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第二十九話 平穏な日々
しおりを挟むおばばの遺言などなくても、人と交わるつもりはなかった。
しかし、姫の提案を断ることなどできそうになかった。
姫が親族から借りたという書物が目の前に積み上がっている。
いずれも建築に関する書物だ。貴重なものであることは、老臣の様子からも見て取れた。
むろん、鬼の子に見せる、などとは言わなかっただろう。
むさぼるように読んだ。正しくは見た。
図だけを眺めてもすべてを理解することはできない。
悔しいが、読めない文字も理解できない言葉も算術もあった。
持ちだせないと聞き、姫にもらった紙に書き写した。
紙は高価なので小さな文字で、ちまちまと書いた。
人からものを教わるなど、考えたこともなかったが、すべてを理解したいという誘惑には勝てなかった。
読み書き、算術を学ばねば、これらを理解することなどできない。
持読とやらを受け入れるほかあるまい。
帰り際に老臣が一言つけ加えた。
「作りたいものがあれば材料や道具はこちらで用意する。遠慮なく申しでよ」
思ってもいなかった提案だった。
その日以来、毎日夢を見るようになった。
父と母の、あの夢だ。
骨と皮になりながらも仏に感謝して手を合わせるおばばの姿だ。
見慣れたはずの夢にもかかわらず、異様なほどの寝汗をかいた。
食うに困らず、襲ってくるものはおらず、学びたいことを学べ、平穏な日々が続く。
これこそが、イダテンの望んでいた暮らしのはずだった。
にもかかわらず落ち着かなかった。心がざわついて仕方がなかった。
人は、これを――このような気持ちを言葉にするのだろうか。
「怖ろしい」と。
*
出入り口の板戸が派手な音をたてた。
勢いにまかせて閉めた三郎をヨシが叱っている。
市に買い物に出かけていた三郎たちが帰ってきたのだ。
イダテンも誘われたが、まわりが怯えるだけだと断った。
なにより、邸に足を運び、建築関係の書物に目を通しておきたかった。
学ぶということが、これほど面白いとは思わなかった。
「イダテンー。見て! 見てー!」
ミコが洗った足も乾かぬうちに、駆け寄ってくる。
「ほらー。イダテンとおなじだよー!」
鮮やかな赤い紐で括った黒い髪の毛を指差す。
「それから、それから」
手に持っていた下駄を掲げて見せる。
赤い鼻緒がついている。
「おそろいなの」
「家の中で履くと言ってきかぬのじゃ」
「だって、土の上ではいたら、よごれるもの」
「イダテンに見せたんだから、もう土間に置きなさい」
ヨシの言葉にも、
「だめーっ、明日までだめ。そばにおいてねるの」
と、言いながら、
「ねえねえ、これも買ってもらったんだよー」
と、鬼灯色の衣を羽織り、ぐるぐると回った。
「わしはこれじゃ。おまえにと選んでみた。色目もなかなかのものであろう」
包みを広げると、黒に近い濡羽色と竜胆色の大きな布に加え、手甲や脛巾に加え括袴まであった。
これを使えば髪の毛だけでなく腕や足も隠せよう。
人のいるところに出ても目立たないようにという配慮だろう。
「それから、おかあからだ」
「数は少ないのですが」
と、差し出されたのは紙の束だった。
姫がくれた物に比べれば質は悪い。
それでも、紙そのものが贅沢品なのだ。ずいぶんと高かったに違いない。
「このようなものは受け取れぬ」
三郎は、
「相変わらずじゃのう」
と、いいながら続けた。
「おまえの作った、釣瓶車ひとつで、どれだけここの暮らしが楽になったことか……忠信様から礼として銭と布も出た……おおっ、ほれほれ、そのような顔をする。どうせおまえは受け取るまいと、われらに渡されたのだ」
三郎たちが礼を受け取ったことに不満があったのではない。
むしろ驚いたのだ。
自分が作ったものに対価を払おうという者がいることに。
「自分たちの暮らしに役立てるがよかろう……とでも思っているのであろう」
三郎は声音を変え、眉根を寄せ、口をへの字に結んでみせた。
イダテンの真似らしい。
そして、表情を崩し、お前の考えなどまるわかりじゃ、と背中を叩いてきた。
「見くびるなよ、イダテン。わしが、あっという間に出世して、暮らしを楽にして見せるでな」
「親孝行の子を持って幸せだねえ。ミコも、長者様に嫁いで楽にしてくれると言うし」
水をくぐったであろう衣をたたみ直しながら機嫌よく笑うヨシの後ろで、ミコが困ったような表情を浮かべている。
三郎が、ちらりとその様子をうかがった。
*
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