・・・」

 僕は、反論することができなかった。春からずっと調査を続けてきたのに、十文字の言葉をひっくり返すことのできるような証拠も、根拠も、何一つ持っていない。犀川沿いに住んでいる人間なら誰しもが分かる単純な事実だ。
ここにクジラなんて、いるわけない。
「おれは静香に病院に行くことをすすめて、静香はそのまま入院することになった。だけど入院してからも、幻聴や幻覚に悩まされたり、奇声を上げたりするもんだから、精神病棟に移されることになったんだ・・・。その後のことは、六藤も知っているんだろう」
「・・・はい」
 
 最後には、彼女は自分自身でこの世界に別れを告げた。

 話し方は乱暴だったが、ヤマグチは完全に嘘を言っていたわけではなかった。週刊誌やSNSで取り上げられた情報を聞けば、この町の人たちは花川静香が事故に見せかけて旦那を殺したと認識する可能性はあったのだろう。花川静香の人間性も、心美の優しさも、何も知らなければ、そうなのかもしれない、と面白半分で意見を言う人たちはきっといるのだろう。

 だけどそれは、悲しいことだ。

 誰かに非難を向けるときは、その意見に対して責任を持つべきだと僕は思う。花川家に対する直接的な批判や中傷があったにしろなかったにしろ、噂にすぎない情報がどれだけ当人たちに影響を及ぼしてしまうのかをよく考えたのだろうか。自分自身が安全な場所にいながら、苦悩している人間を攻撃できる残酷さと想像力の欠如は、とても悲しいことだと思う。
「花火大会のころだったか、六藤がクジラについて調べているって話をしてきたことがあったろ?」
「はい。店長から巨大な骨の写真をもらったときですね」
「あのとき俺は、本当はクジラの調査はやめておけって言うつもりだったんだ。静香がおかしくなる前に見たって言うクジラのことかもしれないだろ。もし心美ちゃんにそのクジラが見えてしまったら、彼女もおかしくなるかもしれない。そう思ったんだ」
「店長は、クジラは幻聴や幻覚の一種だと考えているんですか?」
「・・・そうだな。この世に存在しないものが聞こえたり、見えたりすることはあまり良いことだとは思えない」
―どうしようもなく身体の内側に溜まっちまった悪いものが、当人の意識にかかわらず影響を及ぼすことはあるもんだ
 魚住の言葉が、頭をよぎる。
 十文字も魚住も、同じようなことを言っている。
「羽衣ちゃんが、クジラの唄を聞いたという話は知っているんですよね?」
「ああ、だから余計に分からなくなった。羽衣は、そのクジラの唄を聞くと安心したと言っていた。すごく温かくて、お母さんの声みたいだったってさ。今はもう聞こえないみたいだけどな」
「それで、骨の写真をくれたときに歯切れが悪い感じだったんですね」
 僕の言葉に、すまんな、と十文字は笑った。
 べつに謝る必要はないのだけれど。
「あの子は、心美ちゃんはさ、拓郎と静香が死んだのは自分のせいだと思っているんだ」
「どうしてですか?」
「もしも自分がいなければ、大雪が降った夜に急いで帰ってくる必要はなかったのに。もっと自分がしっかりしていれば、お父さんを失ったお母さんをささえられていたのに・・・。もしも、の話をしても仕方がないのは彼女も分かっているとおもうんだ。それでも彼女は自分を責めて、自分自身をきずつけた時期もあった。悲しすぎたんだ、彼女にとって拓郎と静香は、最高の両親だったから」

 だから、心美ちゃんのことを見ていてくれ、十文字は静かに言った。

 花川静香は精神を病む前に犀川でクジラを見た。

 クジラを描いた絵を十文字に渡した。

 十文字は、心美ちゃんにクジラの姿が見えてしまうのではないかと危惧している。

 十数年前に現れた巨大な骨は煙のように消え、心美の耳には今もなおクジラの歌声が聞こえる。

 僕は頭の中でひとつひとつの事柄を整理して、事柄の繋がりを探す。だが思考がぐるぐると回って、答えを見つけられないまま迷宮へと迷いこみ、出口にたどり着けない。今さらながら、面倒な遺言を遺した父をなじりたいような、そんな気分になった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。 その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。 全7話

入れ替わり夫婦

廣瀬純七
ファンタジー
モニターで送られてきた性別交換クリームで入れ替わった新婚夫婦の話

秘書と社長の秘密

廣瀬純七
大衆娯楽
社内の調査のため、社長・高橋健一はこっそり秘書・木村由紀と不思議なアプリで入れ替わることに。 突然“社長役”を任された由紀と、自由に動ける立場を手に入れた高橋。 ふたりの秘密の入れ替わり作戦は、どの様な結末になるのか?

性別交換ノート

廣瀬純七
ファンタジー
性別を交換できるノートを手に入れた高校生の山本渚の物語

処理中です...