新吉原の珠吉は三尾の化け猫と明け暮らす

朏猫(ミカヅキネコ)

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「ここが元吉原……」

 訪れたことがない珠吉も元吉原のことは知っている。しかし用事もないのに馬車鉄道を使ってまで来たいと思ったことはなかった。同じ界隈とはいえ歩いて来るには少し遠く、隅田川沿いを散歩するついでにと足を伸ばす場所でもない。
 そもそも元吉原は新吉原と同じ遊郭だ。元吉原のほうが歴史は古いが似たような場所に違いない。そう思っていた珠吉だが、想像していたよりずっと寂れた雰囲気に戸惑いの表情を隠せなかった。

『ここも昔は新吉原と同じくらい賑わっていたんだがな』
「昔はって……茶々丸、元吉原のこと知ってるの?」

 それには答えず、しゅるんと元の姿に戻った茶々丸がトトトと歩き出す。後をついていくと賑やかな通りに出た。先ほどまでの寂れた様子からは想像できないほど華やかな雰囲気は珠吉もよく知っている光景で、遊女たちが柵越しに客たちに声をかけている。客のほうも気になる遊女がいれば吸い込まれるように建物の中に入っていった。
 新吉原ほどではないものの、煌びやかな妓楼が建ち並ぶ通りにはそれなりの人が歩いていた。和洋折衷の服を着た男たちが歩き回る中で、ふと一人の男に目が留まった。

(あれは……)

 茶色の髪は明らかに異国人とわかるもので、着ている服も大店おおだなの若旦那とは違い完璧に洋装を着こなしている。新吉原でも目立ちそうなその出で立ちには見覚えがあった。背格好といい歩き方といい、最近見た人物によく似ている。

(あの人、もしかして……)

 横を向いた顔に「やっぱり」と思った。洋装の男はリチャードの従者だ。

(もしかしてリチャード様は元吉原にも通ってたってこと?)

 しかしそばにリチャードの姿はない。金髪は茶髪より目立つから夜でもすぐに見つけられる。キョロキョロと見回した珠吉だったがリチャードを見つけることはできなかった。「とっくに贔屓の妓楼に入ったんだろうか」と考え、しばらく従者の様子を窺うことにした。
 しばらく妓楼を見ながら歩いていた従者は、賑やかな通りを抜け人気のあまりない小径へと入った。そうした裏通りは辻待ちの遊女がいるところで、お大尽さながらのリチャードが行くような場所には思えない。

(でもあの人は間違いなくリチャード様の従者だよね?)

 老舗の妓楼を貸し切りにできるほどのリチャードが辻待ちの遊女を買うとはどうしても思えなかった。それにわざわざ元吉原に来てまでそうした遊女に声をかけるだろうか。
 変だなと思いながら珠吉は従者の後をつけた。すると従者は一層寂れた小径に入り、角に立つ遊女に声をかける。その様子から、主人ではなく従者自身が遊女を買おうとしているのだということに気がついた。しかしどうしても腑に落ちない。

(主人があんな金持ちなのに、いくら従者でも辻待ちの遊女を買うかな)

 こういう寂れた通りに立っている遊女は妓楼に勤めることができない者ばかりだ。そういう遊女に声をかけるのは金のない客や妓楼を出入り禁止になった男がほとんどで、中には人買い目的で声をかける男もいる。

(連れ立って行くってことは、買ったってことだよね)

 薄暗い中を従者と遊女が連れ立って小径に入っていく。その先に客の相手をするための小屋があるのだろう。
 リチャードはいわゆる富豪と呼ばれる商人で、伊勢太夫の話では貴族と呼ばれる身分の高い人なのだそうだ。横濱に大きな商館を構え、さらにほかの国にも屋敷を持っていると話していた。そうした人の従者ともなれば給金もそれなりのはずなのに、なぜ辻待ちの遊女を買うのだろうか。

『行くぞ』

 気がつけば茶々丸が先頭に立っていた。足音を忍ばせながら珠吉があとをついていく。薄暗い小径の先に現れたのは荒ら屋としか言いようのない小屋で、二人はそこに入っていった。しばらく待っても従者が出てこないということは今夜はあの遊女を買ったのだろう。
 足元に座った茶々丸がじっと荒ら屋を見ている。「茶々丸、あの従者に何かあるの?」と小声で話しかけても答える様子はない。辺りは真っ暗で、夜も更けてきたからか風が冷たくなってきた。ぶるっと震えた珠吉は手を擦り合わせながら荒ら屋を見て、足元に座る茶々丸に視線を向ける。

「ねぇ、いつまでここにいるつもり?」

 尋ねても緑色の目は荒ら屋を見つめたままだ。茶々丸は元吉原で遊女が殺されると言った。しかも妖が関わっているふうな話だった。しかしこのあたりに妖の気配はなく幽霊すら見ていない。痺れを切らした珠吉が、声を潜めながら「ちょっと茶々丸ってば!」と口にしたときだった。

「きゃあぁぁ!」

 夜の闇を切り裂くような甲高い悲鳴が上がった。驚いた珠吉が慌てて荒ら屋を見る。咄嗟に身を固くした珠吉とは違い、足元にいた茶々丸はすぐさま駆けだした。そうして荒ら屋の扉に向かって勢いよく飛びかかると扉は呆気なく壊れ、下半分ほどがばらけるように落ちる。

「茶々丸!」

 壊れた扉はすだれを分厚くしたような簡易的なものだった。それでも猫の体には痛かったはずで、珠吉は茶々丸が無事か目をこらして扉を見た。

「た、助けて……!」

 壊れた扉から這々ほうほうていで現れたのは遊女だった。よく見れば右腕を押さえている。暗闇ではっきりしないものの着物が裂けているということは切られたに違いない。慌てて遊女に手を差し伸べようとした珠吉だが、ぞわっとした気配に伸ばしかけた手を止めた。
 荒ら屋を見ると壊れた扉から何かが出てくる。それまで雲に覆われていた月がうっすら顔を出し、あたりをほんのり照らした。月明かりの下に現れたのは茶髪の従者だった。ゆらりゆらりと歩くその手には、月明かりを反射するように光る刃物が握られている。

「あんた、何してんだ!」

 珠吉は思わず叫んでいた。怖いだとか逃げなければだとかいった気持ちより、なぜ遊女を傷つけたのかという怒りのほうが先走る。子どものときに遊女が客に打たれたところを見て以来、珠吉は女に手を上げる男が嫌いで仕方がなかった。

「あの男が、あいつが急に刃物で襲ってきて」

 震えながらそう訴える遊女の顔は真っ青だ。ほっかむりを外しながら急いで遊女を抱きしめた珠吉はジロッと従者を睨みつけた。人がいるとは思わなかったのか、ゆらりと歩いていた従者の足がぴたりと止まる。しかし止まったのは一瞬で、再び一歩踏み出しながら「おまえは」とつぶやいた。

「リチャード様に媚びへつらっていた子どもじゃないか」

 抑揚のない話し方に珠吉はゾッとした。見た目は完全な異国人なのに流暢に言葉を話しているのも不気味さに拍車をかける。

「ここは元吉原だ。それなのにどうして新吉原の子どもがいるんだ?」

 ゆらりゆらりと従者が近づいて来る。月明かりに照らされた緑色の目は作りもののような雰囲気で、珠吉はふと「ガラス玉みたいだ」と思った。

「子どもがこんな夜更けに外に出ては危ないだろう?」

 幼子に言い聞かせるような従者に顔をしかめながら、「そんなことより、なんでこの人を傷つけたんだ」と問いかけた。珠吉の言葉に従者がゆらりと上半身を揺らす。月明かりに浮かぶ彫りの深い顔がニタァと笑った。

「その女が殺されて当然のことを口にしたからだ」
「……どういうこと?」
「金を渡してやったのに、異国人のくせにケチだと言ったんだ」

 そう言った口が再びニタァと笑う。緑色の目も三日月のように細くなった。不気味なその顔に、珠吉はまるで異国の面のようだと思った。以前、伊勢太夫に見せてもらった美しい飾りのついた面には煌びやかな石や鳥の羽が付いていたが、従者の顔がそれらを剥ぎ取った面のように見える。

「だから切りつけたって言うのか?」

 従者の口がさらにニタァと笑った。

「だって無礼じゃないか。落ちぶれた遊女には十分な金だというのに文句を言うなんて、遊女のくせに態度が悪すぎるだろう?」

 ゆらりゆらりと従者が近づいて来る。

「まったく、どこの遊女も態度がなっていない。異国人がいいと遊女のほうから声をかけてくるくせに金を見た途端に文句を言う。大体、たくさんの金がほしいなら店で働けというんだ。そうできないくせに文句ばかり言い、挙げ句に異国人のくせにと言い出す。元吉原には落ちぶれた手頃な遊女が多いと聞いていたのに、態度ばかり大きくて困る」

 淡々とした口調に珠吉は眉をひそめた。近づいて来る従者の姿に遊女は「ひぃっ」と悲鳴を漏らし、そのまま気を失ってしまった。
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