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第57話また明日
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「落ち着いたか?」
こくりと、かすかに頷く。
カルヴァン様は、私が呼吸を整えるまで、ずっと背中をさすり続けてくれていた。その手は急かすことも、離れることもなく、ただ「ここにいる」と伝えるように、静かにそこにあった。
「少し待っていなさい」
そう言うと、彼は誰かを呼び、私の横へ腰を下ろした。ほどなくして、慌てた足音とともにハザードが入ってくる。
「……シャーリー様……。お顔を、お拭きしましょうか」
その言葉を聞いた瞬間だった。
理由は分からない。 ハザードが悪いわけでもない。 それなのに、胸の奥がきゅっと縮み、指先から一気に冷えていった。
「……あ……」
近づく気配。 頬へ伸びてくる手。
反射的に、私はそれを振り払っていた。
「いやっ!」
怖い!!
また……また……ぶたれる……!!
頭の奥で何かが弾け、封じていた記憶が一気に溢れ出す。
暗い部屋。 逃げ場のない廊下。 理由も告げられないまま浴びせられる叱責。 頬を打つ音。 床に倒れたときの、歪んだ視界。
走馬灯のように、あの家での嫌な記憶が次々と浮かび、触れられてもいないのに、体中が痛みを思い出す。皮膚の奥が、じくじくと悲鳴を上げていた。
「……シャーリー……様……?」
戸惑った声が聞こえる。 けれど、もう耳に届かない。
「嫌だ!! 触らないで!!」
怖い。
痛い。
「……シャーリー……大丈夫だ」
その声と同時に、ぎゅっと手を握られた。 カルヴァン様の手だった。
その温もりに、ようやく息が落ちる。
……あ……。
肺が動く。 空気が、入ってくる。
私……ずっと……息を止めていたんだ……。
「少しだけだ。顔を拭いてもらおう。……本当に、少しだけだ」
「……ごめんなさい」
「いいえ。構いませんよ」
ハザードは、とても辛そうに微笑み、今度は距離を保ちながら、そっと頬に触れた。
びくり、と体が勝手に震え、筋肉が強ばる。
それに気づいたのだろう。ハザードは、とても優しくゆっくりと顔を拭いてくれた。
「……夕食になりましたら、またお声をかけますね」
「……はい」
「では、失礼いたします」
扉が閉まる音がして、ようやく部屋に静けさが戻った。
カルヴァン様は、私の腰に手を当て、そっと引き寄せる。
「……少し眠りなさい。疲れただろう?」
「いいえ……お帰りください。後は……大丈夫ですから」
確かに疲れていた。 けれど、それ以上に、こんな私のために、ここまでしてもらうのが申し訳なかった。
「帰らない。少し目を閉じるんだ。俺は……帰らない」
私の目に手が当てられ、世界が暗くなる。
「お願いだ……少し寝てくれ。俺が悪いんだ」
耳元で囁かれる声は、低く、静かで、どこか縋るようで。
意識が、ゆっくりと遠のいていった。
目を覚ますと、最初に見えたのは、ひどく安堵した表情のカルヴァン様だった。
それを見た瞬間、胸の奥に別の痛みが生まれる。
罪悪感。
「ごめんなさい」と言うたびに、彼は辛そうな顔をする。
だから、もう言えなかった。
夕食の席にもカルヴァン様は同席していたが、御義父様は何も言わなかった。ノーセットが一生懸命に学園の話をしてくれていたけれど、その言葉は今日の私の中を素通りしていった。
夜。
寝る前まで、カルヴァン様は私の傍にいてくれた。さすがに私の自室ではなく、客室で。
何も言わず、ただ、隣にいる。
それだけで、胸の奥が静かになる。
安心して、眠くなる。
それでも、眠るのが怖かった。
目を閉じた瞬間、これがすべて夢で、目覚めた先にはまた、あの家が待っている気がした。
怒られ、比べられ、存在を否定され続けた日々。
あの時のシャーサーの顔が、鮮明に浮かぶ。
同じ顔なのに。 同じ声なのに。
私と、違う。
私に無いものを、全部。
全て、持っている。
……この人も、きっと。
明日になれば、シャーサーの方がいいと思う。
あんなに素敵なのだもの。
私は……シャーリーだもの。
「シャーリー」
「……なんでしょう……」
ほら。
やっぱり。
シャーサーの話が、出てくる。
「明日も、側にいてもいいか?」
「……え?」
カルヴァン様は、まるで分かっているかのように微笑み、軽く笑った。
「何も言わなくていい。顔に出ている。側にいてほしい、と。これは俺の責任だ。だから、シャーリーが何を言おうと、勝手にいる」
「……!」
頬に、柔らかな感触。
カルヴァン様が、私の頬に口づけていた。
「何度でも謝る。あの時は、あまりにもシャーリーに似ていて、名前を呼んでしまった。だが、ここにいるシャーリーは、君だけだ」
「……もう……謝っているのですか? そんなに嬉しそうな顔をして」
「そんなに真っ赤な顔をしていたら、可愛いだろう」
「……!!」
くすくすと笑いながらも、その瞳はひどく不安そうで、私の手を強く握りしめていた。
無理をして、笑ってくれている。
それが、痛いほど分かった。
「シャーリー。本当に、申し訳ないと思っている。だが、誤解しないでほしい」
「……名前を間違えられるのは、よくありました。私は、いつもシャーサーに間違われていましたから。だから……気にしないでください」
言葉を遮るように、私は笑う。
……本当に、笑えていただろうか。
「違う。シャーリーはシャーリーだ。俺が……悪いんだ」
少し間を置いて、彼は続ける。
「……もう寝なさい。俺はこれからウィンザー様にお願いしに行く。明日からも、側にいたい、と。……シャーリー、俺は君がいい。うまく言葉にできないが……君しかいない」
その声は、今にも泣き出しそうだった。
この人が悪いわけじゃない。
私が……悪いのだ。
私が、弱すぎるから。
それでも、誰かの温もりを求めてしまった。
「……怒っていません。今……側にいてくれて、嬉しいです」
「そうか。……さあ、もう寝なさい」
私をそっと離し、頭を優しく撫でてくれた。
今度は、不思議なほど安堵に包まれた。
「はい……おやすみなさい」
「ああ。また明日」
また明日。
その言葉が、どれほど私を救ったか、この人は知らないだろう。
また明日。
明日が待ち遠しい、という意味の言葉。
そんな言葉が存在することも、そんな言葉をくれる人がいることも、私は忘れていた。
「……はい。また明日」
微笑むカルヴァン様を見て、私は久しぶりに、何の心配もなく眠りにつくことができた。
シャーリーは君しかいない。
嘘かもしれない。
誤魔化しかもしれない。
それでも今は、その些細な言葉が、ひび割れた心に静かに染み込んでいった。
私が、私として存在していいのだと。
ほんの少しだけ、そう思うことができた。
こくりと、かすかに頷く。
カルヴァン様は、私が呼吸を整えるまで、ずっと背中をさすり続けてくれていた。その手は急かすことも、離れることもなく、ただ「ここにいる」と伝えるように、静かにそこにあった。
「少し待っていなさい」
そう言うと、彼は誰かを呼び、私の横へ腰を下ろした。ほどなくして、慌てた足音とともにハザードが入ってくる。
「……シャーリー様……。お顔を、お拭きしましょうか」
その言葉を聞いた瞬間だった。
理由は分からない。 ハザードが悪いわけでもない。 それなのに、胸の奥がきゅっと縮み、指先から一気に冷えていった。
「……あ……」
近づく気配。 頬へ伸びてくる手。
反射的に、私はそれを振り払っていた。
「いやっ!」
怖い!!
また……また……ぶたれる……!!
頭の奥で何かが弾け、封じていた記憶が一気に溢れ出す。
暗い部屋。 逃げ場のない廊下。 理由も告げられないまま浴びせられる叱責。 頬を打つ音。 床に倒れたときの、歪んだ視界。
走馬灯のように、あの家での嫌な記憶が次々と浮かび、触れられてもいないのに、体中が痛みを思い出す。皮膚の奥が、じくじくと悲鳴を上げていた。
「……シャーリー……様……?」
戸惑った声が聞こえる。 けれど、もう耳に届かない。
「嫌だ!! 触らないで!!」
怖い。
痛い。
「……シャーリー……大丈夫だ」
その声と同時に、ぎゅっと手を握られた。 カルヴァン様の手だった。
その温もりに、ようやく息が落ちる。
……あ……。
肺が動く。 空気が、入ってくる。
私……ずっと……息を止めていたんだ……。
「少しだけだ。顔を拭いてもらおう。……本当に、少しだけだ」
「……ごめんなさい」
「いいえ。構いませんよ」
ハザードは、とても辛そうに微笑み、今度は距離を保ちながら、そっと頬に触れた。
びくり、と体が勝手に震え、筋肉が強ばる。
それに気づいたのだろう。ハザードは、とても優しくゆっくりと顔を拭いてくれた。
「……夕食になりましたら、またお声をかけますね」
「……はい」
「では、失礼いたします」
扉が閉まる音がして、ようやく部屋に静けさが戻った。
カルヴァン様は、私の腰に手を当て、そっと引き寄せる。
「……少し眠りなさい。疲れただろう?」
「いいえ……お帰りください。後は……大丈夫ですから」
確かに疲れていた。 けれど、それ以上に、こんな私のために、ここまでしてもらうのが申し訳なかった。
「帰らない。少し目を閉じるんだ。俺は……帰らない」
私の目に手が当てられ、世界が暗くなる。
「お願いだ……少し寝てくれ。俺が悪いんだ」
耳元で囁かれる声は、低く、静かで、どこか縋るようで。
意識が、ゆっくりと遠のいていった。
目を覚ますと、最初に見えたのは、ひどく安堵した表情のカルヴァン様だった。
それを見た瞬間、胸の奥に別の痛みが生まれる。
罪悪感。
「ごめんなさい」と言うたびに、彼は辛そうな顔をする。
だから、もう言えなかった。
夕食の席にもカルヴァン様は同席していたが、御義父様は何も言わなかった。ノーセットが一生懸命に学園の話をしてくれていたけれど、その言葉は今日の私の中を素通りしていった。
夜。
寝る前まで、カルヴァン様は私の傍にいてくれた。さすがに私の自室ではなく、客室で。
何も言わず、ただ、隣にいる。
それだけで、胸の奥が静かになる。
安心して、眠くなる。
それでも、眠るのが怖かった。
目を閉じた瞬間、これがすべて夢で、目覚めた先にはまた、あの家が待っている気がした。
怒られ、比べられ、存在を否定され続けた日々。
あの時のシャーサーの顔が、鮮明に浮かぶ。
同じ顔なのに。 同じ声なのに。
私と、違う。
私に無いものを、全部。
全て、持っている。
……この人も、きっと。
明日になれば、シャーサーの方がいいと思う。
あんなに素敵なのだもの。
私は……シャーリーだもの。
「シャーリー」
「……なんでしょう……」
ほら。
やっぱり。
シャーサーの話が、出てくる。
「明日も、側にいてもいいか?」
「……え?」
カルヴァン様は、まるで分かっているかのように微笑み、軽く笑った。
「何も言わなくていい。顔に出ている。側にいてほしい、と。これは俺の責任だ。だから、シャーリーが何を言おうと、勝手にいる」
「……!」
頬に、柔らかな感触。
カルヴァン様が、私の頬に口づけていた。
「何度でも謝る。あの時は、あまりにもシャーリーに似ていて、名前を呼んでしまった。だが、ここにいるシャーリーは、君だけだ」
「……もう……謝っているのですか? そんなに嬉しそうな顔をして」
「そんなに真っ赤な顔をしていたら、可愛いだろう」
「……!!」
くすくすと笑いながらも、その瞳はひどく不安そうで、私の手を強く握りしめていた。
無理をして、笑ってくれている。
それが、痛いほど分かった。
「シャーリー。本当に、申し訳ないと思っている。だが、誤解しないでほしい」
「……名前を間違えられるのは、よくありました。私は、いつもシャーサーに間違われていましたから。だから……気にしないでください」
言葉を遮るように、私は笑う。
……本当に、笑えていただろうか。
「違う。シャーリーはシャーリーだ。俺が……悪いんだ」
少し間を置いて、彼は続ける。
「……もう寝なさい。俺はこれからウィンザー様にお願いしに行く。明日からも、側にいたい、と。……シャーリー、俺は君がいい。うまく言葉にできないが……君しかいない」
その声は、今にも泣き出しそうだった。
この人が悪いわけじゃない。
私が……悪いのだ。
私が、弱すぎるから。
それでも、誰かの温もりを求めてしまった。
「……怒っていません。今……側にいてくれて、嬉しいです」
「そうか。……さあ、もう寝なさい」
私をそっと離し、頭を優しく撫でてくれた。
今度は、不思議なほど安堵に包まれた。
「はい……おやすみなさい」
「ああ。また明日」
また明日。
その言葉が、どれほど私を救ったか、この人は知らないだろう。
また明日。
明日が待ち遠しい、という意味の言葉。
そんな言葉が存在することも、そんな言葉をくれる人がいることも、私は忘れていた。
「……はい。また明日」
微笑むカルヴァン様を見て、私は久しぶりに、何の心配もなく眠りにつくことができた。
シャーリーは君しかいない。
嘘かもしれない。
誤魔化しかもしれない。
それでも今は、その些細な言葉が、ひび割れた心に静かに染み込んでいった。
私が、私として存在していいのだと。
ほんの少しだけ、そう思うことができた。
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