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1 最悪な結末
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おろしたてのスカートの裾が激しさを増した雨でみるみる濡れていくのを、呆然と見下ろしていた。足を踏み出すたびに軽やかにひるがえるはずの布が、ずっしりと重い。
拓人に会うのは、二ヶ月ぶりだった。仕事が忙しいという恋の終わりのテンプレみたいな理由で何度も約束をすっぽかされ続けて、やっと会えたと思ったら浮気していたと知らされたのはほんの数分前だ。
久しぶりのデートがまさか別れ話だなんて皮肉だ。浮き立っていた少し前の自分を殴ってやりたい。
震える拳を握りしめ、先ほどから黙り込んだままこちらの出方を伺っている拓人に鋭い視線を向けた。
「私と結婚したくないって言ったのは、本当はそれが理由? 他に好きな人がいるから? だからずっと私と会うのを避け続けてたの?」
拓人は、もめ事が嫌いで基本的に人を信用していない。だから誰にも深入りせずに同僚とすらろくに付き合わず、一人の行動を好んだ。例外は、恋人である自分だけ。もっともべたべたした付き合いは好まなかったから、デートも互いの家で食事をしてゲームをしたり静かに読書を楽しんだりといった、刺激のない穏やかなものだった。
でも私も穏やかな付き合いを望んでいたから、それが居心地良く感じてもいたのだ。でも、そんな拓人だからこそまさか浮気をされるなんて思ってもいなかった。
久しぶりに会うなり鳴り出した拓人のスマホから漏れ聞こえてきたのは、若い女のキンキンとした怒鳴り声だった。
『私あなたと一晩中ホテルで一緒にいたのよ。なのに何もなかったなんて絶対に言わせないわ』
久しぶりに会って今日は何を食べようか、映画を観るのもいいし疲れているようならのんびり月見でもしながら一杯やるのも悪くない。そんな呑気なことを考えていた私の耳に、そんな声が聞こえてきたのだ。
「そうじゃない! 本当に俺はやましいことは何も……。どうしても一度だけ話を聞いてほしいって言われて一杯だけ酒に付き合ったら、気がついたら隣に相手が寝てて。本当に何も覚えてないんだ……」
拓人の口からはそんな言い訳しか出てこなかった。
本人も驚いた様子で呆然としていたから、もしかしたら本当に酔い潰れでもして記憶にないのかもしれない。でも少なくとも気のある相手と酒を飲みに行き、同じホテルに泊まったことは紛れもない事実であるらしい。
拓人は、私の視線から逃げるように顔をそらした。
そもそもやましいとは、一体何を指すのか。少なくとも自分に気があると分かっている相手とふたりきりで会っていたのは事実だ。恋人である私とは会う時間を惜しんだのに。なのにやましいことはないなんて、よく言えたものだ。
「重役の娘だし揉め事になるのは避けたくて、それで適当にあしらってたんだ。うまくあしらってたつもりだけど、まさかこんなことになるなんて……。本当に何も覚えてないし、手を出した記憶もないんだ」
拓人の顔は真剣だった。もしかしたら相手の女の策略にはまって陥れられただけかもしれない、と少しは思う。でも。
「揉めたくないからって優柔不断な態度で気を持たせた自分には、まったく罪はないっていうの? そんな態度が相手を追い詰めたのかもしれないとは思わないの?」
「……」
拓人は押し黙った。
拓人の感情をむき出しにしない穏やかなところが好きだった。人間嫌いで誰も信用していなくて、口数も少ないしわかりやすい愛情表現も滅多になかったけど、私に向ける眼差しはいつも優しくて。それがまるで自分だけ特別な存在だって言われている気がして、嬉しかった。
でも、拓人はある時から変わった。そう――、私が結婚の二文字を口にしてから。
『結婚はしたくない。意味があるとは思えないし、少なくとも今は考えられない。まだ急ぐような年でもないだろ。……それにお互い仕事だって乗ってきたところだし、本当にしたくなったらいずれタイミングがくるだろ』
そう言って、頑なに結婚話を拒否し続けてきたのだ。別に私だってどうしてもすぐに結婚したいというわけではなかったし、焦るほどの年でもない。今は仕事に集中したい気持ちもあった。だからなんてことないという顔をして、その後は結婚の二文字を匂わせないようにまるで腫れ物に触るように付き合いを続けてきた。でも拓人は少しずつ私と距離を置き始めた。まるで二人の間に見えない線を引くみたいに。
まるで自分が結婚するに値する人間ではないと却下されたような気になって、それ以来ずっと拓人の顔を真っ直ぐに見られなくなった。そっと顔色を伺ってでもいつか捨てられるんじゃないかといつも不安で、当たり障りのない会話で時間をつなぐ。ただ惰性で続いているだけの、不毛な恋。それが私たちの関係だった。
何かがカチリ、と壊れる音が心の中からした気がした。気がついたら口から言葉がこぼれていた。
「……もう私たち、ダメだと思う。拓人は私と一緒にいることを避けてるし、会いたくもないんでしょう? 好きなら会う時間をなんとかして作ろうとするだろうし、結婚だって……」
「……だからそれは。タイミングが」
タイミング。この言葉を今まで何度聞いただろう。
結婚はタイミングだと言うけれど、そのタイミングは何も働きかけしなくても空から急に降ってくるようなそんな偶発的なものなのか。そんなわけはないだろう。お互いにその気がほんのわずかでもあるから、ちょっとした出来事をきっかけに結婚へと歯車が回りだすんだろう。
私たちには、その気がまったくといっていいほど端からなかった。いや、少なくとも拓人にはなかった。だからそんなタイミングなんて、どんなに待っても訪れるはずもなかったのだ。
「タイミングなんてこの先もやってこない。だって拓人は私と一緒にいることを望んでないもの。この先もこんな関係をずるずる続けたって何になるの? 結局は拓人は私のことも面倒になったんでしょう。私と関わり合うのが。信用だって、してないんでしょう? ……もう別れよう、私たち」
一息にそう言うと、拓人と私の間に深い深い沈黙が落ちた。
拓人にこの関係をどうしても続けたい思いがあったのなら、私への愛情が残っていたなら、きっと引き止めるなり抱き寄せるなり何がしかの反応があっただろう。でも、拓人はいつものように困ったような顔で視線を戸惑わせて、眉間に皺を寄せているだけだった。
それが答えだと思った。
「私は……選ばれたかった。私じゃなきゃ嫌だって、私が必要だって。拓人にとってその他大勢なんかじゃなくて、特別な信じてもらえる絶対になりたかった……。でも拓人にとって私はそういう相手じゃなかったんだよ」
ぽたぽたとスカートの裾から雨粒が落ちる。せっかくオシャレしてきた格好も、念入りにしたメイクももうドロドロだろう。別れ話をするなんて分かっていたら、もっとどうでもいい格好をしてくればよかった。なんなら年季の入ったスウェットでもいい。
四年も続いた恋の終わりは、こんなにみじめなものだろうか。不毛な恋は終わり方も不毛なんだろうか。
「最後にひとつお願いがあるの。……一発殴らせて」
「……えっ? 殴……?」
このまま終わるのもなんだか癪だった。しっかりと浮気をされた以上、拓人の有責であることは間違いない。ならば、一発くらいパンチをお見舞いするくらい許されるだろう。
「歯を食いしばってっ!」
「うえっ……? いや、ちょっと待て……」
そうして、うろたえる拓人の前に両足を開き踏ん張ると、渾身の力を右の拳に乗せて勢いよく突き出した。
ゴリッ!
雨の音に混じって、鈍い音がした。渾身の力を込めて叩き込んだはずの拳だったが、雨ですべってぬるっとした鈍い感触と音を立てて拓人の頬にめり込んだ。
「……じゃあね」
ダメージを与えられなかった割にはじんじんと痛み続ける拳をさらにぎゅっと握りしめ、私は拓人に背を向けた。
こうして私の不毛な四年に渡る恋は、終わりを告げたのだった。
拓人に会うのは、二ヶ月ぶりだった。仕事が忙しいという恋の終わりのテンプレみたいな理由で何度も約束をすっぽかされ続けて、やっと会えたと思ったら浮気していたと知らされたのはほんの数分前だ。
久しぶりのデートがまさか別れ話だなんて皮肉だ。浮き立っていた少し前の自分を殴ってやりたい。
震える拳を握りしめ、先ほどから黙り込んだままこちらの出方を伺っている拓人に鋭い視線を向けた。
「私と結婚したくないって言ったのは、本当はそれが理由? 他に好きな人がいるから? だからずっと私と会うのを避け続けてたの?」
拓人は、もめ事が嫌いで基本的に人を信用していない。だから誰にも深入りせずに同僚とすらろくに付き合わず、一人の行動を好んだ。例外は、恋人である自分だけ。もっともべたべたした付き合いは好まなかったから、デートも互いの家で食事をしてゲームをしたり静かに読書を楽しんだりといった、刺激のない穏やかなものだった。
でも私も穏やかな付き合いを望んでいたから、それが居心地良く感じてもいたのだ。でも、そんな拓人だからこそまさか浮気をされるなんて思ってもいなかった。
久しぶりに会うなり鳴り出した拓人のスマホから漏れ聞こえてきたのは、若い女のキンキンとした怒鳴り声だった。
『私あなたと一晩中ホテルで一緒にいたのよ。なのに何もなかったなんて絶対に言わせないわ』
久しぶりに会って今日は何を食べようか、映画を観るのもいいし疲れているようならのんびり月見でもしながら一杯やるのも悪くない。そんな呑気なことを考えていた私の耳に、そんな声が聞こえてきたのだ。
「そうじゃない! 本当に俺はやましいことは何も……。どうしても一度だけ話を聞いてほしいって言われて一杯だけ酒に付き合ったら、気がついたら隣に相手が寝てて。本当に何も覚えてないんだ……」
拓人の口からはそんな言い訳しか出てこなかった。
本人も驚いた様子で呆然としていたから、もしかしたら本当に酔い潰れでもして記憶にないのかもしれない。でも少なくとも気のある相手と酒を飲みに行き、同じホテルに泊まったことは紛れもない事実であるらしい。
拓人は、私の視線から逃げるように顔をそらした。
そもそもやましいとは、一体何を指すのか。少なくとも自分に気があると分かっている相手とふたりきりで会っていたのは事実だ。恋人である私とは会う時間を惜しんだのに。なのにやましいことはないなんて、よく言えたものだ。
「重役の娘だし揉め事になるのは避けたくて、それで適当にあしらってたんだ。うまくあしらってたつもりだけど、まさかこんなことになるなんて……。本当に何も覚えてないし、手を出した記憶もないんだ」
拓人の顔は真剣だった。もしかしたら相手の女の策略にはまって陥れられただけかもしれない、と少しは思う。でも。
「揉めたくないからって優柔不断な態度で気を持たせた自分には、まったく罪はないっていうの? そんな態度が相手を追い詰めたのかもしれないとは思わないの?」
「……」
拓人は押し黙った。
拓人の感情をむき出しにしない穏やかなところが好きだった。人間嫌いで誰も信用していなくて、口数も少ないしわかりやすい愛情表現も滅多になかったけど、私に向ける眼差しはいつも優しくて。それがまるで自分だけ特別な存在だって言われている気がして、嬉しかった。
でも、拓人はある時から変わった。そう――、私が結婚の二文字を口にしてから。
『結婚はしたくない。意味があるとは思えないし、少なくとも今は考えられない。まだ急ぐような年でもないだろ。……それにお互い仕事だって乗ってきたところだし、本当にしたくなったらいずれタイミングがくるだろ』
そう言って、頑なに結婚話を拒否し続けてきたのだ。別に私だってどうしてもすぐに結婚したいというわけではなかったし、焦るほどの年でもない。今は仕事に集中したい気持ちもあった。だからなんてことないという顔をして、その後は結婚の二文字を匂わせないようにまるで腫れ物に触るように付き合いを続けてきた。でも拓人は少しずつ私と距離を置き始めた。まるで二人の間に見えない線を引くみたいに。
まるで自分が結婚するに値する人間ではないと却下されたような気になって、それ以来ずっと拓人の顔を真っ直ぐに見られなくなった。そっと顔色を伺ってでもいつか捨てられるんじゃないかといつも不安で、当たり障りのない会話で時間をつなぐ。ただ惰性で続いているだけの、不毛な恋。それが私たちの関係だった。
何かがカチリ、と壊れる音が心の中からした気がした。気がついたら口から言葉がこぼれていた。
「……もう私たち、ダメだと思う。拓人は私と一緒にいることを避けてるし、会いたくもないんでしょう? 好きなら会う時間をなんとかして作ろうとするだろうし、結婚だって……」
「……だからそれは。タイミングが」
タイミング。この言葉を今まで何度聞いただろう。
結婚はタイミングだと言うけれど、そのタイミングは何も働きかけしなくても空から急に降ってくるようなそんな偶発的なものなのか。そんなわけはないだろう。お互いにその気がほんのわずかでもあるから、ちょっとした出来事をきっかけに結婚へと歯車が回りだすんだろう。
私たちには、その気がまったくといっていいほど端からなかった。いや、少なくとも拓人にはなかった。だからそんなタイミングなんて、どんなに待っても訪れるはずもなかったのだ。
「タイミングなんてこの先もやってこない。だって拓人は私と一緒にいることを望んでないもの。この先もこんな関係をずるずる続けたって何になるの? 結局は拓人は私のことも面倒になったんでしょう。私と関わり合うのが。信用だって、してないんでしょう? ……もう別れよう、私たち」
一息にそう言うと、拓人と私の間に深い深い沈黙が落ちた。
拓人にこの関係をどうしても続けたい思いがあったのなら、私への愛情が残っていたなら、きっと引き止めるなり抱き寄せるなり何がしかの反応があっただろう。でも、拓人はいつものように困ったような顔で視線を戸惑わせて、眉間に皺を寄せているだけだった。
それが答えだと思った。
「私は……選ばれたかった。私じゃなきゃ嫌だって、私が必要だって。拓人にとってその他大勢なんかじゃなくて、特別な信じてもらえる絶対になりたかった……。でも拓人にとって私はそういう相手じゃなかったんだよ」
ぽたぽたとスカートの裾から雨粒が落ちる。せっかくオシャレしてきた格好も、念入りにしたメイクももうドロドロだろう。別れ話をするなんて分かっていたら、もっとどうでもいい格好をしてくればよかった。なんなら年季の入ったスウェットでもいい。
四年も続いた恋の終わりは、こんなにみじめなものだろうか。不毛な恋は終わり方も不毛なんだろうか。
「最後にひとつお願いがあるの。……一発殴らせて」
「……えっ? 殴……?」
このまま終わるのもなんだか癪だった。しっかりと浮気をされた以上、拓人の有責であることは間違いない。ならば、一発くらいパンチをお見舞いするくらい許されるだろう。
「歯を食いしばってっ!」
「うえっ……? いや、ちょっと待て……」
そうして、うろたえる拓人の前に両足を開き踏ん張ると、渾身の力を右の拳に乗せて勢いよく突き出した。
ゴリッ!
雨の音に混じって、鈍い音がした。渾身の力を込めて叩き込んだはずの拳だったが、雨ですべってぬるっとした鈍い感触と音を立てて拓人の頬にめり込んだ。
「……じゃあね」
ダメージを与えられなかった割にはじんじんと痛み続ける拳をさらにぎゅっと握りしめ、私は拓人に背を向けた。
こうして私の不毛な四年に渡る恋は、終わりを告げたのだった。
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