上 下
19 / 25

19.じいちゃん!

しおりを挟む
 それで気づいた。おれの足もふくらはぎより少し上の方まで水に浸かっていた。

「友樹、動けるか?」
「動けない。動いたら、倒れる」
 友樹は青ざめた顔で言った。

 水が増えている。水の流れもさっきよりずいぶん速くなっているのだった。

 もう、おれたちの力だけでは無理みたいだ。

「愛音」
 おれは覚悟を決めた。
「なに?」
「いっしゅん、目、つぶってくれ」
「え?」
「おれがいいって言うまで目をつぶってくれ! 頼むから!」
 愛音はむっとしたようにおれを見ていたけれど、真剣なのに気づいたみたいだった。わけがわからない、という顔をしながらも、だまって目を閉じた。それを見届け、おれは言った。

「頼む!」
「おう!」
 鼻毛が黒い風となって飛び出した。一直線に友樹に向かい、その体にぐるぐると巻きついた。

 友樹の体が水しぶきを上げて宙を舞い、靴を脱いだところまで戻った。鼻毛がおれの鼻に戻るのを確認し、
「愛音、もういいぞ」
 声を上げた。愛音は目を開いた。はっとして、
「……友樹君は⁉」
「おーい、ここだ!」
 ずぶ濡れの友樹が手を振った。
「どうなってるの⁉」
 おどろいたみたいに言ったけれど、返事はしなかった。

 とにかく、ここから離れなきゃ。

 ゆっくりと腰を上げた、その時だった。
「守君、あぶない!」
 愛音の声がした、と思ったら、ずるっとすべって全身が水の中に引き込まれた。

 水の塊が襲ってくる。わけのわからないまま頭が石に当たった。

 愛音の声が聞こえた気がした。

 それでもめちゃくちゃに手を動かし、顔を上げようとした。けれども水の塊が右から左から、上から下からおそってきて、どこが上なのかわからない。

 何かに手が触れた気がした。それをつかもうと必死になって動かした。けれどもそれは、指の間をすり抜けて行ってしまった。

 それで、パニックになった。

 めちゃくちゃに腕を動かした。口を開いたら空気ではなくて水が入り込んだ。

 助けて!

 気がついたらそんなことを思った。

 誰か!

 そのときだった。



 古い家がまぶたの裏に浮かんだ。



 亡くなったじいちゃんの家の縁側だった。
 小さな庭には池があり、そのにごった水の中に、大きな鯉が何匹もゆっくりと泳いでいた。幼かったおれはじいちゃんのひざの上にすわり、その上にはスケッチブックがあった。
「お前の名前は、じいちゃんがつけたんだぞ」
 そう言って、じいちゃんは、青いクレヨンで「まもる」と、書き、となりに、「守」と、書いた。角ばった大きな字だった。
「いつもだれかに守られてるんだぞ、おまえは」
 じいちゃんは、笑った。
「だからおまえも、大切な人を守ってあげるんだぞ」
 いきなり場面が変わった。

 じいちゃんが、社の前で手を合わせる後姿が見える。

 それは、「蛤神社」。じいちゃんの家の近くにある小さな神社だった。願いが叶う、というので有名らしかった。
 じいちゃんは両手を合わせ、目を閉じて祈った。

「私が死んだ後、子供たちをお守りください。孫たちをお守りください。幸せに生きられるように見守っててください」

 じいちゃん!

 強く思ったときだった。

 今まで水にもぐっていた顔がぐっと引き上げられた。
 言ってみれば、つり上げられた魚のような。

 そう。鼻毛だった。

 ロープのような鼻毛はまっすぐ遠くの木の枝に巻きつき、リールを巻くようにおれの体が水から引き揚げられた。
 おれは両手でその真っ黒な鼻毛をつかんでしがみついた。

「あ、ありがと」
 思わず礼を言った。けれども鼻毛は返事をしない。
「おい、鼻毛」

「愛音が!」
 鼻毛の硬い声がした。
「おまえを助けようとして水に飲まれた」
しおりを挟む

処理中です...