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2 駄犬と番犬
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こんな時は、仕事をするに限る。没頭してしまえば時間は早く過ぎるし、余計なことを考えずに済む。しかもお誂え向きに今は大きなプロジェクトを控えていた。仕事は山程ある。今日ばかりは山積みの仕事に感謝したい気分だった。
「おはよー……ん? 灯里。その目、なんかあった?」
さすが長い付き合いの同期だ。泣き腫らしたことなどお見通しか。
ため息をついて、興味津々といった顔でこちらの様子を伺う都の顔を見やった。
「殴って別れた。いや、捨てた」
「誰を? え! まさかついにあの駄犬と別れたの?」
いや、駄犬ってなんだ。確かに風貌は愛想のない犬っぽいかもしれないが。
「ついに浮気されちゃったから、もういいかなって思って。顔面にパンチして捨ててきた」
「へぇ。そっかそっか! まぁ私から言わせればやっとって感じだけどねぇ。ま、良かったじゃん。少しはすっきりした? それともやっぱり寂しい?」
キーボードの上で休みなく動いていた指が、ピクリと止まる。
曲がりなりにも四年という年月を恋人という位置づけで過ごしてきたのだ。良い記憶も悪い記憶も数え切れないほどあるし、散々冷たい扱いを受けた上浮気されたとはいえ、それでも好きだから付き合ってきたのだ。寂しいといえば寂しい。でも口が裂けても今はそんなこと言いたくない。
口をぎゅっと真一文字に引き結んだまま固まる私の頭を、都がため息交じりにぽん、と叩く。
「でもよく決心したよね。もう一生あの駄犬の飼い主でいる気なのかと思ったよ。いいと思うよ。その決断」
「……うん」
都にはきっと私の心の内なんて、お見通しだろう。ずっと決断できずに流され続けるダメな私をそばで見続けてきたのだから。やっと出した答えにお墨付きをもらえて、少しは気が楽になる。
「祝いにパーッと飲みに行くか……と言いたいとこだけど、当分無理かなぁ。でもこの仕事が片付いたらさ、ちょっと奮発していいとこに飲みに行こう! お姉さんがごちそうしちゃる!」
さすが姉御肌、なんと太っ腹! と返したら思い切り背中を叩かれた。痛い。うめき声を上げて机に突っ伏していると、聞き覚えのある低い声が頭の上に振ってきた。
「友井さん、この書類のチェックお願いできますか」
すらりとしたスーツ映えする体格に端正な顔立ちの男が、そこに立っていた。
「あ、ああ。桐野くん、おはようー……」
普段の私なら朝から眼福だとにっこり笑って挨拶したに違いないが、いかんせん今日の私はひどい顔だ。メイクでは到底隠しきれないまぶたの腫れと目の下の隈、取り繕えないほど暗澹たる表情で微笑みでもしたら、怖がられるに違いない。
相手の視線からあえて逃げるように、うつむき加減で書類を受け取る。
「うん、了解。あ、そうだ。桐野くんさ、明日の打ち合わせ先方の都合で午後に変わったから他の人にも連絡しておいてもらえる?」
「わかりました。……よかったらこれどうぞ」
コトリという小さな音とともに、ココアの缶がデスクに置かれた。触れてみるとまだあたたかい。
「間違えて買ってしまったので、ご迷惑でなかったら飲んでください。……じゃあ」
それだけ言うと、桐野はすたすとと立ち去っていった。
そのすらりとした無駄な肉ひとつない背中を見送る。
桐野は、やや無愛想で無口ではあるが四才年下の我が社の期待の星である。恐ろしく仕事もできるし、女性陣からの評判もいい。主に容姿の面で。同じプロジェクトのメンバーとしてとても頼りになるし、時々こうしてさりげなくぐっとくるような気遣いを見せてくれるのだ。これでモテないわけがない。
はなから私に差し入れるつもりで買ったのだろうと、遠ざかる背中に苦笑する。
自販機のココアの並びは全部甘い物ばかりだ。甘いものが苦手な桐野が、ボタンを押し間違えるわけがない。なんと気のつく後輩だろうか。そして遠目でも気づかれるくらい自分がひどい顔をしているのだろうと、うんざりもした。
缶のあたたかさに、思わず深い溜め息が零れる。
「相変わらず桐野は目ざといねぇ。年下だけど、次の候補としてありじゃない? 仕事もできるし気も利くし、顔もいいし背も高い。文句なしでしょ」
通りかかった都が、ココア缶に気づいて冷やかす。これが誰からもらったものかすぐに気がつく辺り、都こそ相変わらず目ざとい。
「候補って何の?」
「次の恋に決まってるじゃないの。そうすれば駄犬も近寄らなくなるでしょ。あんなに頼りになりそうな番犬がそばにいたらさ」
なぜ駄犬から番犬に乗り換えるみたいな話になっているのかと、じっとりとした目で都をにらむ。別に私は犬を飼いたいわけではない。いや、犬を飼いたいか飼いたくないといったらもちろん飼いたいけど。犬好きだし。
「犬はいらない。人間がいい。フレンドリー過ぎるのは嫌だけど、誰も信じられなくて警戒心バリバリじゃない人。あ、あとあちこちマーキングして歩かない人」
「ぶっ! マーキングって……。ま、案外幸せは身近に転がってるもんよ。気楽にいきな、気楽にさ。あんたは難しく考えすぎなのよ」
幸せがそのへんに転がってたら苦労はしないよとため息をつきながら都の激励を聞き流し、どんよりと沈み込む気持ちに蓋をしてパソコンのディスプレイに向き直った。
とにかく今は仕事だ。私には仕事がある。
都のやれやれという視線を感じながら、それを振り切って猛然と山のような仕事に取り掛かった。
◇◇◇◇
それまで当たり前だった日常が変わるというのは、ストレスを感じるものだ。恋の終わりも、そのひとつ。が、拓人と別れて一週間が過ぎても、私の生活は特段変わりなかった。以前とまったく変わり映えのしない、ある意味ノンストレスな休日を過ごしていた。
「よっと……! 洗濯もおしまいっ」
一週間分の洗濯ものを猫の額ほどのささやかなベランダに干し終わると、一週間分の食材の買い出しにでて、何品か惣菜を作り置きする。お弁当用に小さく小分けにして冷凍しておくのも忘れない。
決して給料が良いとは言えないこのご時世だ、節約は必要である。もともと料理は得意ではないがそこまで嫌いではないし、浮いたお金で洋服の一枚も買えると思えば安いものだ。
「こんなもんかな……。あとは、動画でも見るかなぁ」
特に趣味らしきものはない。人並みに本も読むし、アニメや音楽も嫌いではない。でもものすごくはまっているものが何かあるかというと、特にはない。強いて言えば動物が好きだけれど一人暮らしではペットを飼うのは難しいし、一人で動物園なんかに行くのもちょっと気が引ける。となると、休日に動物の癒やし動画を見るくらいが関の山だ。
「四年の恋が終わったっていうのに、ルーティンがまったく変化なしっていうのもどうなのよ。デートもずっとすっぽかされてたし、たまに会っても家でご飯食べて数時間で解散とかさ。清すぎでしょ……。そりゃ別れるわ……」
今思えば、よく四年も続いたものだと驚く。今となっては好きだったのかどうかさえ怪しい。もちろんはじめからこんなに淡々とした関係だったわけじゃない。それなりに盛り上がった時期もあったし、一秒も離れていたくないと思った時だってあった。なのにーー。
あれ以来拓人から連絡はない。浮気が本気だったのか、それとももう私との関係なんていつ終わってもいいと思っていたのか。
「四年も一緒にいたのにな……。そんなに私って魅力ないかな。家事能力は人並みにあるし、料理だってそれなりにするし、節約だって……」
拓人は頑なに結婚したくない、結婚する意味がわからないと繰り返すばかりで、その理由を語ろうともしなかった。私と向き合うのを避けるように約束をすっぽかし続けたのも、私が愛想をつかして別れを切り出すのを待っていたのかもしれない。
「……やっぱり私がそこまでして結婚したくない相手ってことだよね、きっと」
別に本気で今すぐどうしても結婚がしたかったわけじゃない。お互い仕事が忙しくなってきて会う時間を捻出するのが難しくなっていたから、ただそれだけだったのだ。
自分は結婚相手として拓人に選ばれない。その事実だけが目の前に突きつけられた。そしてそれはもとから自分に自信があるわけではない私を、これでもかというくらいに打ちのめし傷つけたのだった。
「おはよー……ん? 灯里。その目、なんかあった?」
さすが長い付き合いの同期だ。泣き腫らしたことなどお見通しか。
ため息をついて、興味津々といった顔でこちらの様子を伺う都の顔を見やった。
「殴って別れた。いや、捨てた」
「誰を? え! まさかついにあの駄犬と別れたの?」
いや、駄犬ってなんだ。確かに風貌は愛想のない犬っぽいかもしれないが。
「ついに浮気されちゃったから、もういいかなって思って。顔面にパンチして捨ててきた」
「へぇ。そっかそっか! まぁ私から言わせればやっとって感じだけどねぇ。ま、良かったじゃん。少しはすっきりした? それともやっぱり寂しい?」
キーボードの上で休みなく動いていた指が、ピクリと止まる。
曲がりなりにも四年という年月を恋人という位置づけで過ごしてきたのだ。良い記憶も悪い記憶も数え切れないほどあるし、散々冷たい扱いを受けた上浮気されたとはいえ、それでも好きだから付き合ってきたのだ。寂しいといえば寂しい。でも口が裂けても今はそんなこと言いたくない。
口をぎゅっと真一文字に引き結んだまま固まる私の頭を、都がため息交じりにぽん、と叩く。
「でもよく決心したよね。もう一生あの駄犬の飼い主でいる気なのかと思ったよ。いいと思うよ。その決断」
「……うん」
都にはきっと私の心の内なんて、お見通しだろう。ずっと決断できずに流され続けるダメな私をそばで見続けてきたのだから。やっと出した答えにお墨付きをもらえて、少しは気が楽になる。
「祝いにパーッと飲みに行くか……と言いたいとこだけど、当分無理かなぁ。でもこの仕事が片付いたらさ、ちょっと奮発していいとこに飲みに行こう! お姉さんがごちそうしちゃる!」
さすが姉御肌、なんと太っ腹! と返したら思い切り背中を叩かれた。痛い。うめき声を上げて机に突っ伏していると、聞き覚えのある低い声が頭の上に振ってきた。
「友井さん、この書類のチェックお願いできますか」
すらりとしたスーツ映えする体格に端正な顔立ちの男が、そこに立っていた。
「あ、ああ。桐野くん、おはようー……」
普段の私なら朝から眼福だとにっこり笑って挨拶したに違いないが、いかんせん今日の私はひどい顔だ。メイクでは到底隠しきれないまぶたの腫れと目の下の隈、取り繕えないほど暗澹たる表情で微笑みでもしたら、怖がられるに違いない。
相手の視線からあえて逃げるように、うつむき加減で書類を受け取る。
「うん、了解。あ、そうだ。桐野くんさ、明日の打ち合わせ先方の都合で午後に変わったから他の人にも連絡しておいてもらえる?」
「わかりました。……よかったらこれどうぞ」
コトリという小さな音とともに、ココアの缶がデスクに置かれた。触れてみるとまだあたたかい。
「間違えて買ってしまったので、ご迷惑でなかったら飲んでください。……じゃあ」
それだけ言うと、桐野はすたすとと立ち去っていった。
そのすらりとした無駄な肉ひとつない背中を見送る。
桐野は、やや無愛想で無口ではあるが四才年下の我が社の期待の星である。恐ろしく仕事もできるし、女性陣からの評判もいい。主に容姿の面で。同じプロジェクトのメンバーとしてとても頼りになるし、時々こうしてさりげなくぐっとくるような気遣いを見せてくれるのだ。これでモテないわけがない。
はなから私に差し入れるつもりで買ったのだろうと、遠ざかる背中に苦笑する。
自販機のココアの並びは全部甘い物ばかりだ。甘いものが苦手な桐野が、ボタンを押し間違えるわけがない。なんと気のつく後輩だろうか。そして遠目でも気づかれるくらい自分がひどい顔をしているのだろうと、うんざりもした。
缶のあたたかさに、思わず深い溜め息が零れる。
「相変わらず桐野は目ざといねぇ。年下だけど、次の候補としてありじゃない? 仕事もできるし気も利くし、顔もいいし背も高い。文句なしでしょ」
通りかかった都が、ココア缶に気づいて冷やかす。これが誰からもらったものかすぐに気がつく辺り、都こそ相変わらず目ざとい。
「候補って何の?」
「次の恋に決まってるじゃないの。そうすれば駄犬も近寄らなくなるでしょ。あんなに頼りになりそうな番犬がそばにいたらさ」
なぜ駄犬から番犬に乗り換えるみたいな話になっているのかと、じっとりとした目で都をにらむ。別に私は犬を飼いたいわけではない。いや、犬を飼いたいか飼いたくないといったらもちろん飼いたいけど。犬好きだし。
「犬はいらない。人間がいい。フレンドリー過ぎるのは嫌だけど、誰も信じられなくて警戒心バリバリじゃない人。あ、あとあちこちマーキングして歩かない人」
「ぶっ! マーキングって……。ま、案外幸せは身近に転がってるもんよ。気楽にいきな、気楽にさ。あんたは難しく考えすぎなのよ」
幸せがそのへんに転がってたら苦労はしないよとため息をつきながら都の激励を聞き流し、どんよりと沈み込む気持ちに蓋をしてパソコンのディスプレイに向き直った。
とにかく今は仕事だ。私には仕事がある。
都のやれやれという視線を感じながら、それを振り切って猛然と山のような仕事に取り掛かった。
◇◇◇◇
それまで当たり前だった日常が変わるというのは、ストレスを感じるものだ。恋の終わりも、そのひとつ。が、拓人と別れて一週間が過ぎても、私の生活は特段変わりなかった。以前とまったく変わり映えのしない、ある意味ノンストレスな休日を過ごしていた。
「よっと……! 洗濯もおしまいっ」
一週間分の洗濯ものを猫の額ほどのささやかなベランダに干し終わると、一週間分の食材の買い出しにでて、何品か惣菜を作り置きする。お弁当用に小さく小分けにして冷凍しておくのも忘れない。
決して給料が良いとは言えないこのご時世だ、節約は必要である。もともと料理は得意ではないがそこまで嫌いではないし、浮いたお金で洋服の一枚も買えると思えば安いものだ。
「こんなもんかな……。あとは、動画でも見るかなぁ」
特に趣味らしきものはない。人並みに本も読むし、アニメや音楽も嫌いではない。でもものすごくはまっているものが何かあるかというと、特にはない。強いて言えば動物が好きだけれど一人暮らしではペットを飼うのは難しいし、一人で動物園なんかに行くのもちょっと気が引ける。となると、休日に動物の癒やし動画を見るくらいが関の山だ。
「四年の恋が終わったっていうのに、ルーティンがまったく変化なしっていうのもどうなのよ。デートもずっとすっぽかされてたし、たまに会っても家でご飯食べて数時間で解散とかさ。清すぎでしょ……。そりゃ別れるわ……」
今思えば、よく四年も続いたものだと驚く。今となっては好きだったのかどうかさえ怪しい。もちろんはじめからこんなに淡々とした関係だったわけじゃない。それなりに盛り上がった時期もあったし、一秒も離れていたくないと思った時だってあった。なのにーー。
あれ以来拓人から連絡はない。浮気が本気だったのか、それとももう私との関係なんていつ終わってもいいと思っていたのか。
「四年も一緒にいたのにな……。そんなに私って魅力ないかな。家事能力は人並みにあるし、料理だってそれなりにするし、節約だって……」
拓人は頑なに結婚したくない、結婚する意味がわからないと繰り返すばかりで、その理由を語ろうともしなかった。私と向き合うのを避けるように約束をすっぽかし続けたのも、私が愛想をつかして別れを切り出すのを待っていたのかもしれない。
「……やっぱり私がそこまでして結婚したくない相手ってことだよね、きっと」
別に本気で今すぐどうしても結婚がしたかったわけじゃない。お互い仕事が忙しくなってきて会う時間を捻出するのが難しくなっていたから、ただそれだけだったのだ。
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