犀川のクジラ

みん

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4章 冬

41話

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 十二月の半ば、初雪が降った。

 道路上に数センチ積もるくらいの雪は交通機関に支障が出るというほどでもないが、町の景色をがらりと変えた。真っ白に統一された銀世界の中を、僕はザクザクと靴音を響かせながら歩いていた。
 
 僕は今、心美の家へ向かっている。
 時刻はお昼を少し過ぎ、今日の僕は十文字書店でのアルバイトが休みで、ゆっくりと家で過ごす予定だった。こたつに入り、蜜柑をほおばり、だらしなく過ごしてやろうと意気込んでいたことを自白する。なのにどうしてか、僕は雪の降る中、心美の家を目指して犀川沿いを歩くことになった。
 十文字から、心美の様子を見てきてほしいと連絡があったのだ。美大の文化祭で忙しいのだろうと思っていた僕らだったが、文化祭が終わってからも心美は十文字書店に顔を出していない。今までも書店にやってくる間隔が空くときはあったが、だいたいは行事やイベントの準備で忙しいだけで、それが終わると毎日のようにあそびに来ていた。
「すまんな。これ持って、様子を見て来てくれや」
 この時期の書店はラッピングの依頼や大量の注文が舞い込み、クリスマスや年末年始に向けて書店は大忙しになる。鬼のように仕事が早い御手洗さんがいるといっても、店長が店を抜けるわけにはいかない。そこで僕が十文字に渡された「お土産」をもって、心美の家へ行くことになったのだ。
 犀川沿いから少し路地に入ったところに心美の家はあった。ふと、駐車場に一台高級車が止まっているのに気づいた。春から何度も彼女を家まで送ってはいるが、こんなことは初めてだった。
 
 誰か家に来ているのだろうか。
 ピンポーン。自分で押したにもかかわらず、インターフォンの音を聞くとなぜだか緊張してきた。しばらく待っていると、中からなにやら声が聞こえて扉が開いた。
「はーい」心美は黒のジャージにグレーのパーカーを着て、眼鏡をかけて出てきた。
「やあ」
「あれ・・・恭二郎?」
心美は扉を開けたまま、きょとんとした顔をして僕の顔を見ている。寝起きなのかまぶたは眠たげにゆっくりとまばたきをして、頬がすこし赤い。
「“こねこパン”持ってきてくれたの?」
「お土産。店長からだよ」
 ふーん、と心美は言うと、ぼーっとした目で僕を見る。
「だれか来てるみたいだし、これで失礼・・・」
「一分だけ待ってて、部屋片づけてくるから!」
 扉を閉めると、バタバタと心美が部屋を片づける音が聞こえてくる。誰かが来ているわけではなかったのだろうか、数分後に出てきた心美は愛想よく僕を家の中へと招き入れた。
初めて入る心美の家は、とても広く感じた。アイランド型のキッチンはさっぱりとしていて綺麗で、リビングはどこを片付けたのかと思うほどモノが少なく、最低限のモノしか置いていない。祖母の家も広い家だったが、心美の家には無機質な広がりを感じた。
そうだ、生活感がない。心美が普段この家で生活をしている場所はここじゃないのだろう、という気がした。
「どうぞ」机に置かれた二つのマグカップから湯気が立ちのぼり、甘い香りが僕の鼻孔をくすぐる。僕と心美は大きなクリーム色のソファに座った。
「フレーバーティーだよ。これは桃かな」
 心美はマグカップを一口すすると、「こねこパン」の袋を見る。開けてもいい?と彼女が聞くので、僕はうなづいた。
「わお、冬季限定マフィンだあ」
「有名なの?」
「そうだね。こねこパンは食パンが人気なんだけど、このマフィンもすごくてね、毎年お店の前に行列ができるんだから」
「なるほど」
「かぼちゃと抹茶ならどっち?」
「抹茶」
「いちごとバナナなら?」
「バナナ」
 心美はふむふむ、と言うと持ってきていた小皿の上にマフィンを並べる。僕の皿には抹茶とバナナのマフィンが二つ置かれた。
「好みがバッチリ分かれてよかった。かぶったら戦争だもんね」心美はいただきまーす、とかぼちゃのマフィンにかぶりつくと、幸せそうに頬をゆるめる。
「おいしー!」
「満足いただけだようでよかった」僕は彼女のそんな姿を見ながら、バナナのマフィンを口に運ぶ。しっとりとした生地に甘さ控えめのバナナ味が効いていて、たしかに美味しい。
「車があったから、誰か来ているのかと思ったよ」僕はかぼちゃのマフィンを食べ終え、続いていちごに進もうとしている心美に言う。
「ああ、あれね。借りたの」
「レンタカー?」
「ううん、ヤマグチ先輩」心美の口からその名前を聞いたとき、春の居酒屋での出来事が僕の脳裏をよぎった。心美が飛び回し蹴りを食らわせ、部外者の僕にまで殴られてしまったあの「ヤマグチ」である。
「春のあれをまだ引きずってて、挽回させてくれってしつこかったんだよね。シオリさんからも、何かヤマグチくんに手伝えることはない?って聞かれてて、車は元々レンタルする予定だったから」
「そういうことか。それにしてもあんな車、何に使うんだい?」
 ヤマグチは金持ちの息子のようなことを言っていたので、きっと親からもらった車なのだろう。それでもあんな高級車を心美に貸すというのは、彼なりに反省の気持ちを示しているのかもしれない。
「ちょっとね・・・」
 心美はいちごのマフィンを食べ終えると、ソファにもたれかかってぐったりとしていた。少し話していただけなのに、頬が紅潮し、汗もかいている。
「心美、どうした?」
「・・・ごめん、ちょっと風邪気味みたいで」
 僕はおどろいて心美の額に手を当てた。熱い。それもかなり。
「恭二郎の手、ひんやりしてて気持ちいいや」
「風邪を引いているなら言ってくれればよかったのに」
「せっかく恭二郎が“こねこパン”持って家に来てくれたんだよ、風邪くらいどうってことないって思ってたんだけど・・・」と言って心美はふにゃりと力なく笑う。
 仕方がないので心美をソファに寝かして、近くにあったひざ掛け用の毛布を彼女のお腹にかける。
「薬、飲んだの?」
「お昼はまだ。キッチンの右はじ一番上の棚にあるんだけど・・・」と心美が言うので、アイランド型キッチンの棚を探してみると近くの病院で処方されたらしい包みをみつけた。「冷蔵庫にある“冷えピタ”もおねがいー」と弱った声がリビングから聞こえる。
 言われたとおりに冷蔵庫を開けると、中にはほとんどモノが入っていなかった。家庭用の冷蔵庫なので一人で使うには大きすぎるが、それにしても少ない。コップに水を入れ、薬と熱さましのシートを持って心美のところに戻る。
「ありがと」
 心美はゆっくりと身体を起こすと、慣れた手つきで包みの中から錠剤を取り出し、喉に流しこんでいった。冷えピタは長い髪の毛が邪魔をして貼りにくそうだったので手伝い、僕が彼女の額にそっと貼る。心美は一仕事終えたようにソファにもたれかかり、浅い呼吸をくり返していた。
「大丈夫?ひどいようだったら、病院まで付き添うよ」
「ううん、よくあるやつだから。ほら言ったでしょ?わたし、小さいころから身体が弱かったって」
「うん」
「ちょっとは良くなったんだけどね。無理をしたりすると、すぐこんな風になっちゃうの」
 ほんとに弱い・・・と心美はひとり言のように呟く。
 美大の文化祭が終わったのは三週間も前のことだ。そのあいだに、心美は何か無理をせざるをえない状況に追い込まれていたということなのだろうか。
「心美、ちゃんと布団で寝よう」
 そう言って心美の身体をお姫さまだっこの形で抱きあげる。彼女は腕を僕の首に素直にまわし、体重を預けてくる。彼女の身体つきは思っていた以上に華奢で、とても軽かった。よく見ると、最近会わないあいだに少し痩せたかもしれない。二階に寝室があるというので、階段をのぼり、心美が言う部屋の扉をあけ、中に足を踏み入れる。
 広い部屋だった。いたるところに絵を描いた紙が床に散乱している。イーゼルがいくつも置いてあり、そこにも絵が描かれ、立てかけられていた。部屋の端にベッドと小さな机が行儀よく並んでいて、僕はそこまで心美を運んだ。ベッドに心美をおろし、布団をかける。
「じゃあ、安静にしてなよ」
 僕にできることはやった。心美は薬も飲んだし、熱さましのシートも貼っている。ウイルス性の病気ではないのであれば、あとはよく眠って回復を待つしかないだろう。そう思ってベッドから立ち去ろうとすると、服のそでが引っ張られた。
「まって、わたしが眠るまでそばにいて。カギは机のうえにあるから、わたしがねむったら、閉めて、ポストにいれてくれたらいいから」
心美が弱々しい声で言う。白い肌が赤く染まり、乱れた呼吸でそう言われると、僕はベッドのそばに座るしかなかった。

「ありがと」

 素直に感謝する心美に、僕の調子がくるう。しばらくすると、母親がそばで見守っていてくれることに安心した子供のように、彼女はすうすうと落ちついた寝息を立てはじめた。僕は彼女のそばに座ったまま、部屋の中を見回した。絵を描いた紙が床に散らばり、小さな机の上には置時計や手鏡などが置かれていて、普段の生活圏がこの部屋であることがうかがえる。僕の服のそでを握ったままだった心美の右手をそっと布団のなかに入れ、立ち上がって窓の外を見る。窓からはいくつかの家の屋根と、かすかに犀川が見えた。心美がいつも目にしているだろう景色が、そこにはあった。

 ふと、イーゼルに立てかけられた絵が気になった。近づいて見てみると、美しい景色が描かれていて強く惹きつけられる。行ったことも見たこともない景色だったが、なぜだか懐かしい。温かな情景を描いた絵はその絵を合わせて五枚あり、そのひとつひとつが胸にせまってくるような、そんな絵だった。
 犀川と桜、そしてクジラの絵。
 あの絵を見たときと同じような感動を、僕は感じていた。
同時に、頭にビッと電気が走ったような振動を感じた。心美が何をしようとしているのかまだ明確には分からないが、きっと心美が描く絵は二通りの描き方がある。一方は美術館で展示されていた「猫と少女」のような繊細で物語性のある絵。もう一方は「犀川と桜とクジラ」のような不思議さと力強いエネルギーをもった絵。
後者は亡くなった心美の母親の絵にとてもよく似ていると、僕は感じた。

「おかあさん・・・」

 小さな声が、ベッドの方から聞こえた。
 近づいて心美の寝顔を見ると、目から涙がこぼれていた。彼女の涙は早朝の湖みたいな、透明な色をしていた。まだ中学生だったときに両親をともに失くして、こんなに広い家に住んで、寂しくないはずがない。僕は彼女の頬をつたう涙を人差し指でぬぐうと、ベッドを背もたれにして座った。ときおり聞こえてくる心美のうわ言に耳を傾けながら、僕は十二月のひとときが過ぎていくのをただ感じていた。
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