燕ヶ原レジデンス205号室

風見雛菊

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待望の新刊と作家の答え2

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「ただいまぁ~……。あー疲れた」

 星が輝く、十一時。ジュースにするために絞り切られたオレンジみたいな顔して、あーさんは帰ってきた。

「おかえり。ご飯、できてるよ」
「う……。今日、食欲ねえかも……なんか人づかれしちゃってなあ」

 あーさんはふらふらしたまま、ソファにどすんとうつ伏せで寝転んだ。

 どうやら限界が近いらしい。
 でもこの萎れ方はどう見ても、エネルギー不足のそれだった。

 あーさん、取材が重なりすぎて、ご飯、食べられなかったな?

「大丈夫。今日、僕もあんまり食べられないから、ダシにしました」
「ダシ!?」

 あーさんが目をカッと輝かせて起き上がる。
 ダシとは、山形の郷土料理だ。
 なすときゅうりなどの夏野菜と生姜や茗荷、大葉などの薬味をサイコロ状に刻んで、刻み昆布と醤油で味付けした、我が家の夏の定番料理。

 さっぱりとした口当たりなので、ご飯の上に乗せれば、どんなに食欲のない日でもスルスル食べることができてしまう、魔法の料理だ。

「あーさん大好物だよね。もし、元気がないようだったら、お豆腐にかけて冷奴にして食べたら?」
「それサイコー……。ビールも飲んじゃおっかな」

 そういうと思った僕はもう冷蔵庫から冷え冷えのビールを取り出して、お盆にのせていた。平皿にお豆腐を乗せて、その上にたっぷりダシをのせたものと、豆皿にカマンベールチーズを一緒にのせて、あーさんが座っているソファの目の前にある木製のローテーブルの上に置く。

「はい。特製、晩餐セットだよ~」
「うお~! テンションあがるー」

 錬金術でもするかのように「いただきます!」と勢いよく両手を合わせたあーさんは、そのまま大きな口でダシのせ冷奴を口に放り込む。

 そして、流れるような手つきでビールに手を伸ばし、ごクリと喉を鳴らした。

「うめえ~! さいこ~!」

 さっきまで、死人みたいな顔をしていたあーさんの顔に一気に血色が戻る。ふにゃふにゃで、子供みたいな笑顔に僕も頬を緩める。

「お疲れ様。今日も取材だったんでしょ?」
「……そう。いやあ、こんなに忙しくなるとは思ってなかったんだけどなあ」
「もう少ししたら、ひと段落しそう?」

 学校から帰ってきたときに『ただいま』と言ってくれる人がいないことがこんなに寂しいことだと思っていなかった僕は、あーさんの小説が素晴らしい作品になったことは嬉しかったけど、それ以上に早く日常を取り戻したくてたまらなくなっていた。

 だけど、そんな僕の要望とは裏腹に、あーさんの口からは残念なお知らせが伝えられる。

「なんか、これからも忙しくなる気がするんだよなあ」
「ええ……。今以上に? なんで? 根拠は?」
「いや。なんか最近、パーティーで金子先生にあったとき、すれ違い様に言われたんだよなあ。『油がのってきましたね。これからもっと忙しくなりますよ』って。あの人まじで、魔女だから。予言が当たるんだよなあ……」

 うへえ、と顔を引き攣らせながら、あーさんは言う。にしても、金子先生って本当に、どんな人なんだ?
 僕の中の金子先生像がまたガラガラと崩れ形を変えていく。

 ま、いっか。そんなこと。

「じゃあ、僕今のうちに甘えとかなくっちゃ」

 僕はあーさんの座っているソファにドスンと腰をかけ、左にいるあーさんの唇をえいやっ奪う。

 唇をぺろっと舐めると、ビールを飲んでいたからか、ちょっとだけ苦い味がした。

「な、何やってんだよっ!」

 あーさんはぶわりと顔を赤くしている。

「え? 何って? キス?」
「ななな! なんちゅーことを!」

 大人なのに、そんなに焦らなくてもよくない?

 ……と思うけど、あーさんはその辺臆病だからなあ。
 あーさんは自分からはどこにも触らないし、キスなんて絶対しない。
 成人している自分が、未成年に手を出すなんて、絶対にダメだ! と自分を律しているらしい。

 じゃあ、僕が手を出せばいいのかな! と解釈して、僕の方から迫るから、いいんだけどね。
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