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3章

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 ――鳥の声が聞こえる。

 ああ、幸せだ。そう思った。だって今俺がいるのは。

「ようやく止まったみたい、鼻血。気持ち悪くない? メリル」

 リフィの優しい声が、上から降ってくる。
 その幸せに、酔いしれていた。

 リフィがそばにいる。こんなに近くに。

 しかも、俺の頭はリフィの膝の上にある。こんな幸せがくるなんて、思っても見なかった。
 夢を見ているのかもしれない。そう思うくらい、幸せで。

 だから、自然と口から言葉がついて出た。
 心の中でずっとずっと願っていた言葉が。

「リフィ……?」
「なぁに?」

 優しいリフィの声が、降ってくる。

「俺……、過去も今も未来も、リフィと一緒がいい。この先の人生も、ずっとリフィと一緒がいいんだ。だから、俺と婚約をやり直してほしいんだ。許してもらえるように、何度でも頭を下げに行くから……」

 自分の言っていることが、求婚以外の何物でもないことにしばらくして気がついて。

「……あっ! えっと、今のは……あの……」
「えっ?」

 いくらなんでも唐突すぎる、ロマンチックなシチュエーションとかそんな欠片もないこんなタイミングでまさか求婚なんて、と自分に驚く。
 もっとこう、花束とか指輪とかちゃんと用意してさ。

 何もこんな鼻血を出してぶっ倒れてるみっともない状況で求婚なんて最悪じゃないか、と頭を抱えそうになる。

 でも。
 いや、求婚すればいいじゃないか。

 ふと思い直す。

 好きだってようやく打ち明けて、リフィからも好きだって言われて舞い上がって、鼻血を出してぶっ倒れて。
 滅茶苦茶カッコ悪いけど、でもこれが俺なんだ。カッコ悪いのなんて、今さらだ。

 なら――。


 俺はがばり、とリフィの膝から飛び起きて、しっかりとリフィの目を見つめて向き直った。

「リフィッ!」
「はっ、はいっ!」

 リフィが突然飛び起きた俺に、目を丸くして驚いている。

「俺は、リフィを幸せにするためになんでもする。きっとこれからも俺はカッコ良くなれないし、不器用で口下手なままだろうけど、でも一生かけて君を幸せにできるよう努力する。だから、俺と結婚してください!」

 婚約者だったリフィに好きだとも言えずにデートにも誘えず、五年もの時間を無駄にしたばかな男だ。

 でも、誰よりもリフィのことが好きな気持ちだけは自信がある。
 その思いだけは、絶対に絶対に誰にも負けない。それだけは、誰よりも自信があるんだ。
 だから。

 鼻の穴にハンカチを詰めた情けない姿のまま、俺はあらためてリフィに求婚した。

 そして、その答えは――。



 リフィはまだ涙でキラキラ濡れた目をまん丸にしながら、顔をさらに真っ赤に染め、そして。

「……はい! 喜んで!」

 リフィの顔に花開くような満面の笑みが広がった。
 それは、満開のミコノスの花よりもずっとずっときれいで、とてもかわいかった。

 その瞬間のリフィを、俺は死ぬまできっと忘れないとそう思ったんだ――。





 少し日の陰りはじめた森を、皆のいる方へと二人で歩いていく。
 そろそろガーデンパーティもお開きの時間だ。

 気持ちが通じ合ったてもやっぱり、俺とリフィは言葉少なで。でも手はそっとつながれているあたりは、大きな進歩だと思うんだ。

 それに以前は会話がないとどこか焦ってしまっていたけれど、今はこの沈黙すら心地良い。

 幸せを噛み締めながら、そっと隣を歩くリフィの顔をうかがえば。

「……っ!」

 ばちりと視線が合って、互いに顔を真っ赤に染めてうつむいてしまう。

「あ、あの、さ……。今度、デートに誘ってもいいかな?」
「う、うん……! もちろん! 嬉しい……。楽しみに待ってる……!」

 なんだかくすぐったいな、すごく。
 世の婚約者同士っていうのは、皆これを普通にしているのか。すごいな。

 そんなばかなことを考えながら、二人並んで歩く一歩一歩を噛みしめる。


 そこに聞こえてきた聞き覚えのある声に、俺は顔を上げた。

「おーいっ! メリル、リフィちゃぁん!」

 遠くでリードが、ぶんぶんと大きく手を振っていた。

「うまくいったんだなっ! 良かったなぁ!」

 きっとあの様子じゃ、皆に顔を見せるなと言われたことなんてすっかり忘れているに違いない。やっぱりリードはリードだよな。

 少し心配になって隣のリフィを見てみれば、その顔には薄っすら嫌そうな色が浮かんでいて。

「……くくっ! 実は今日のこのパーティの招待状は、リードとあの時一緒にいた友だちが皆で協力して手に入れてくれたんだ。今度リフィにも紹介するよ。皆良い奴ばかりだから、リフィもきっと気にいる」

 思わずリフィの表情に笑いをこらえられなくて吹き出すと、リフィの頬がぷくっとふくらんだ。

 そのかわいさに一瞬鼻の奥が熱くなった気がして、慌てて鼻を手で覆う。

「っ! もしかして、また鼻血?」

 リフィが慌てて手で俺の鼻を押さえる。

「いや、……大丈夫。多分……」

 まさかリフィがかわいすぎてつい鼻血を吹きそうになったとも言いにくくて、俺は苦笑するしかない。

 よく見ればリードの後ろには、リフィと一緒にいたあの青年もやれやれといった顔をして立っていた。
 俺たちの話が終わるのを、邪魔しないようにずっと待っていてくれたんだろう。

 つまりまぁ、あれだ。
 すべては単なる思い込みとか、ちゃんと大切な相手に向き合わなかったことからくるすれ違いだったってことだ。

 こうしてちゃんと話をしてみれば良かったんだ。ずっと目の前に、その大切な誰かはいるんだからさ。

「……リフィ?」
「なぁに?」

 一瞬足を止めて、リフィに向き直る。

 きょとんとした顔をして同じく足を止めたリフィは、そのきれいな薄茶色の目をこちらに真っ直ぐに向けている。

「あらためて、これからもよろしくお願いします。大好きだよ、リフィ」

 そう言うと、リフィの頬がさらに赤く染まった。

 そして、嬉しさを抑えきれないように口元を緩めてはにかむと「はい。こちらこそ。……私も大好きです」なんて言葉が帰ってきて。

 その顔がとびきりかわいくて、愛しくて。
 その言葉が嬉しくて夢みたいで、また鼻の奥がツンとして。


 初めて会ったあの時、リフィの小さなちょっと冷たい手を握った時に感じたように。

 守るよ、ずっと。
 たとえ無力でも、不器用でも、カッコ悪くても。


 見つめ合う俺とリフィを、遠くでリードが冷やかしている。
 その声に苦笑する俺とリフィの周りを。


 ふわり、とミコノスの花の甘い香りが辺り一帯に吹き抜けた気がした。



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