王子としらゆき

秋月朔夕

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第三十五話 王子が浮かれている本当の理由をしらゆきは知らない

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 書類仕事をするからと秘書を追い出し執務室に一人になったことを確認して、椅子に座るとわたしは口元を緩めた。
  ――ようやく雪乃を手に入れたのだ。
 (浮かれたってしかたないじゃないか)
  今回は身体だけじゃない。きちんと彼女の意思だってある。
 (嗚呼。なんと甘美なことか……)
  記憶がなくなったって彼女は私のしらゆきだ。私だけの――
 求め続けてきた存在が手中にある幸福感はなにごとにも例えることはできないが、しいていうならば極上のワインに酔いしれた時の高揚感に似ているのかもしれない。
  ――ずっと雪乃が欲しかった。
  彼女にすごいって思われたくて勉強もスポーツも身なりだって気を配ってきた。
  ――ただ雪乃に好かれたくて。
  他の女なんていらない。私が求めていたのはしらゆきだけなのだから。そのためにお姫様に相応しい王子さまになろうって決めたのだ。
 (なのに彼女は私を選ぼうとはしなかったが……)
  無理やり身体を繋いでも、閉じ込めても、結婚を迫っても、なにをしても私だけのモノにならない雪乃が愛おしくて憎らしい。いっそのこと金や権力に弱い女だったら良かったのに。彼女になら金のなる木だと思ってくれても構わない。どれだけでも貢ぐとしよう。だけど、残念ながら雪乃はそんなタイプの女ではなかった。
  懐柔しようにも彼女は涙を流して私を拒む。真珠のような粒は美しくても、嫌がっているのだと表明される結晶はなによりも私の心をかき乱していく。一体どうすれば、彼女が手に入るというのか。ただ私の傍にいて笑ってさえくれれば、それでよかったのに。それなのに彼女は私を選ばないで、あんな凡庸な男を選んだ。私に見せることがなくなった笑顔をアイツに向けている雪乃を何度脳内でめちゃくちゃに犯していたことか。本当はすぐにでも引き離したかったのに、予想以上に強い父の監視が私を阻む。だから、私は報告書を見ているだけ。どんどん雪乃があの男に気を許していく姿を写真で見るだけで、胸が業火の炎で焼き尽くされてしまうような苦しみを味わった。そうしてやっとの想いで帰国したのに、彼女はもう他の男に抱かれた後だった。
 (私のしらゆきなのに)
  憎しみで人を殺せるのならば、とっくにアイツの命はないだろう。感情に身を任せて何度この世から消し去りたいと思ったことか。けれど、そうしたら今度こそ雪乃は心を閉ざしてしまうだろうから。そんなことくらい分かっているから脅すしか出来なかった。私を愛さない雪乃が悪い、と結論づけて彼女を縛り付けていたけれど、本当は彼女の抵抗の一つ一つが矢となり私を襲った。だから、記憶がないと分かった時あれほどまでに嬉しかったのだ。 これで、もう一度やり直せると。
  実際私の目論見はほとんど上手くいった。そうして、やっと手に入れたのだ。
 (今度こそ離してなどやるものか)
  ――例え雪乃に記憶が蘇ってしまおうが、もう遅い。
  机の上には彼女がサインした婚姻届がある。彼女の柔らかな字を撫でれば、嬉しさがこみ上げてくる。
  緩む頬を抑えて、雪乃がなにをしているかパソコンで彼女の様子を伺うとマンションには彼女の姿が映らなかった。
 「雪乃……?」
  部屋の至る所にあるはずのカメラが雪乃を映さない。
 (どうして……)
  雪乃は逃げたのだろうか――そんなことは許されることではないのに。
  私は急いでマンションに戻ろうと会社を出ようとした。もしも、本当に抜け出したとしたら彼女に逃走させないために金品なんて与えていないのだから、なんらかのモノを持ち出すはずだ。そのことを確認したい。途中、水沢が慌てて私を呼び止めようとしたが、私の必死の形相に声を掛けてくることはない。けれどひどく困った顔をしていたので、仕方なく歩調を緩めないまま今後の予定の指示だけは出してやる。恐らくここが会社ではなければ、とっくに駆け込んでマンションまで急ぐことができたのに、こういう時に邪魔をする肩書きがひどく煩わしかった。






  今日、役所に婚姻届が提出される。その事実がなんだか気恥ずかしくて意味もなく部屋をうろうろ歩き回る。いつもなら、鷹夜を見送って寝室で眠っている時間も色んなことを考えてしまうせいか寝付くことができない。そもそもこういう時に広い部屋に居ては余計に落ち着かない。
 (そうだ、狭い所に行こう)
  マンションの中を歩き回ってようやく見つけることが出来た理想の場所はウォークインクローゼットだった。
 (ここならいいか)
  もしも誰かに見られれば床に転がるわたしに驚かれるかもしれないけど、ここに住んでいるのはわたしと鷹夜だけだ。その彼も今は仕事でいない。
 (少しだけ)
  鷹夜の服がぎっしりと詰まったクローゼットは少しだけ寂しさを癒してくれる。それに床の冷たさが心地よくて、横になると落ち着く。
  ――そうしていつしかわたしは眠りの世界に旅立った。


 「ゆきのっ!」
  突然、乱暴に扉が開く音が聞こえて起きた。
 (鷹夜?)
  そんなに眠っていたのだろうか。時計もないこの場所では今何時か知ることはできない。けれど、瞼の重さが確かにいつもより酷くて、時間が過ぎたことをわたしに知らせてくれる。彼らしくもなく荒々しい足音に力の加減なく開き閉めされるドアの音。
 「どこだっ、どこにいる!」
  聞いたこともない彼の低い声に、怒られると思ってクローゼットから出る勇気が湧かなかった。だけど、いくらわたしが出ていく気がなくても、彼の足音はもう近い。すぐに鷹夜がやってきてわたしを見つけると安堵からか大きく息を吐いた。
 「雪乃、どうしてこんなところにいたの?」
  ごめんなさい、と小さく謝るとわたしの存在を確かめようと痛いくらいに抱きしめる彼の手が震えていることに気付く。
  ――その時、わたしの頭に残像がよぎった。
 「ねぇ、鷹夜」
 「うん?」
 「…………前にもこんなことなかった?」
  その時、確かに鷹夜は言葉を失った。
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