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3章 秋
40話
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家に帰ってすぐ、僕は自分の部屋に行き、父が遺したノートを開いた。
相変わらず殴り書きで描かれていて、その汚さに思わず笑ってしまう。先ほどまで書店で父のことをなじっていたのに、その懐かしい字を見て、簡単に許してしまいそうな自分がいた。
父さん、もうちょっと綺麗に書けたでしょ。
僕の周りでクジラを見たと言った人間は、父と花川静香の二人ということになった。二人とももう亡くなっているので、話を聞くことはできない。
クジラの唄を聞いたと言う人間は心美と羽衣ちゃんの二人だ。羽衣ちゃんはすでに聞こえなくなっていて、これからずっと聞こえない可能性も考えられる。
犀川で発見された巨大な骨。能登のクジラ。父が遺したノートと森熊教授、魚住、十文字が話した内容が少しずつ合わさっていく。
一つ一つ離れた場所にあった小さな点が、一本の線となって繋がっていくような気がした。
コンコン。
部屋のドアを叩く音がした。
「どうぞ」
ドアの向こうに声をかけると、母が部屋に入ってくる。
「あんた、こんな暗い部屋でなにしているのよ?」
そう言われて初めて、部屋に入ってからデスクライトしか点けていなかったことに気付く。考えに夢中になっていたのだ。
「ごめん、なんでもないよ」
僕は椅子から立ち上がり、部屋の電気を点けた。
「またクジラのことを調べているの?あんたも懲りないねえ」
「うん、もう少しで父さんの考えていたことが解読できそうな気がするんだ」
「お父さんが考えていたことなんて、大したことじゃないわよ。だいたいは夜ご飯のことか、物語の妄想か、お母さんのことよ」
「そこは家族のこと、じゃないんだね」
「知らないの?お父さんはわたしのことが大好きだったのよ」
母が笑ってそう言いきる姿は清々しく、母もきっと父のことが大好きだったのだろう、と感じた。
梨食べる?と言って母は手に持っていた皿を僕の机に置いた。カットされた梨をほおばると、ジュワっと甘い味が僕の口の中に広がる。
「もし父さんが言っていたクジラが、悪いやつだったらどうする?」
甘い梨を食べながら、僕は母に問いかけた。もし誰かの命を奪うような、「死神」のような存在だとしたらどうする、と。
「悪いやつ?ハリーポッターに出てくるヴォルデモートみたいな?それともアンパンマンに出てくるバイキンマンみたいな?」
「なんでその二択なんだよ」
「だってお母さん、あんまりアニメとか観ないから、例えばの“悪いやつ”が浮かんでこないよ」
「別に例えなくてもいいけど」
それにバイキンマンは悪いやつと言い切れるのだろうか、どこか憎めない感じがする。ときどきテレビで見かけると笑ってダンスとか踊っているし。
「お父さんが好きだった登場人物とかキャラクターって、良いやつでも悪いやつでもなかった気がする」
「シシ神様みたいな?」
「なにその神様?わたし、マイナーな映画に詳しくないのよね」
「けしてマイナーな映画ではないよ」
「あと、あんたに一つ言えることがあるとすれば」母さんは僕の指摘を当たり前のように無視すると、皿からヒョイと梨を手に取って口に運び、「お父さんがあんなに熱心になっていたものが、悪いやつなわけないわ」と言った。
母はなんだかんだと言いながら、父のことを信じている。
何気なく言った一言だったが、母の意見は心強かった。
暗くなると、少し前まで聞こえていた虫たちの声は自然と聞こえなくなっていて、ザァーと犀川の流れる音だけが僕の耳にとどいた。耳をすましてみても、ほかには何も聞こえない。静かな暗闇だ。僕と母は梨をかじりながら思い出の中にいる父の話をして、静かな夜を過ごした。
もうすぐ、冬がやってくる。
相変わらず殴り書きで描かれていて、その汚さに思わず笑ってしまう。先ほどまで書店で父のことをなじっていたのに、その懐かしい字を見て、簡単に許してしまいそうな自分がいた。
父さん、もうちょっと綺麗に書けたでしょ。
僕の周りでクジラを見たと言った人間は、父と花川静香の二人ということになった。二人とももう亡くなっているので、話を聞くことはできない。
クジラの唄を聞いたと言う人間は心美と羽衣ちゃんの二人だ。羽衣ちゃんはすでに聞こえなくなっていて、これからずっと聞こえない可能性も考えられる。
犀川で発見された巨大な骨。能登のクジラ。父が遺したノートと森熊教授、魚住、十文字が話した内容が少しずつ合わさっていく。
一つ一つ離れた場所にあった小さな点が、一本の線となって繋がっていくような気がした。
コンコン。
部屋のドアを叩く音がした。
「どうぞ」
ドアの向こうに声をかけると、母が部屋に入ってくる。
「あんた、こんな暗い部屋でなにしているのよ?」
そう言われて初めて、部屋に入ってからデスクライトしか点けていなかったことに気付く。考えに夢中になっていたのだ。
「ごめん、なんでもないよ」
僕は椅子から立ち上がり、部屋の電気を点けた。
「またクジラのことを調べているの?あんたも懲りないねえ」
「うん、もう少しで父さんの考えていたことが解読できそうな気がするんだ」
「お父さんが考えていたことなんて、大したことじゃないわよ。だいたいは夜ご飯のことか、物語の妄想か、お母さんのことよ」
「そこは家族のこと、じゃないんだね」
「知らないの?お父さんはわたしのことが大好きだったのよ」
母が笑ってそう言いきる姿は清々しく、母もきっと父のことが大好きだったのだろう、と感じた。
梨食べる?と言って母は手に持っていた皿を僕の机に置いた。カットされた梨をほおばると、ジュワっと甘い味が僕の口の中に広がる。
「もし父さんが言っていたクジラが、悪いやつだったらどうする?」
甘い梨を食べながら、僕は母に問いかけた。もし誰かの命を奪うような、「死神」のような存在だとしたらどうする、と。
「悪いやつ?ハリーポッターに出てくるヴォルデモートみたいな?それともアンパンマンに出てくるバイキンマンみたいな?」
「なんでその二択なんだよ」
「だってお母さん、あんまりアニメとか観ないから、例えばの“悪いやつ”が浮かんでこないよ」
「別に例えなくてもいいけど」
それにバイキンマンは悪いやつと言い切れるのだろうか、どこか憎めない感じがする。ときどきテレビで見かけると笑ってダンスとか踊っているし。
「お父さんが好きだった登場人物とかキャラクターって、良いやつでも悪いやつでもなかった気がする」
「シシ神様みたいな?」
「なにその神様?わたし、マイナーな映画に詳しくないのよね」
「けしてマイナーな映画ではないよ」
「あと、あんたに一つ言えることがあるとすれば」母さんは僕の指摘を当たり前のように無視すると、皿からヒョイと梨を手に取って口に運び、「お父さんがあんなに熱心になっていたものが、悪いやつなわけないわ」と言った。
母はなんだかんだと言いながら、父のことを信じている。
何気なく言った一言だったが、母の意見は心強かった。
暗くなると、少し前まで聞こえていた虫たちの声は自然と聞こえなくなっていて、ザァーと犀川の流れる音だけが僕の耳にとどいた。耳をすましてみても、ほかには何も聞こえない。静かな暗闇だ。僕と母は梨をかじりながら思い出の中にいる父の話をして、静かな夜を過ごした。
もうすぐ、冬がやってくる。
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