犀川のクジラ

みん

文字の大きさ
55 / 56
エピローグ

エピローグ

しおりを挟む
 春。

 犀川の川辺に目を向けると、少しずつ芝や木々が色づきはじめているように感じた。目に見える色だけではない。目を閉じて、耳を澄ませば風の音や虫の声が、まるで音楽みたいに楽しげに、色づいている。
 もうすぐ桜が咲く季節がやってくる。
 そう考えると、無条件に心まで色づきはじめるのはどうしてだろうか。

「六藤、そろそろ式場に集まってくれってさ」
 背後から声がかかる。
 振り返ると、深い緑のスーツを颯爽と着こなす永井が立っていた。いつもはツンツンに尖らせている髪を、今日は流してきちんとセットしている。
「わたしまで呼ばれちゃってよかったのかな~」
 由紀の姿もあった。アイスブルーのレースドレスはシンプルだが、彼女のスタイルの良さが際立っていて、とても美しい。
 かくいう僕もとりあえず、といった感じの紺のスーツを着ていて、三人とも普段とは違う装いをしている。
「いいんだよ、ぜひ来てくれって言われているんだからさ」
 僕、永井、由紀の三人がやってきていたのは、犀川が一望できる結婚式場だった。よく手入れされた庭園は薄く光のかかった緑が広がっていて、門出を祝う場所としてはとてもふさわしいと思った。
「今さらだけどさ、あの御手洗さんと店長が結婚するなんてな」
 と言う永井の言葉に、僕は頷いた。
 僕たちが正装で、格式の高い場所にいるのには、理由がある。
 今日は十文字店長と御手洗副店長の結婚式なのだ。
 大学三年の秋頃、ときどき十文字と御手洗が二人で出かけていることがあったが、まさかこの二人が結婚するなどとは夢にも思わなかった。羽衣ちゃんと僕がときどき不思議に感じていた彼らの行動は、このことに繋がる。羽衣ちゃんは御手洗のことを本当の母親のように慕っていて、きっと彼らは良い家族になるのだろうという気がしている。

「そうかな~、わたしはお似合いやと思うけど」
 杏子さんすごく良い人だし、と由紀は永井に陽だまりのような笑顔を向けた。永井はそうかー?と納得いっていない声をだすが、由紀の笑顔を見ると優しい顔になった。それは友人としての顔ではなく、穏やかな愛を育む恋人としての顔だった。

 永井と由紀が付き合ったのは、去年の冬のことだ。
 祖父や父親の不道徳的な行動から、自分にもそんな血が流れているのだと永井はこぼした。それは事実で、永井の中にはきっと不道徳な獣が住んでいるのだろう。だけどその獣を鎖に繋がずにそのままにしておくか、きちんと繋いでおくかは永井次第なのだと思う。彼は由紀と付き合うようになってからずいぶんと落ち着いて、毎日を丁寧に生きているように見える。この先どうなるのかは僕にも、永井にも、誰にも分からないことだ。
だけど秋の夜以降、永井の指す将棋にはしっかりと守りの駒が置かれるようになった。

 それも一つの事実なのである。
 そして僕は友人として、そんな永井を信頼している。
季節はくるくると変わっていき、僕の周りにいる大切な人たちも、くるくると人生の歯車を回している。いつか止まる日が来るまで、僕も彼らも目の前の歯車を一生懸命に回すしかないのだ。結婚式場の木目の壁からは、柔らかな光がこぼれている。少し階段をのぼった先には細く糸のように水が流れていて、光を反射してきらめく。
「六藤は、四月からも十文字書店で働くんだよな」
「うん。父さんを担当していた人が僕の書いた話を読んでくれて、本にしたいって話をしてくれているから、しばらくは書店で働きながら出版の準備をすると思う」
「本当にすごいよね!六藤くん、小説家ってことやよね」
「この1年ずっと書いてたもんな、六藤、おめでとう」
 父さんの遺言からはじまった犀川のクジラの物語は、ようやく完成した。
 僕たち自身が体験したことから、想像を巡らせ、父さんの遺したノートも参考にしながら、ひとつの物語が出来上がった。
 クジラの唄、犀川に現れた巨大な骨、能登のクジラ伝説、そして僕と心美が出会った犀川のクジラ。
 そのひとつひとつが、この物語を完成させるために必要なことだった。
 森熊教授や魚住が言うには、どの現象も不思議な現象には変わりなく、科学的な説明は難しいとのことだった。森熊教授曰く、

「人間の生命というのは炭素、水素、酸素、窒素、あと少々のカルシウムなど薬局で簡単に手に入るような物質を混ぜ合わせるだけで出来ています。ですが、なぜ物質が集合しただけの物体が呼吸をし、知性を携え、他の生命を愛することができるのかは科学的に証明されていません。文明が発達したこの世界でも、科学で説明できないことなどたくさんあるのです。世の中は、正しいか間違っているかだけで回っているわけではないのですね。ほっほっほっ」
とのことだった。

 僕はクジラの中に、父さんを見た。
 僕自身は確信しているが、それは確かに科学で証明できるようなものではなく、誰かに言って信じてもらえるようなものではない。
 だけど、この世界には、まだまだ分からないことがたくさんある。
 そんな時、僕たち人間にできることは、「想像」することだ。
「想像」して、あらゆる可能性に手を伸ばしてみて、あーでもない、こーでもない、と頭を悩ませるのだ。その繰り返しが、また新たな発見を生むのだろう。
 僕はこれから、物語を作る人になろうと思っている。

 今度は父さんの遺言ではなく、自分の意志で。

「おれは四月から出版社で、由紀は市役所かー、それぞれ頑張る場所は変わるけど、犀川の会はときどき開催したいよな」
 永井の言葉に、うん、と僕は頷く。
「だけど今日、心美ちゃんが来られないのは残念やね」と由紀が僕を見る。
 僕はそうだね、と言い、式場から遠くに流れる犀川を眺める。

 心美は一年前、突然僕らの前から姿を消した。
 あの冬の旅から、少し経った後のことだった。
 心美は十文字にだけは伝えていて、行き先を聞いた僕たちは彼女に行動力に驚いた。
 彼女はいま、パリにいる。
 フランスの、パリという地がどのような場所なのか、教科書程度にしか分からない知識でしか想像することができない。ただ、日本人の中でも小さな彼女が小人族のような姿であくせくと頑張っている様子を思い浮かべると、なんだか心配になる。
 一か月に一度、月の始めに心美から手紙が届いた。
僕の心配など無下にして、手紙には心美がフランスという国で生き生きと暮らしている様子が書き綴られていた。僕はその手紙を大切に保管し、その一通一通に対して丁寧に手紙を書き、パリに送っている。

「仕方ないよ、もうすぐ大きなコンクールがあるみたいだから」
 靴ひもがほどけていることに気づき、椅子に腰かけて結び直す。心美は渡り鳥のように僕たちの前にやってきて、また羽ばたいていったのだ。
 彼女がひとつの場所に留まり続けるのは似合わない、と僕は思う。
「ま、心美ちゃんの代わりに店長たちを思いっきりお祝いしてやろうぜ」
 永井の言葉に僕たちは頷き、式場へと足を向ける。

 新郎入場の際、十文字はとても緊張していて、右手と右足が一緒に出ていた。店長落ち着いて!と永井が声をかけると、一度立ち止まり、深呼吸をした。そしてまた、ゆっくりと歩いていった。
十文字の入場が終わり、新婦の御手洗と彼女の両親が扉を開けて式場に入ってくる。
御手洗のウエディングドレス姿は、とても美しかった。
彼女も由紀に負けないくらいスタイルが良く、顔立ちが整っているのだ。普段は動きやすくシンプルな服装をしているところしか見ていないので、彼女の「本気」の美しさに僕と永井は言葉を失っていた。
そして彼女が父親とバージンロードを歩きはじめようとした時、真っ白なドレスを着た少女が、彼女たちの前に現れた。
「フラワーガールやね、可愛い!」
 由紀がはしゃいだ声を出し、カメラを鞄から取り出した。
 これは後から知ったことだけれど、フラワーガールと呼ばれる小学生くらいの女の子たちが花びらをまくことで、バージンロードが清められるそうだ。
 そしてその大役を担ったのは、羽衣ちゃんだった。羽衣ちゃんはすこし気恥ずかしそうに、だけどとても楽しそうに、花嫁を先導して歩いた。
 あの夏祭りの夜、自分のせいで母親が死んでしまったのだと羽衣ちゃんは悩み、泣いていた。小さな身体を丸めて、ひとりきりで。十文字書店の前で時々ぼーっと犀川を眺めているところを見ると、今でも完全に吹っ切れたわけではないのだと思う。だけど彼女には十文字がいて、御手洗がいて、僕たちがいる。解決できるわけではないのかもしれないけれど、話を聞くことはできる。そして、自分を想う人が側にいることがどんなに心強いことなのかを、彼女はもう知っているはずだ。
 羽衣ちゃんはもうすぐ、小学五年生になる。
―健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、妻を愛し、敬い、慰め合い、共に助け合い、その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?
「誓います」
 十文字はまっすぐ前を見て言う。
 それは神様への誓いだけではなく、亡くなった奥さんに向かって誓うようにも聞こえた。
 十文字の背中が、いつもより大きく見える。
 僕らは手と手を重ね合わせて、心からお祝いの拍手を送った。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。 その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。 全7話

入れ替わり夫婦

廣瀬純七
ファンタジー
モニターで送られてきた性別交換クリームで入れ替わった新婚夫婦の話

秘書と社長の秘密

廣瀬純七
大衆娯楽
社内の調査のため、社長・高橋健一はこっそり秘書・木村由紀と不思議なアプリで入れ替わることに。 突然“社長役”を任された由紀と、自由に動ける立場を手に入れた高橋。 ふたりの秘密の入れ替わり作戦は、どの様な結末になるのか?

性別交換ノート

廣瀬純七
ファンタジー
性別を交換できるノートを手に入れた高校生の山本渚の物語

処理中です...