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第十話 ちはやぶる
しおりを挟む舎人とやらに案内されて東四足門から邸に入ると、せせらぎの音が聞こえてきた。
見ると、小さな川が殿舎の間を縫うように走っている。
南側の白砂を敷き詰めた庭園の池に注ぐのだ。
足を止めると、舎人が、鬼は知るまいが、とばかりに鑓水だと口にした。
人の住む邸にもかかわらず神聖な場所のように感じられるのは、その建築方式からだろう。
しかも優美だ。あらためて工匠の技に感嘆する。
東の渡殿から弦の調べが風に乗って流れてくる。
邸の前に立ち、改めてその美しさ、柱の太さに目を見張った。
すべてをこの目に焼き付けようとしたが、足を踏み入れた途端、色鮮やかな屏風や几帳に目を奪われ、芳香に意識を奪われた。
姫が現れたときには、息をすることも忘れた。
姫は着飾った幾人ものおなごを連れていた。
昔、おばばが話してくれた竜宮とはこのようなものかと思った。
有紋の織り込まれた、雪の下と呼ばれる重ね色の装束――これは、あとからヨシが自慢気に説明してくれた――に身を包んだ姫は、天上人に見えた。
われにかえったイダテンは思わずわが身に目をやった。
借り物の衣に隠れてはいたが、この下には紅い毛に覆われた腕と足がある。
そして隠そうにも隠せない真っ紅な髪が。
――姫が一段高い場所に座った。あれが畳という物であろう。
かたわらには、眉間にしわを寄せた老臣の姿があった。
頭は白く、やや細面の顔に髭を蓄えている。
灰青色の地に黒く染めぬいた紋は交差した羽根だ。
直垂に腰の太刀。この邸に仕える侍だろう。
その老臣がイダテンに目をやり、唖然とした表情になった。
おなごたちは一様に扇で顔を隠していた。
姫のかたわらに控えている三十歳前後のおなごが顔色を変え、震え始めたのがわかった。
ほかのおなごたちも鬼の子を前にして怯えてはいたが、それとは明らかに様子が違う。
震える手から扇がこぼれ落ちたことにも気づかぬ様子で、唇を震わせ、空気を欲しがる魚のように開け閉めしたあげく、ようやく悲鳴のような声を絞り出した。
「その装束は、その紋は――」
*
女房の梅ノ井が言葉を失うのも無理はない。
気がつけば忠信も呆けたように口を開けていた。
黒橡色の地に浅紫色の藤の下り紋を透かしのように織り込んだその苞は、まごうことなく主人の家の物だった。
朝廷で、この色の装束を着ることが許されているのは一握りの公家だけだ。
しかも、そこに織り込まれた紋は、この世の最高実力者を出し続けている摂関家のものである。
その装束を、こともあろうに、鬼の子が身につけているのだ。
むろん新しく仕立てたものではない。
この家には嫡男がいないからだ。
つまり、この邸の主人の装束を、鬼の子の体に合わせて仕立て直したということだ。
そのようなことを思いつき、なおかつ実行できる者は、たった一人しかいない。
「姫様、戯れが過ぎますぞ」
名指しされた姫は、のんびりとしたもので、目もとを薄桃色にそめ、瞳を潤ませ、イダテンの姿をうっとりと眺めている。
「思ったとおりです。まるで神代に迷い込んだような……」
扇を口元に、小首をかしげるように忠信に同意を求めた。
「そのように思いませんか、忠信」
ため息をこらえることができなかった。
いつもであれば、じいと呼ぶところだ。
何か含みがあるに違いない。
「……また、そのように、のんきなことを。阿岐権守様に知れましたら、どのようなお叱りを受けることか」
「使わぬものは手放して、誰かの役に立つほうが良いではありませんか」
姫は、優雅に微笑みながら涼やかな声で答えた。
――胆が冷えた。
間違いない。
これは姫にとって、戯れなどではない。
姫は、阿岐権守であり父である男の都への未練に気がついている。
その上で、官位の象徴である装束を手元に置かぬほうがよいと言っているのだ。
自分は、この地にとどまりたいという宣言でもあるのだろう。
さらに、忠信のことを普段とは違う呼び方をすることで皆に印象付けたのだ。
忠信にとって、どこに出しても恥ずかしくない自慢の姫だった。
見目形は言うにおよばず、書や歌、楽の才に加え、男の学問である漢文の素養もある。
そして、その才を鼻にかけることもなく、慎み深く清らかに育ってくださった。
そう思っていた。
――が、やはり、姫もおなごなのだ。
認めたくはないが、年とともに強かになっていく。
*
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