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第五十六話 根絶やし
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――小さな角笛を素早く口に咥えた。
こんなことではないかと橋を渡る前に用意しておいたのだ。
息を送り出すと空気が震えた。
じりじりと囲みを狭めてきた郎党たちの足がわずかに止まる。
兼親は眉をひそめ、イダテンの動きに備えている。
人の耳には、ほとんど聞こえぬはずだが気配は感じたようだ。
口から笛を取り出し、兼親に声をかける。
「このあたりが、なんと呼ばれているか知っておるか」
それを聞いた兼親は、にやりと笑った。
「狼が淵であろう。二年ほど前に、われらが根絶やしにしてくれたわ」
イダテンは、兼親の言葉が終るのを待たず、縄のついた手斧を小さく振り回し始めた。
兼親は、イダテンが勝負に出ると見て、
「おう!」
と、大太刀を構えた。
郎党たちにも緊張が走る。
手斧を投げつけられると思ったのだろう。
だが、イダテンの手を離れた手斧は、天に向かって飛び、欅の大木の枝に巻きついた。
「……その報いを受けるが良い」
姫に、「捕まっていろ」と、声をかけると、
幹に足を掛け、縄を手繰り、駆け登った。
空に消えたのではないかというほどの俊敏さに、誰一人対応できなかった。
兼親の後ろにいた若い郎党の一人が何かを察したのか、あわてて矛を捨て、近くにあったブナの木に登り始めた。
奥の草むらから獣と思われる気配が伝わってきて初めて、兼親たちも、ようやくイダテンが何らかの手を打ったことに気がついた。
が、すでに手遅れだった。
それは音もたてず跳びかかった。
その牙で郎党たちの喉笛を切り裂き、武器を握った手首を食いちぎった。
二匹の影が交差するたびに、立っている者の数が減った。
月が翳り、姿が見えなくなると脅えが増幅した。
矛や太刀を振るう音の中に、鎬を削る音が混じる。
恐怖のあまり闇雲に矛や太刀を振るい、同士討ちを始める者まで現れたのだ。
狼たちは、吠えもせず唸りもせず、静かに確実に郎党たちの数を減らしていく。
やがて鎬を削る音も途絶え、郎党たちのうめき声と狼の息遣いだけになった。
その時、わずかに月の光が注いだ。
それが命運を分けた。
兼親はかろうじて体をひねり牙から逃れた。
のどには赤い筋がつき、血の玉が湧いている。
さらに雲が流れ、あたりが明るくなると郎党の矛の切っ先が狼を捕らえた。
狼は腰のあたりを突かれ、声も上げず、地面に落ちた。
イダテンは、姫を乗せた負子を安定の良い二股の枝の上に降ろし、縄で幹に固定した。
姫は不安そうな目をしたが、無駄な口はきかなかった。
眼下では、残った一匹が郎党に襲い掛かっていた。
のどを守ろうとするその腕に噛み付き、振り回す。
郎党が激痛に耐えかね倒れても、気が収まらぬとばかりに引きずった。
だが、それが油断を生んだ。
兼親が、「おのれ」と声を上げ、左から大太刀を浴びせると、狼は、その場に崩れ落ちた。
襲われた郎党は、ぴくりとも動かない。
残ったのは兼親ただ一人だ。
イダテンは足をかばい、縄を伝って地面に降りると狼の倒れた場所まで急いだ。
喉元が黒い。帳だった。
前足から腹まで裂かれている。
枯草を踏みしだく音に振り向くと、肩で息をする兼親が立っていた。
分厚い胸にも大太刀を握る丸太のような腕にも、先ほどまでの力強さはない。
「おのれ、卑怯な……獣を使うか」
その後ろに人影が立った。
五尺六寸はあろう若い郎党が太刀を抜いて歩み寄る。
狼の唸り声を聞いて木に登った男だ。
危険が去ったと見て、降りてきたのだろう。
木陰の下に入り表情が見えなくなった。
「おお、小太郎、生きておったか」
兼親は、一瞬振り返り、喜びをあらわにしたものの、すぐにイダテンに視線を戻した。なかなか用心深い。
「狼さえおらねば、しょせんこわっぱ。わけなく退治できよう。おまえは右に……」
兼親の巨躯が、がくりとぶれた。
すとんと落ちて片膝をついた。
何が起きたかわからないのだろう。
目の焦点も合っていない。
その目が、ようやく自分の腹から突き出た赤く光る物を捕えた。
それは血に濡れた太刀の切っ先だった。
それが小太郎と呼んだ郎党の太刀だと気づいた兼親の顔に驚きが浮かんだ。
「なぜだ……」
声を絞り出す兼親の問いに若者が答えた。
「なにを驚いておる。目をかけてやったとでも思うておるか」
返り血を浴びた、その端正な顔にはいびつな笑みが浮かんでいた。
「冥土の土産に教えてやろう」
若者は、後方から、顔を兼親の耳元に寄せると、小さく息を吸い込み、ささやくように口にした。
「わしの本当の名を」
兼親の目が泳ぎながらも、その若者の姿を追った。
髭が震えていた。
「わしの名は阿部小太郎義光あべこたろうよしあきではない」
「鷲尾わしおじゃ。鷲尾小太郎義久よしひさじゃ……お前たちが攻めた、あの邸に親兄弟がおったのよ……おお、お前達の良く知る、頑固者のじじいもな」
瞬く間に兼親の衣が血に染まっていく。
義久と名乗った若者は、太刀を引き抜こうとする。
が、うまくいかない。肉が締まり、血に濡れた持ち手の柄が滑るのだ。
兼親の背に足をかけ、鍔に手をかけ、強引に引き抜いた。
その拍子に、兼親の首にかけられていた大数珠の紐が切れ、ばらばらと音をたてながら地面を転がった。
太刀を引き抜かれても、片膝を着いた兼親は倒れなかった。
若者は、腹立たしげに足で背中を蹴った。
ようやく、どう、と音をたてて倒れた。
若者は、息を整えると、太刀を兼親の首にあてた。
名のある武将を討てば恩賞が出る。
場合によっては領地さえ手に入る。それが戦というものだ。
兼親は敵の副将だ。大きな手柄というべきだろう。
ただし、恩賞を与えてくれる味方の大将なり主人が生きていればだが。
「どこに持って行くつもりだ」
イダテンは烏帽子を剥ぎ取り、髷をつかんで兼親の首を首袋に入れようとした若者に声をかける。
その意味に気づいたのだろう。
月明かりの下、若者は、返り血を浴びた顔のまま口端を上げ笑った。
「ふん……つくづく、運のない家系よ」
投げすてられた首は、鈍い音をたてて草むらに転がり込んだ。
若者は、血に濡れた手と顔を端布で拭い、岩陰に隠してあった瓢箪の栓を抜いて、ぐびりと水を流し込んだ。
のがした恩賞の大きさを悔いる表情ではなかった。
足元にある死骸に目をやった若者は、それ以外、目に入らぬ様子で立ち尽くしていた。
同じ年頃の若い男だった。
*
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こんなことではないかと橋を渡る前に用意しておいたのだ。
息を送り出すと空気が震えた。
じりじりと囲みを狭めてきた郎党たちの足がわずかに止まる。
兼親は眉をひそめ、イダテンの動きに備えている。
人の耳には、ほとんど聞こえぬはずだが気配は感じたようだ。
口から笛を取り出し、兼親に声をかける。
「このあたりが、なんと呼ばれているか知っておるか」
それを聞いた兼親は、にやりと笑った。
「狼が淵であろう。二年ほど前に、われらが根絶やしにしてくれたわ」
イダテンは、兼親の言葉が終るのを待たず、縄のついた手斧を小さく振り回し始めた。
兼親は、イダテンが勝負に出ると見て、
「おう!」
と、大太刀を構えた。
郎党たちにも緊張が走る。
手斧を投げつけられると思ったのだろう。
だが、イダテンの手を離れた手斧は、天に向かって飛び、欅の大木の枝に巻きついた。
「……その報いを受けるが良い」
姫に、「捕まっていろ」と、声をかけると、
幹に足を掛け、縄を手繰り、駆け登った。
空に消えたのではないかというほどの俊敏さに、誰一人対応できなかった。
兼親の後ろにいた若い郎党の一人が何かを察したのか、あわてて矛を捨て、近くにあったブナの木に登り始めた。
奥の草むらから獣と思われる気配が伝わってきて初めて、兼親たちも、ようやくイダテンが何らかの手を打ったことに気がついた。
が、すでに手遅れだった。
それは音もたてず跳びかかった。
その牙で郎党たちの喉笛を切り裂き、武器を握った手首を食いちぎった。
二匹の影が交差するたびに、立っている者の数が減った。
月が翳り、姿が見えなくなると脅えが増幅した。
矛や太刀を振るう音の中に、鎬を削る音が混じる。
恐怖のあまり闇雲に矛や太刀を振るい、同士討ちを始める者まで現れたのだ。
狼たちは、吠えもせず唸りもせず、静かに確実に郎党たちの数を減らしていく。
やがて鎬を削る音も途絶え、郎党たちのうめき声と狼の息遣いだけになった。
その時、わずかに月の光が注いだ。
それが命運を分けた。
兼親はかろうじて体をひねり牙から逃れた。
のどには赤い筋がつき、血の玉が湧いている。
さらに雲が流れ、あたりが明るくなると郎党の矛の切っ先が狼を捕らえた。
狼は腰のあたりを突かれ、声も上げず、地面に落ちた。
イダテンは、姫を乗せた負子を安定の良い二股の枝の上に降ろし、縄で幹に固定した。
姫は不安そうな目をしたが、無駄な口はきかなかった。
眼下では、残った一匹が郎党に襲い掛かっていた。
のどを守ろうとするその腕に噛み付き、振り回す。
郎党が激痛に耐えかね倒れても、気が収まらぬとばかりに引きずった。
だが、それが油断を生んだ。
兼親が、「おのれ」と声を上げ、左から大太刀を浴びせると、狼は、その場に崩れ落ちた。
襲われた郎党は、ぴくりとも動かない。
残ったのは兼親ただ一人だ。
イダテンは足をかばい、縄を伝って地面に降りると狼の倒れた場所まで急いだ。
喉元が黒い。帳だった。
前足から腹まで裂かれている。
枯草を踏みしだく音に振り向くと、肩で息をする兼親が立っていた。
分厚い胸にも大太刀を握る丸太のような腕にも、先ほどまでの力強さはない。
「おのれ、卑怯な……獣を使うか」
その後ろに人影が立った。
五尺六寸はあろう若い郎党が太刀を抜いて歩み寄る。
狼の唸り声を聞いて木に登った男だ。
危険が去ったと見て、降りてきたのだろう。
木陰の下に入り表情が見えなくなった。
「おお、小太郎、生きておったか」
兼親は、一瞬振り返り、喜びをあらわにしたものの、すぐにイダテンに視線を戻した。なかなか用心深い。
「狼さえおらねば、しょせんこわっぱ。わけなく退治できよう。おまえは右に……」
兼親の巨躯が、がくりとぶれた。
すとんと落ちて片膝をついた。
何が起きたかわからないのだろう。
目の焦点も合っていない。
その目が、ようやく自分の腹から突き出た赤く光る物を捕えた。
それは血に濡れた太刀の切っ先だった。
それが小太郎と呼んだ郎党の太刀だと気づいた兼親の顔に驚きが浮かんだ。
「なぜだ……」
声を絞り出す兼親の問いに若者が答えた。
「なにを驚いておる。目をかけてやったとでも思うておるか」
返り血を浴びた、その端正な顔にはいびつな笑みが浮かんでいた。
「冥土の土産に教えてやろう」
若者は、後方から、顔を兼親の耳元に寄せると、小さく息を吸い込み、ささやくように口にした。
「わしの本当の名を」
兼親の目が泳ぎながらも、その若者の姿を追った。
髭が震えていた。
「わしの名は阿部小太郎義光あべこたろうよしあきではない」
「鷲尾わしおじゃ。鷲尾小太郎義久よしひさじゃ……お前たちが攻めた、あの邸に親兄弟がおったのよ……おお、お前達の良く知る、頑固者のじじいもな」
瞬く間に兼親の衣が血に染まっていく。
義久と名乗った若者は、太刀を引き抜こうとする。
が、うまくいかない。肉が締まり、血に濡れた持ち手の柄が滑るのだ。
兼親の背に足をかけ、鍔に手をかけ、強引に引き抜いた。
その拍子に、兼親の首にかけられていた大数珠の紐が切れ、ばらばらと音をたてながら地面を転がった。
太刀を引き抜かれても、片膝を着いた兼親は倒れなかった。
若者は、腹立たしげに足で背中を蹴った。
ようやく、どう、と音をたてて倒れた。
若者は、息を整えると、太刀を兼親の首にあてた。
名のある武将を討てば恩賞が出る。
場合によっては領地さえ手に入る。それが戦というものだ。
兼親は敵の副将だ。大きな手柄というべきだろう。
ただし、恩賞を与えてくれる味方の大将なり主人が生きていればだが。
「どこに持って行くつもりだ」
イダテンは烏帽子を剥ぎ取り、髷をつかんで兼親の首を首袋に入れようとした若者に声をかける。
その意味に気づいたのだろう。
月明かりの下、若者は、返り血を浴びた顔のまま口端を上げ笑った。
「ふん……つくづく、運のない家系よ」
投げすてられた首は、鈍い音をたてて草むらに転がり込んだ。
若者は、血に濡れた手と顔を端布で拭い、岩陰に隠してあった瓢箪の栓を抜いて、ぐびりと水を流し込んだ。
のがした恩賞の大きさを悔いる表情ではなかった。
足元にある死骸に目をやった若者は、それ以外、目に入らぬ様子で立ち尽くしていた。
同じ年頃の若い男だった。
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