ちはやぶる

八神真哉

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第五十二話  脱出

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得物を手にした黒い影が立ち塞がっていた。
気がつくと足が止まっていた。

吠えようとしたができなかった。
鋭い眼光に射すくめられ、足がすくんだのだ。
逆光なのだから眼光など見えるはずもないが、そう見えた。

一歩も動けなかった。
目の前のモノは人の形はしているが人ではない。
月の光を浴びた紅く長い髪の毛が、風もないのに広がった。
まるで生きてでもいるかのように。
いつの間にか尻尾を丸めていた。

その時、指笛が鳴った。
攻撃の合図だ。
痺れを切らしたのだろう。

その音が呪縛から解き放った。

     *

犬たちが尻尾を腹の下に丸め、情けない声を上げながら引き返したのを見てイダテンは手斧を下ろした。
寒さに震えていたにもかかわらず全身に汗をかいていた。
先ほどの鎧武者に続いて戻らなければ、さすがに矢が降り注いできただろう。

じりじりと包囲を狭めていた兵たちも予想外のことに動きを止めている。
自分たちが相手にしているのは鬼であったということを改めて思い出したに違いない。

足もとに縄の束が転がっていた。
落ち延びてくる者があれば、このあたりに追いこみ、足でも引っ掛けようと考えていたのだろうか。

その縄の束をほどき、武士の残した弓と矢を交差させるように結んでいく。
出来上がった物から伸ばした縄を馬の鞍に繋ぎ、手綱を木からほどいて尻を突いた。

馬は、縄と弓矢で作った仕掛けを引いて勢いよく飛び出した。
それは六間も後方のすすき野をざわざわと揺らした。
それを目がけて大量の矢が放たれた。

息を整え、背中の姫がじっとしていることを確認すると、方向を変えて思いきって跳び出した。
月の光を浴びた鴇色の雅な袿の袖がひるがえる。

すべての兵を騙すことはできなかったようだ。
二の矢をつがえた者もいたのだろう。
唸りをあげて矢が飛んできた。

かまわず腕を振り、地を蹴り、全力で突き進んだ。
 何人かの敵と、鉢合わせをしたが、頭上を跳び越え、横をすり抜け、すすきが原をあっという間に駆け抜けた。

すぐに、馬のいばえも遠くなり、飛んでくる矢が減った。
どうにか振り切ったようだ。

だが、追手たちもあきらめたわけではない。
振り返ると馬に乗った伝令たちが四方八方に散っていくのが見えた。
おそらく要所、要所に人は配置しているだろう。
逃げ込む先はわかっているのだから。

それでも姫を生かして、そこにたどりつかせると面倒なことになる。
阿岐権守同様、邸で謹慎してきた馬木の隆家に軍勢を繰り出す口実を与えることになるからだ。

隆家にしても、ささらが姫が生きていればこそ、
「謀反を起こしたのは海田の宗我部国親である。叔父である馬木の隆家が後見に立ち、凶党、宗我部を鎮圧するために兵を挙げる」
と、いう名目が立つ。

左大臣と言えど、隆家側の言い分を聞かざるを得まい。
様子見をしていた近隣の土豪も味方につくだろう。
宗我部側から離反する者も出るだろう。

だが、たとえ姫を擁しても、隆家が討たれれば宗我部の言い分が通るだろう。

どちらが正しいかではない。
勝った者が正しいのだ。
理由など、あとからつければよい。
戦とは、歴史とはそうしたものだ。

勝てば都に返り咲くきっかけとなろう。
あるいは勝ってのち都に帰ることをあきらめ、この地に定住すれば、宗我部にとって代わり、この地の棟梁となることもできよう。

いずれにせよ、姫は、隆家にとっての飾りとなる。
だが、姫を救う道はそれしか残っていない。

イダテン一人なら、馬よりも早く走ることができる。
姫を背負っても負けはせぬだろう。

だが、足首も万全ではない。
体力も落ちていた。
馬が入って来れない径や、獣道などを選んで走ったことで負担も増した。
足が重くなり、息も乱れてきた。

鬱蒼とした木々に囲まれた、溜池横の御堂の前で腰を下ろそうとした、その時――突然、その戸板を突き破って、矛が伸びてきた。
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