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第七十九話 予兆
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ふくろうの鳴き声が、あとを追ってくる。
望月は刻々と欠け続け、今や弦月ほどになっていた。
このまま、この世から消えてしまうのだろうか。
われわれの運命を予兆するかのように。
イダテンが、おれは見たことが無いが、ごくまれに起こるらしいと口にした。
書物に書いてあったという。
姫も聞いたことがあるという。
が、信じられなかった。
わしを落ち着かせるための方便としか思えなかった。
刻がたてば元に戻るというが、義久には、そもそも、月が欠けるという理屈がわからない。
しかも、普段見ることのない柿色に染まっていた。
なにより、なぜ、よりにもよって今宵、この時に、このような禍々しいことが起こるのだ。
偶然やめぐり合わせなどであるはずがない。
遡れば帝の血を引く姫と、鬼の血を引くイダテンが出会ったからではないか。
黒駒の背に揺られ茫然と空を見上げていると、イダテンが道を振り返った。
「……来た」
追手か、と義久も耳を澄ます。
風は下流に向かっている。
「何も聞こえんぞ」
イダテンは義久の言葉にはかまわず、「急げ!」と一言発して走り出した。
だが、その走りに勢いはない。
しばらくすると、馬の蹄の音が聞こえてきた。
しかも相当な数だ。
「あの崖崩れを片付けたというか?」
口にはしたが、頭数があればできるだろう。
とは言え、予想以上に早い。
追手も必死なのだ。
このままでは早々に追いつかれるだろう。
それでも、馬に乗れぬ徒歩もいるはずだ。蹄の音が峡谷の壁に跳ね返り間近に感じるが、追いつかれるまでには時があろう。
「次から次へと……」
義久は、言葉を切った。
姫の小さな悲鳴が聞こえてきたからだ。
竹藪の横で、イダテンが姫を背負ったまま倒れていた。
勾配のきつい坂だ。
木の根か岩に足を取られたのだろう。
背中の姫をかばおうとして、体を捻らず、頭から落ちたようだ。
玉のように吹き出た汗の合間をぬうように、血が一筋流れ落ちた。
疲れているのだ。
あの俊敏なイダテンが、手も出せぬほどに。
姫は、腰に回された縄の結び目をたぐり寄せると、手早くほどいて背負子から降り、イダテンの様子をうかがった。
義久も黒駒から降りる。
「足からも血(あせ)が……」
すぐに立ち上がれぬ様子のイダテンを見て、姫が沓を脱がせようとしている。
左足の沓の先から血が滲み出していた。
姫に代わって義久が傷に触らぬように引き抜くと、血にまみれた足が現われた。
「……これは」
足の甲から足首にかけて大きく腫れあがっていた。
しかも、親指の爪は剥がれかけている。
姫の顔から血の気がひいた。
みるまに、その双眸に涙が浮かぶ。
姫を竹藪側に移動させ、貝がらに詰めたぬり薬を腰袋から取り出した。
裂いた端布に薬を塗り、傷口が沓に直接当たらぬよう巻きつける。
イダテンは、腰を下ろしたまま、「すまぬ」と礼を言い、筒袋の横についた袋から油紙に包まれた小さな丸薬を取り出した。
六粒ほどあるように見えた。
姫の問いかけるような目に、
「痛み止めじゃ」と、答えた。
「効くのか」と、義久が問うと、わずかに間を置いて、
「眠くなる……何より、体が動かなくなる」と、答えた。
使いたくなかったのだろう。
副作用のことばかりではない。
薬を飲めば手負いであることがわかる。
姫と義久を不安にさせたくなかったのだ。
イダテンの気持ちは痛いほどわかった。
*
丸薬を二粒ほど口に放りこみ、義久の差し出した瓢箪の水で流し込んだ。
水はわずかだった。
義久は、空になったそれを藪の中に投げ捨て、せかせた。
「さあ、黒駒に乗れ」
「皆が乗るわけにはいくまい」
「そのようなことを言っている余裕はあるまい。追手は、すぐそこまで来ておるのだぞ」
義久の言葉に誇張はなかった。
蹄の音はますます近づいて来る。
夜目のきくイダテンの瞳には、崖沿いの曲がりくねった道を駆けてくる追手の姿が映っていた。
「道も悪い。その馬の怪我、決して浅くはあるまい。無理をすれば脚を折るぞ」
その言葉に、姫が義久を振り返る。
黒駒が、それほどの状況とは思っていなかったようだ。
血に濡れた沓を履き直すと、腰に手挟んでいた手斧を引き抜いて立ち上がった。
義久の差し出した手を振り切り、左足をかばいながら隈笹をかき分け、転がっていた猪の骨を踏みしだき、三間ほど先にある杉の木に向かった。
下流側には竹藪がある。
杉の木に背中からもたれかかった。
幹には幾重にも縄が回されている。
迫りくる追手の様子をうかがい、姫の様子をうかがい、一息おいて、その縄をめがけ、手斧を振るった。
断ち切られた縄が、目にもとまらぬ速さで奥の竹藪に引きこまれると、限界まで反り返っていた幾本もの竹が、もとに戻ろうとする力で鞭のようにしなり、空気を切り裂いた。
わずかに遅れて、数えきれないほどの矢が、うなりをあげて上空に飛び出した。
竹のしなりを利用した巨大な弓の仕掛けだった。
こすれた竹の葉が千切れ、舞い散った。
追手がいるあたりから悲鳴に近い怒号が聞こえた。
うなりをあげて襲ってくる物が、なにであるかに気づいたのだ。
鏃や矢羽を持たない即席の矢は、威力や正確さでは本物に引けを取ったが、月が欠け、竹藪が空を覆った闇のなかでは充分な効果をもたらした。
矢が降り注いだあたりから兵と馬の悲鳴が聞こえてきた。
馬の下敷きになったものもいるだろう。
息を吸い込み、歯を食いしばると、今度は、右隣の木の根元に回された縄をめがけて、手斧を投げた。
幾本もの竹がしなり、空気を切り裂いた。
再び悲鳴が響き渡った。
崖下に転げ落ちる音もする。
矢を避けようとして足を踏みはずしたのだろう。
*
望月は刻々と欠け続け、今や弦月ほどになっていた。
このまま、この世から消えてしまうのだろうか。
われわれの運命を予兆するかのように。
イダテンが、おれは見たことが無いが、ごくまれに起こるらしいと口にした。
書物に書いてあったという。
姫も聞いたことがあるという。
が、信じられなかった。
わしを落ち着かせるための方便としか思えなかった。
刻がたてば元に戻るというが、義久には、そもそも、月が欠けるという理屈がわからない。
しかも、普段見ることのない柿色に染まっていた。
なにより、なぜ、よりにもよって今宵、この時に、このような禍々しいことが起こるのだ。
偶然やめぐり合わせなどであるはずがない。
遡れば帝の血を引く姫と、鬼の血を引くイダテンが出会ったからではないか。
黒駒の背に揺られ茫然と空を見上げていると、イダテンが道を振り返った。
「……来た」
追手か、と義久も耳を澄ます。
風は下流に向かっている。
「何も聞こえんぞ」
イダテンは義久の言葉にはかまわず、「急げ!」と一言発して走り出した。
だが、その走りに勢いはない。
しばらくすると、馬の蹄の音が聞こえてきた。
しかも相当な数だ。
「あの崖崩れを片付けたというか?」
口にはしたが、頭数があればできるだろう。
とは言え、予想以上に早い。
追手も必死なのだ。
このままでは早々に追いつかれるだろう。
それでも、馬に乗れぬ徒歩もいるはずだ。蹄の音が峡谷の壁に跳ね返り間近に感じるが、追いつかれるまでには時があろう。
「次から次へと……」
義久は、言葉を切った。
姫の小さな悲鳴が聞こえてきたからだ。
竹藪の横で、イダテンが姫を背負ったまま倒れていた。
勾配のきつい坂だ。
木の根か岩に足を取られたのだろう。
背中の姫をかばおうとして、体を捻らず、頭から落ちたようだ。
玉のように吹き出た汗の合間をぬうように、血が一筋流れ落ちた。
疲れているのだ。
あの俊敏なイダテンが、手も出せぬほどに。
姫は、腰に回された縄の結び目をたぐり寄せると、手早くほどいて背負子から降り、イダテンの様子をうかがった。
義久も黒駒から降りる。
「足からも血(あせ)が……」
すぐに立ち上がれぬ様子のイダテンを見て、姫が沓を脱がせようとしている。
左足の沓の先から血が滲み出していた。
姫に代わって義久が傷に触らぬように引き抜くと、血にまみれた足が現われた。
「……これは」
足の甲から足首にかけて大きく腫れあがっていた。
しかも、親指の爪は剥がれかけている。
姫の顔から血の気がひいた。
みるまに、その双眸に涙が浮かぶ。
姫を竹藪側に移動させ、貝がらに詰めたぬり薬を腰袋から取り出した。
裂いた端布に薬を塗り、傷口が沓に直接当たらぬよう巻きつける。
イダテンは、腰を下ろしたまま、「すまぬ」と礼を言い、筒袋の横についた袋から油紙に包まれた小さな丸薬を取り出した。
六粒ほどあるように見えた。
姫の問いかけるような目に、
「痛み止めじゃ」と、答えた。
「効くのか」と、義久が問うと、わずかに間を置いて、
「眠くなる……何より、体が動かなくなる」と、答えた。
使いたくなかったのだろう。
副作用のことばかりではない。
薬を飲めば手負いであることがわかる。
姫と義久を不安にさせたくなかったのだ。
イダテンの気持ちは痛いほどわかった。
*
丸薬を二粒ほど口に放りこみ、義久の差し出した瓢箪の水で流し込んだ。
水はわずかだった。
義久は、空になったそれを藪の中に投げ捨て、せかせた。
「さあ、黒駒に乗れ」
「皆が乗るわけにはいくまい」
「そのようなことを言っている余裕はあるまい。追手は、すぐそこまで来ておるのだぞ」
義久の言葉に誇張はなかった。
蹄の音はますます近づいて来る。
夜目のきくイダテンの瞳には、崖沿いの曲がりくねった道を駆けてくる追手の姿が映っていた。
「道も悪い。その馬の怪我、決して浅くはあるまい。無理をすれば脚を折るぞ」
その言葉に、姫が義久を振り返る。
黒駒が、それほどの状況とは思っていなかったようだ。
血に濡れた沓を履き直すと、腰に手挟んでいた手斧を引き抜いて立ち上がった。
義久の差し出した手を振り切り、左足をかばいながら隈笹をかき分け、転がっていた猪の骨を踏みしだき、三間ほど先にある杉の木に向かった。
下流側には竹藪がある。
杉の木に背中からもたれかかった。
幹には幾重にも縄が回されている。
迫りくる追手の様子をうかがい、姫の様子をうかがい、一息おいて、その縄をめがけ、手斧を振るった。
断ち切られた縄が、目にもとまらぬ速さで奥の竹藪に引きこまれると、限界まで反り返っていた幾本もの竹が、もとに戻ろうとする力で鞭のようにしなり、空気を切り裂いた。
わずかに遅れて、数えきれないほどの矢が、うなりをあげて上空に飛び出した。
竹のしなりを利用した巨大な弓の仕掛けだった。
こすれた竹の葉が千切れ、舞い散った。
追手がいるあたりから悲鳴に近い怒号が聞こえた。
うなりをあげて襲ってくる物が、なにであるかに気づいたのだ。
鏃や矢羽を持たない即席の矢は、威力や正確さでは本物に引けを取ったが、月が欠け、竹藪が空を覆った闇のなかでは充分な効果をもたらした。
矢が降り注いだあたりから兵と馬の悲鳴が聞こえてきた。
馬の下敷きになったものもいるだろう。
息を吸い込み、歯を食いしばると、今度は、右隣の木の根元に回された縄をめがけて、手斧を投げた。
幾本もの竹がしなり、空気を切り裂いた。
再び悲鳴が響き渡った。
崖下に転げ落ちる音もする。
矢を避けようとして足を踏みはずしたのだろう。
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