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灰色の箱の中身5
しおりを挟むうっわあ……。エッロ。
小説を読みはじめた僕は思わず口を押さえる。
意外なことにあーさんが書いていたのはBL……男同士の恋愛小説だった。
自信が男であるということもあってか、あーさんの書くそれにはリアリティがあって、艶かしい。登場人物たちの行為中の荒い息遣いさえこちらに伝わってきそうな描写だった。
書かれている人物たちのシーツに沈む肌の白さまで想像できてしまいそうなそれを僕は夢中になって齧り付くように読んだ。
あっという間に一冊読み終わってしまった僕は、物足りなくて、電子書籍で残りの小説を全部買い占めた。ペンネームさえ知ってしまえば、いくらでも著作なんて検索できる。
そのおかげで、貯めていたお年玉貯金はだいぶ目減りしてしまったけれど、僕は大満足だった。
艶かしくて禁忌的で、でもどこか清らかな官能小説に夢中になりすぎた僕は、危うく志望校に落ちそうになったけど。
全てを読み終わった後。なんであーさんが別名義で……しかも僕に見せたくないものを書いているのか考えた。
最初は、意外とあーさん、こういうの趣味なのかもな。と楽観的に思っていた。でも、このレーベルの見本誌が届くと、あーさんは露骨に嫌そうな顔をする。
まるで、書きたくないものを生み出してしまったような顔。
その顔を見て、僕は初めてわかった。
ああ、あーさんは生活のために、自分のプライドを切り売りしているんだ、と。
*
実はあーさん。僕との暮らしで、一度だけお金が足りなくて大変だったことがある。
あーさんは純文学誌の方でも、最低でも二年に一回は新刊が出る、コアなファンが多い人気作家だ。だけど、僕に出会う直前にとんでもなく深くて長いスランプに陥っていたらしい。
実はあーさん、一度だけ俺の口座からお金を借りたことがある。俺とあーさんの暮らしの中で、教育費に関しては俺の両親が残してくれた遺産を使っている。それ以外の基本的に生活に必要なお金は全部、あーさんに出してもらっているんだけど、一度だけお金が足りなくて養育費分から生活費を捻出したことがあったのだ。
といっても印税のタイミングとっても悪かっただけで次の月には入金される予定だった。本と本の発売日の間だったらしくほんとにお金がなかったのだ。その空白期間の十日間の間に不幸にも水道代と電気代の徴収が来てしまっただけで。
その時のあーさんは驚くほど、僕に申し訳なさそうな顔をしていた。あーさんは気に入ったものはどんなに高くても一点買いするタイプではあるが、ものすごく浪費するタイプではない。多分一般的な社会人よりもお金は使っていないのだと思う。
そんなあーさんがお金に困ったことがあるくらい小説家は儲からない職業なんだろう。
そのことを僕は一緒に暮らし始めた後に知ったのだけども、そんなお金も不安定な状況で、僕を引き取ったんだから、そりゃ周りの人たちも反対するだろう。
あーさんは毎日、朝から晩までパソコンに張り付いて、死相が出そうなくらいの勢いで文字を書いていた。生活費を稼ぐために、必死に文字を量産していた。
当時の僕は毎日毎日、休む間もなく小説を書き、見るからに痩せていくあーさんのことが心配でならなかった。
本当に文字通りずうっと書いているのだ。あーさんの指の腹はキーボードの打ち過ぎで硬くなっていた。一番使う右手の小指には血豆ができていた。
それを見てギョッとした時のあの感覚は今でも忘れられない。
僕はもちろんお世話になっている身だし、大人のあーさんが決めたことに口を出す権利なんてちっともないけれど、それでもあーさんを止めたくて仕方がなかった。
僕はあーさんを止める決心をした。
「ねえ、あーさん。父さんが残した、遺産、生活費に使おうよ。父さんだってあーさんが健康でいられるために使うなら、喜ぶと思うよ?」
幸い、僕の手元にはなくなった父の遺産もあったので、それを使ったらどうだ、とあーさんに提案したのだ。
けれどもあーさんはその提案を受けて簡単には首を振らなかった。
「いいや。ヒト。それはヒトのもんだ。俺は絶対に新しい本を出す。それで金を稼ぐんだ」
あーさんの小説家としてのプライドが垣間見えた瞬間だった。
小説を病的に書き続けたあの頃のあーさんは顔から肉がこそげ落ちやつれていて、お風呂にも入っていないからなんとなく汚いのに、雄々しくて、見ているだけでドキドキしてしまった。
僕は僕の養育者としての責任と、プロの小説家としての役職をはたそうとしているあーさんが、とてつもなくかっこよく見えてしょうがなかった。
その頃からだ。あーさんの部屋に謎の灰色の箱が登場したのは。
要するに、あーさんに書きたくないものを書かせた戦犯は僕だ。
*
僕は出先のカフェでコーヒーを飲みながら、電子書籍サイトを見ていた。
そこにはあーさんのBL書籍の新刊がずらりと並んでいた。
今のあーさんは昔みたいな状況になるのが怖いんだろうな。
プライドを捨てて書いてるわけだから、辛いんだろうけど。あーさん、ああ見えて繊細だから(そういうところもあるから、社会人を辞めて小説家になったんだろう)心を壊してしまわないか、ちょっとだけ心配だ。
もしかしたら、今書いている小説も、生活のために必死に書いているそれなのかもしれない。
あーさんはそんな自分のことをカッコ悪いと思っているからあんなにイラついた顔をするのかな……。そんなことをふと考える。
でも、嫌なことにも真っ向から立ち向かってくあーさんはかっこいいと思うんだけど。
それに最近のあーさんは、そっちの名義の小説を書いている時、鼻歌混じりの時がある。嫌だった仕事の中に、楽しい瞬間を見出せるなんて、強い。しかもそれで、いろんな人の心をドキドキさせたり、興奮させたりしているんだもの。あーさんは間違いなく、プロの小説家だ。
がんばれ、あーさん。僕も他の読者も、みんな夢中になるような、めちゃくちゃえっちな小説を書いてくれ。
この優しい燕ヶ原レジデンスでの生活を守るために。
まだ、養わなくちゃいけない僕がそばにいてごめんね。
……今書いている小説が出版されたら、後でそれ、こっそり布団を被りながら楽しく読むから。
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