犀川のクジラ

みん

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4章 冬

49話

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 心美の叔母の家は、閑静な住宅街の一角にあった。

 旦那が弁護士をしているということもあり、とても立派な家であった。家の周囲は塀で囲まれていて、玄関にたどり着くためには正面にある大きな門を通らなければいけない。僕と心美は車を近くのコインパーキングに停めた。もう辺りは暗くなっていて、周辺の家には灯りがついている。
 コインパーキングから少し歩くと、家の前に到着した。
心美の叔母の家は灯りがついていないため、家の中に誰もいないことが分かる。だが、塀は高く、門は閉ざされている。たとえ人目をかいくぐって塀をよじ登ったとしても、玄関の鍵を持っていないことには、中に入ることはできないのではないだろうか。
 
 その時、心美が足を止めた。
 
 彼女を見ると、目を瞑り、深い呼吸をくり返している。彼女が空気を吐くたびに、夜の空気がピンと張りつめ、周りから音が消えてゆく。海の底まで引きずりこまれてしまうような引力が、今の彼女からは感じられた。深い、深い集中の渦に、彼女はもぐりこもうとしている。
 
 ふっと息を吐いた。
 
 地面を強く蹴る。

 宙に浮いた心美は塀の側面を二歩、トントン、と蹴って塀に手をかけた。ふわっと浮かぶように塀の上に乗ると、軽快に走り、家のサイドへと回っていく。
忍者だ。女性だとくの一か。
 あまりの速さに僕が目を丸くしていると、心美は塀の上から家の壁へ飛び移った。雨どいのつなぎ目と窓枠の部分を器用に掴むと、悠々と二階の窓まで到達した。
 心美はプロの絵描きではなく、プロの泥棒になるのかもしれない。
 僕は本気でそう思った。
 二階の窓まで到達した心美は、窓に触れようと手を伸ばした。
 窓を割る気なのか。
 心臓が脈打つ。
 窓を割って侵入するのであれば、きっと大きな音が出てしまうはずだ。もし住民に気付かれれば、一発アウトじゃないか。
 そう思ったが、心配は無用だった。
 心美が窓に触れると、簡単に窓が開いたのだ。
 彼女は家の中へと入り、窓を閉めた。
 心美がくの一となったのは一瞬の出来事だったが、幸いなことに家の前を誰かが通ることはなかった。
心美は内鍵を開けると、堂々と門の前までやってきた。

「登が窓を開けてくれてたのよ」
 彼女は本当に散歩に出かけただけみたいな顔で、息も切らさずそう言った。僕はびっくり人間ショーでも見せられていたかのような気分である。
「登って、叔母さんの息子の?」
「そう。登はわたしの弟子だから」
 心美は門を開けて僕を招き入れた後、ズボンのポケットから小さな手紙のようなものを取り出した。彼女はとても高価なものを扱うかのように大切にその手紙をひらいた。

Dear 心美姉さん

 お元気ですか。
 僕は元気です。
姉さんに学んだ絵の勉強をしたくて、美術専門学校への進学の許しを母に乞いましたが、やはり聞き入れてはもらえませんでした。
 でも大丈夫。
 絵はどこにいても描けると姉さんが教えてくれたから。
 来年高校に入ってからも、ずっと描きつづけていこうと思います。
 ときどき、夢を見ます。
姉さんの作品と並んで、僕の作品が美術館に展示されているのです。
姉さんや、父や、そして母が僕の作品を見て楽しそうに笑っていました。
現実の母は、“絵”というものをこの世でいちばんに憎んでいます。
ですが将来、僕が見た夢のように家族が笑って過ごせる日がきたらいいなとも思います。

一年前の約束を果たす日がやってきました。
今月の暗証番号は、「59877421」です。
僕の部屋から入ってください。
くれぐれも近所の人たちには怪しまれないように。

では、無事に成功することを祈っています。

From  登

とても綺麗な字だった。
中学三年生の男の子が書いた字とは思えない。
「登には才能があるわ。だけど叔母さんは登の絵を否定する。彼女自身が本当になりたかったものを、彼女はずっと否定し続けているのよ」
 心美は僕の手から手紙を受けとると、ポケットにしまった。
 そして歩き出す。
 僕は彼女の後ろをついていった。
 階段を上り、細長い廊下を進む。
 廊下の奥に扉があった。
 心美が扉を開けると、広い部屋が現れる。
 古い椅子や机、そして本などがいくつも置かれている。物置きとして使われている部屋らしく、独特の乾いた匂いがした。
 部屋のさらに奥へ進むと、また扉を発見した。
壁には数字を打ち込む機械が設置されている。
心美はポケットから手紙を取り出すと、数字をひとつひとつ入力していく。
 番号を入力し終わると、ピピッと音が鳴った。
 扉のロックが解除されたようだ。
 僕らは扉を開け、中へと入る。
まっ暗な部屋だった。
窓一つなく日の光が当たらないようになっていて、無機質な広がりを感じさせる。電気を点けると、部屋の中には高価そうな壺や皿、ブランド品などが並べられていた。
収集品を置く部屋のようだ。
部屋の奥に、ポスターサイズほどの箱が並んでいた。
六つある。
心美はほかの収集品には目もくれず、その箱に歩みよった。
「これだ」
 心美はそう言うと、並んだ箱の一つを丁寧に床に置き、封筒のマチのように巻かれた紐をほどいていく。
ほどき終わると、箱のふたをゆっくりと開いた。
 絵だった。

「桜駅」
とタイトルが付けられている。

 一両の電車が、ある駅のプラットホームへ到着する場面である。
 プラットホームにはたくさんの桜が咲いていた。
 青い車体の小さな電車は可愛らしが、たった一両しかない。
 絵全体に散りばめられた桜が、ひたすらに美しい。
 僕にはその絵が、能登にある小さな駅を描いたものだと分かった。
 ずっと昔、父に連れて行ってもらったことがあるからだ。
「久しぶりだね」
 元気だった?と心美は旧友に話しかけるようにその絵に触れていた。
 無機質な部屋に並んだ六つの箱。
 心美が僕を連れて新潟までやってきた理由。
 彼女がするべきこと。
 彼女がしなければならなかったこと。
 無機質な部屋に並べられている彼女の母親の絵を、彼女は取り返しにやってきたのだ。
 心美はそのまま箱をひとつひとつ床に並べ、ゆっくりと中を確認していく。
僕も彼女の了解を得ると、作業を手伝った。
 絵は箱から飛び出してくるかのように、全てが僕の五感に訴えかけた。絵の知識も感覚もまるで分からない素人にも、花川静香の絵は見事なものなのだと理解できた。人は新鮮な衝撃に何度も出会うと頭が回らなくなるらしく、僕は自分の脳が溶けてしまったかのような錯覚を覚えた。
 そして、最後の一枚にたどり着いた。
「お母さんが描いた“最後の七枚”のうちの六枚は、お母さんが施設に入る前に描いたものなの。だから、どんな絵なのか知ってた」
 心美は確認した絵を丁寧に並べながら、話した。
「この一枚が何を描いた絵なのか、心美は知らないんだね」
「うん。施設に入ったお母さんはもう前のお母さんとはちがってたから、これはさすがにひどい絵かもしれない」
 心美は笑おうとしたが、うまく笑えていなかった。
 怖いのだ、と僕は気づく。
 変わってしまった母の絵と対峙することが。
 花川静香の絵には五感に訴えかけてくるような衝撃があった。絵から生まれ出てくるエネルギーと見る者の感情が結びつくような、それでいて心の中がしんとするような、不思議な世界だ。
 母を失うだけではなく、母が描き、創りだした世界まで失ってしまうようで、同じ絵描きである心美にとってたまらなく怖いことなのだ。
「心美」
「うん?」
 僕は彼女に手に触れ、強く握った。
冷たくて、小さな手だった。
「きっと大丈夫だから」
 本当はその時、大丈夫かどうかなんて分からなかった。
 僕は彼女の物語に途中参加しているだけの存在で、僕が何を言ったとしても、彼女自身が進むべき道を決めるのだ。
 それは彼女に限ったことではなく、他の誰の物語であっても言えることなのかもしれない。誰かがダメだと言ったから。皆がこっちの方が良いというから。誰か?皆?その人たちは、僕らの人生の責任を取ってくれるのだろうか。ダメだったとしても、ずっと一緒にいてくれるのだろうか。
答えはきっと、ノーだ。
自分で考えずに、誰かに決められて進んだ道ではきっと、ほんとうの意味で救われることなどできない。
 幸せになることなどできない。
 それを分かっている彼女だから、こんな無茶なことをしてまでやり遂げようとしている。
 そんな彼女に僕がしてあげられることはただひとつ。
 そばにいて、「きっと大丈夫だよ」と言ってあげることなのだろう。
心美は箱に目線を落としたまま、僕の言葉にうなづいた。
 震える手で紐をゆっくりとほどくと、箱をひらいた。
 最後の一枚に描かれていたものは、人の顔だった。
 今までの作品はすべて風景画だったが、花川静香が描いた最後の一枚では、人物画が描かれていた。
 下手くそな絵だった。
 こんな絵なら僕でも書けるよ、と近所の小学生が生意気なことを言いそうだ。
 描かれた顔は左右の対称がまったく合っていなくて、ひどくいびつである。目がやけに大きく、鼻すじがまっすぐに通っている。
 だけど、大きく笑っていた。
 絵の中の彼女はとても楽しそうに、満足そうに、幸せそうな笑い声を絵の中から響かせている。
 その時、溢れだしたのは、「感情」だった。
母親が死んでからずっと閉じ込められていた、小さな女の子の「感情」である。
―あれからずっと、わたしの目から涙なんて綺麗なもの、出たことないよ
 そう言った彼女は、僕の横で、僕の手を握って大声で泣いていた。目からは溢れ出る涙をぬぐいもせずに、ただ泣きつづけた。
 悲しみ、喜び、怒り、感謝、痛み、後悔、幸福、無念、絶望、希望、そして愛。
 彼女から溢れだした感情は、人間が感じ得るすべてのものだった。僕はその声を聞きながら、ただずっとそばに居続けた。
 花川静香の最後の一枚。
 タイトル「娘」。
 今までのような繊細な筆使いではない。
それでも、一番に語りかけていた。
 溢れんばかりの愛を、ただ一人の娘に向けて。
 母は死してなお、娘の生きる世界を守りたかった。
 すべてを失った少女が生きていくための世界を、この世に残したいと思った。
 たった一枚の下手くそな絵は、ずっとずっと、この世界で生き続ける少女を守り続けていくのだろう。

 やっぱり花川静香は天才だと、そう思った。
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