ちはやぶる

八神真哉

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第七十三話  畏れも知らず

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耳をつんざくような轟音が峡谷中に鳴り響いた。

イダテンが動き出したようだ。
怯える馬たちの手綱をほどき、尻を叩く。

尻尾からは縄が伸び、その先には松明を括り付けている。
次々と火をつけ、十頭の馬を送り出した。

たとえ敵のものであろうとも、大事な馬をこのようなことに使いたくなかった。
だが、手段を選んでなどいられない。

熱さを感じるよう縄は短めにした。
駆けるたびに地面を跳ね、火の粉が飛び散った。

逃げても逃げても燃え上がる炎が追ってくることがわかれば、死に物狂いで駆けてくれるだろう。
あわてないようなら尻に太刀を食らわせればよい。

自分にできるのは盾となって姫を守る。
ただ、それだけだ。
黒駒にまたがると、右側に置いた踏み台に姫を立たせた。

姫には袿を頭からかづかせた。
砦には矢だけでなく熱湯や石も用意されているはずだ。
市女笠は鞍に結んだ。

衣で手を拭い、差し出した。
姫の白く華奢な手を握り、慎重に引き上げる。
その手は、思わず包み込んでしまいたくなるほど冷え切っていた。

一方、自分の顔は、熱でもあるかのように火照っていよう。
鼓動が早鐘のように打ち始めた。
それが、戦の前の高ぶりなのか、姫の手を取ったことなのか、自分でもよくわからなかった。

右に向いて座った姫が自分の腰に手を回したことを確認すると、
「出陣しますぞ」
と、声をかけた。

姫は、こわばりながらも「はい」と笑顔を作った。

箙は無理やり右腰に、弓を左手に、手綱を握り、脚で黒駒の腹を押さえた。
黒駒は静かに走り始めた。
乗せているのが高貴な姫君だということを承知しているかのように。

砦の方向から怒号が聞こえてきた。
イダテンが戦いを始めたようだ。

黒駒の蹄の音が異様に大きく響く。
先を行く馬の蹄の音やいななきも耳に入ってくる。

姫が背中越しに話しかけてきたが、よく聞き取れない。
安心させようと笑顔を作って振り返る。

「なんだか、わくわくしてきました」
予想に反し、興奮に頬を染めていた。
「あきれた姫様じゃ」
義久の言葉に、姫は微笑みで応えた。

そうだ。昔は何度そういったことだろう。
だが、畏れもなく、姫の手をとった日は、もう帰って来ない。
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