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夕方。
執務室の窓から、柔らかな光が差し込んでいる。
カイゼルは書類に目を通しながら、ペンを走らせていた。
コンコン、と控えめなノック。
「入れ」
扉がそっと開く。
エアリスだ。
手には、小さな皿。
今日も、調理室でもらったのだろう。
とことこと歩いてきて、机の上に置く。
『きょう けーき』
「……そうか」
少しだけ口元が緩む。
「座れ」
隣の椅子を軽く引く。
エアリスはこくりと頷き、ちょこんと座る。
フォークを持ち、ゆっくりと一口。
その様子を横目で見ながら、カイゼルも仕事を進める。
静かな時間。
それでも、心地いい。
⸻
しばらくして。
ふと、視線を感じる。
「……どうした」
顔を上げると――
エアリスが、こちらを見ていた。
何か言いたげに。
でも、迷っているように。
「……?」
小さく首を傾げるカイゼル。
エアリスは、ぎゅっとフォークを握る。
それから――
そっと、口を開く。
「……か……」
「?」
空気が、わずかに張り詰める。
エアリスの喉が、かすかに震える。
「……か、い……」
カイゼルの手が止まる。
ペン先が紙の上で止まったまま。
視線が、ゆっくりとエアリスへ向く。
「……」
エアリスは俯きながら、それでも続ける。
逃げずに。
「……かい、ぜ……」
息が、浅い。
それでも――
「……る……さま……」
――静かに、言葉が落ちた。
⸻
時間が、止まる。
カイゼルは、一瞬――
何も言えなかった。
ただ、見ている。
目の前の存在を。
「……今、」
かすれた声。
「……言ったのか」
エアリスは、びくっと肩を震わせる。
でも――
逃げない。
ゆっくりと、顔を上げる。
そして。
こくり、と頷いた。
「……っ」
カイゼルの胸の奥が、強く揺れる。
今まで。
何度も、筆談で呼ばれてきた名前。
当たり前のように見ていた文字。
それが――
エアリスの“声”になった。
「……もう一度、言えるか」
思ったよりも、優しい声が出た。
エアリスは少し緊張したように息を吸う。
指先が、わずかに震えている。
それでも。
「……かい、ぜる……さま」
今度は、さっきより少しだけはっきりと。
確かに、届いた。
カイゼルは、ゆっくりと立ち上がる。
エアリスの前に立つ。
そのまま――
そっと、頭に手を置く。
「……よく、頑張ったな」
低く、優しい声。
エアリスの目が、じわりと潤む。
「……っ」
言葉にならない。
でも、伝わる。
「……無理はするな」
そっと、額に触れる。
「少しずつでいい」
こくり、と頷くエアリス。
「……でも」
ほんの少しだけ、目を細めるカイゼル。
「また、聞かせてくれ」
その言葉に。
エアリスは――
小さく、でも確かに笑った。
「……かいぜるさま」
今度は、迷いなく。
⸻
静かな執務室に。
その声は、やわらかく響いた。
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