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4章 さよならと新しいはじまり
番外編 ディクリーヌの恋−1
しおりを挟む「あの……お願いですから私のことは気にせず、お先にどうぞ上がってください」
「いえ。私も明日の準備があるので、おかまいなく」
カリカリカリカリ……。
時計の針が三十分進んでも、彼は帰らない。とっくに終業の時間は過ぎているのに。仕方なく席を立とうとする素振りをしてみれば、ならばと彼も帰り支度を始める。
そんな日がもうかれこれ一週間近くも続いていた。
ついにその日、堪忍袋の尾が切れて私はとうとう彼に直談判したのだけれど。
「……どうしてなんです?」
「何がでしょう?」
「とぼけないでください! もうずっとてはありませんか! なぜ私が帰るまで残るんですっ!」
彼の仕事はもうとっくに終わっているはず。いや、まぁ今日の分は、という意味だけど。残念ながらここの職場は、仕事が大量にある。よっていくらでもやろうと思えば仕事はあるのだけれど。
ノートス家の当主であるベーゼルからこの仕事を紹介された時、二つ返事で手を上げたのはそのせいだ。
父親が横領と監禁未遂、その他もろもろの罪で捕まり、男爵位に降格となったことは国中に知れ渡っている。その娘がつける仕事など限られている。
けれどここは、特別だった。『死霊の巣窟』と影で呼ばれているこの職場だけは――。膨大な仕事量と下と上からの板挟みによる精神的ストレスで、ちっとも人が居着かないいわくつきの職場。けれどそんな仕事ならまわりを気にする間もなく仕事に没頭できるし、安全な寮も食事も保証される。となれば迷いはなかった。
実際働きだしてみて、『死霊の巣窟』という言葉がこれほどぴったりくる職場もそうはないだろうと納得もした。確かにとんでもなく多忙ではあるけれど、今の私にはその方がいい。
けれどこの職場にはひとつだけ問題があった――。それがこの男、メルヴィンだった。
「……」
「……」
無言でしばしにらみ合い、そして時間だけが無駄に過ぎていく。
「メルヴィンさん……、本当になぜなんですか? なぜ私が残業する度にあなたまで残るんです? 理由を聞かせてください」
はじめは偶然かと思った。彼もただ忙しいだけなのかと。でも違った。明らかに私の帰る時間に合わせて残っているのだ。しかも何か誘いをかけてくるわけでもなく、ただ無言で寮の前で別れるだけで。
(まったくもう……! 一体何のつもりなの? 色々とちょっかいを出してくる男はいくらでもいるけど、この人の考えていることはさっぱり……!!)
この職場にいる人間は、全部で五人。
女性は私の他ここを束ねるタバサという女性ひとりきりで、それ以外は非常に寡黙で仕事はできるがちょっと変わり者がそろっていた。とはいえ、互いに親しく付き合う感じでないこの気楽さが今の私には嬉しかった。あんな父親を持った私に近づいてくる人は、大抵私の胸目当ての馬鹿男か私を嘲笑したり憐れみたい女性たちばかりだったし。
なのに、メルヴィンだけはどうにも苦手だった。
(調子、狂うのよね……。何を考えているのか本当にわからないわ……)
眼鏡の下の目からは、特にこれといった感情は感じられないし、口数も少ない。仕事ぶりは非常に真面目。少々神経質そうな雰囲気は漂わせているものの、印象は悪くない。
けれど何か企んでいるのでは、なんて思いは消えない。
警戒心を露わにしていつものように噛みついた私に、メルヴィンが珍しく口を開いた。
「……あなたは、何もかもひとりで抱え込みすぎる。悪い癖ですね。ご自身のためにもまわりのためにもあらためたたらどうです?」
「なっ……! あなたに私の何が分かると言うんです……!」
この職場にきてまだたったの三ヶ月。この男に何が分かるのかとついムキになった。
こんなに感情的にムキになることなんて滅多にないのに、なぜかメルヴィンといるとそんな気持ちになる。
「私のことはどうか放っておいてください! 私とあなたの仕事は別ですし、別に私はまったく無理をしていませんし抱え込んでもいません! ……というか、ここの人たちで仕事を抱え込んでいない人なんてひとりもいないじゃありませんか!」
「……仕事のこともそうですけど、その他についてですよ」
「……他って。……一体何のこと……」
そう言いかけて、ふと口をつぐんだ。
もしかしてこの男は、あのことを言っているのだろうか。いや、この人が知っているはずはない。だってそんなところ見られたことなんてないはずだ。
けれどもし知っているのだとしたら――。
「少なくとも先月に三回。今月に入ってからはすでに二回、被害にあわれていますよね? なのにそのことを上司のタバサ女史にも相談せず、何の対策も練るでもない。ただじっと時が過ぎ去るのを待っているだけだ。……なぜです?」
「それは……」
実のところここしばらく、何度となくつきまとい被害にあっていた。犯人は同じ階で働いているとある男で、しつこく私の帰宅時間などに姿を現しては食事に誘ったりつきまとったりしてくる。とはいえ、今のところ直接何かされたということもないのだけれど。
「……あの程度のことひとりでなんとかできます。これといって何かされたわけでもなし、大げさにしたくないんです……」
もし私が騒ぎ立てれば、きっとノートス家の皆は私のためにあれこれ動いてくれるのは分かっていた。だからこそ大事にしてこれ以上の迷惑をかけたくない。
「助けを求めていいんですよ。あなたは理不尽な目にあって嫌な思いをされているんですから。大声で助けを求めてもよし、タバサ女史にかけあうもよし。あの人なら多分即座に向こうの職場に殴り込んで退治してくれるはずですよ」
確かにタバサならやりそうだ。見た目はひっつめ髪に銀縁眼鏡、釣り上がり気味の鋭い目が冷たそうにも見えるけれど、部下に関してはあれでいてとても責任感が強いから。
けれど、それとこれとは話が別だ。あくまでプライベートの話であって、職務中に何かあったというわけではないのだから。
「……別に今のところ実害はありませんし、自分でなんとかできます。……私のことなんて、放っておいてください」
「『私のことなんて』ですか……。やっぱりあなたはしょうのない人だ」
その言い方にカチンときた。しょうのない人とはなんだ、しょうのない人とは。
思わずキッとメルヴィンをにらみつけ、席からガタンと勢いよく立ち上がった。
「帰ります! ……失礼します!!」
振り返りもせず、仕事場を後にする。そしていつものように周囲を警戒してみたけれど、どうやら今日はあの男は待ち伏せしていないらしい。ほっとして女子寮へとたどり着き、疲れた体をベッドに投げ出した。
(……何なの。あの人! 本当にイライラする……! 私のことなんて、放っておいてくれたらいいのに……!!)
なぜだろう。メルヴィンの目を見ると心がざわついて落ち着かない。なぜそう感じるのかはよく分からないけれど、できることなら一緒に長くいたくない。そう思った。心の中を見透かされるような、隠しておきたい気持ちを全部読み取られそうなそんな気持ちになるから。
そして私はうとうとと眠りの中へと落ちていったのだった。
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