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4章 冬
50話
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地上三十階のホテルの部屋から、雪国を見下ろす。真っ白な雪の隙間から明かりが漏れている。名前も知らない誰かの生活から漏れる明かり。僕は彼らのことを知らないし、彼らも僕のことを知らない。僕が普段見ている世界が、彼らにとって同じように見えているとは限らない。世界はずいぶんと、主観的なものなのだ。
この三日間、心美は一心不乱に絵を描きつづけている。花川静香の絵を取り戻したことで触発されているわけでもなく、気がおかしくなっているわけでもない。
彼女は花川静香が遺した七枚の絵を、もう一セット作っている。
「わたしは、お母さんの絵を描くことができるの」
心美の叔母の家から絵を運び出し、車に積んだ三日前の夜、心美はこともなげにそう言った。ホテルに着いて、描きはじめた心美の絵を見ると、それが嘘ではないことがわかった。
心美はまっすぐにキャンバスをにらみ、絵を描きながら、美術館に展示された“猫と少女”の絵はぜんぜん描き方が違うものだと話した。
近いうちに叔母が金沢にやってくることを感じていた彼女は、美術館に母の絵とは全く違う絵を出展することを決めた。その絵を見れば、心美が花川静香の絵を描くことができるという事実に気づかれないと思ったからだという。実際、心美の叔母は絵を見て、姉の絵とは違う感じだと話していた。
なぜ僕が美術館で心美の絵を見たとき違和感を覚えたのかが、やっとわかった。すべては母の絵を取り返すために、心美がずっと考えてきたことだったのだ。
「自分を描くのって、どんな感じ?」
順調に六枚の絵を完成させていた心美だったが、最後の一枚には少し苦労していた。描き方が今までの花川静香の絵とは違ったからだろう。それでもひとつひとつ読み解いていった彼女は、もうすぐで全ての絵を完成させるところだった。
「もう一人のわたしに会っているみたい」
不思議だね、と彼女は言った。
心美がすべての絵を描き終えたのは、大晦日の夜だった。
“代わり”の絵を叔母の家へ納めた僕たちは、金沢へ出発した。帰っている途中、高速道路から煌びやかな工場夜景が見えて、わあっと心美が歓声を上げた。夜の深い暗闇とは対照的に、見事な光が空まで伸びていた。
まばたき一つせずに景色を丸ごと飲みこむ彼女は、彼女が彼女の視点で捉えた景色をまた、キャンバスに描きだすのだろう。
その時僕はなぜか、父のことを考えていた。
父さんはこの光を見たことがあったのだろうか。
天まで伸びてゆくようなこの美しい光の束を。
後悔はなかったのだろうか。
この世界に、やり残したことはなかったのだろうか
「恭二郎、お前にこれを託す」
最初のノートに書かれていた言葉を思い出す。
そうだ、父さんが最後に完成させたかったものを僕は知っているじゃないか。
父さんがいなくなってからの十年間、ずっと考えつづけていた。
暇さえあれば犀川を歩いて、ほんとうにクジラがいやしないかと探しつづけた。
大学3年になった春、クジラの唄が聞こえるという少女に出会った。
だけどクジラは、まだ僕たちの前に姿を見せてはくれない。
お父さん、嘘つきだねと母さんは言ったけれど、父さんがそんなくだらない嘘をつく人じゃないことを、母さんは一番に知っている。
とりとめもなく考えが湧きだしてゆくのを、止めることができない。
集中と無意識の狭間で、僕の思考は深い海の底に潜るように、しんと透き通っていた。
この三日間、心美は一心不乱に絵を描きつづけている。花川静香の絵を取り戻したことで触発されているわけでもなく、気がおかしくなっているわけでもない。
彼女は花川静香が遺した七枚の絵を、もう一セット作っている。
「わたしは、お母さんの絵を描くことができるの」
心美の叔母の家から絵を運び出し、車に積んだ三日前の夜、心美はこともなげにそう言った。ホテルに着いて、描きはじめた心美の絵を見ると、それが嘘ではないことがわかった。
心美はまっすぐにキャンバスをにらみ、絵を描きながら、美術館に展示された“猫と少女”の絵はぜんぜん描き方が違うものだと話した。
近いうちに叔母が金沢にやってくることを感じていた彼女は、美術館に母の絵とは全く違う絵を出展することを決めた。その絵を見れば、心美が花川静香の絵を描くことができるという事実に気づかれないと思ったからだという。実際、心美の叔母は絵を見て、姉の絵とは違う感じだと話していた。
なぜ僕が美術館で心美の絵を見たとき違和感を覚えたのかが、やっとわかった。すべては母の絵を取り返すために、心美がずっと考えてきたことだったのだ。
「自分を描くのって、どんな感じ?」
順調に六枚の絵を完成させていた心美だったが、最後の一枚には少し苦労していた。描き方が今までの花川静香の絵とは違ったからだろう。それでもひとつひとつ読み解いていった彼女は、もうすぐで全ての絵を完成させるところだった。
「もう一人のわたしに会っているみたい」
不思議だね、と彼女は言った。
心美がすべての絵を描き終えたのは、大晦日の夜だった。
“代わり”の絵を叔母の家へ納めた僕たちは、金沢へ出発した。帰っている途中、高速道路から煌びやかな工場夜景が見えて、わあっと心美が歓声を上げた。夜の深い暗闇とは対照的に、見事な光が空まで伸びていた。
まばたき一つせずに景色を丸ごと飲みこむ彼女は、彼女が彼女の視点で捉えた景色をまた、キャンバスに描きだすのだろう。
その時僕はなぜか、父のことを考えていた。
父さんはこの光を見たことがあったのだろうか。
天まで伸びてゆくようなこの美しい光の束を。
後悔はなかったのだろうか。
この世界に、やり残したことはなかったのだろうか
「恭二郎、お前にこれを託す」
最初のノートに書かれていた言葉を思い出す。
そうだ、父さんが最後に完成させたかったものを僕は知っているじゃないか。
父さんがいなくなってからの十年間、ずっと考えつづけていた。
暇さえあれば犀川を歩いて、ほんとうにクジラがいやしないかと探しつづけた。
大学3年になった春、クジラの唄が聞こえるという少女に出会った。
だけどクジラは、まだ僕たちの前に姿を見せてはくれない。
お父さん、嘘つきだねと母さんは言ったけれど、父さんがそんなくだらない嘘をつく人じゃないことを、母さんは一番に知っている。
とりとめもなく考えが湧きだしてゆくのを、止めることができない。
集中と無意識の狭間で、僕の思考は深い海の底に潜るように、しんと透き通っていた。
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