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遊女を地面に寝かせた珠吉は、立ちはだかるように遊女と従者の間に立った。ギロッと従者を睨みながら口を開く。
「たとえ辻待ちであっても客からはちゃんと金を取る、それが遊女だ。店かどうかなんて関係ない。新吉原か元吉原かも関係ない。あなたもわかっていて遊女を買ったんだろう?」
「なんだ、おまえも文句を言うのか?」
「文句じゃない、説明しているだけだ」
珠吉の返事に従者の顔が不自然なほど歪んだ。笑っているようにも見えるが、泣いているような、それでいて怒っているようにも見える。
「あぁ、あぁ、おまえもそうなのか。誰も彼もが異国人だともてはやすのに俺のことは馬鹿にする。所詮おまえは身分の低い従者なのだと下に見る。生まれは小作人でも俺はリチャード様の従者になった。文字も算術もマスターし異国の言葉さえ自由に操ることができる。おかげでこうして異国にまで連れて来てもらった。そんな優秀な俺がリチャード様とどれほど違うというんだ?」
刃物を手にしたまま、まるで役者のように両手を広げて言葉を続けた。
「俺はこんなにも優秀だ。それなのに誰も彼もがリチャード様しか見ない。商人も役人も、そんな落ちぶれた遊女でさえもだ。体を売るしか能がないくせに無礼だよなぁ」
歪んだ顔にニタァと嫌な笑みを浮かべながら従者が珠吉を見た。「しかも、こんな子どもにまで説教されるとはなぁ」と言いながらゆらりゆらりと近づいてくる。
「子どもを叱るのは大人の務めだ、そう思わないか?」
目の前に立った従者がニタァと笑いながら珠吉を見下ろした。そうして役者のように大仰な動きで刃物を持ち上げる。その瞬間、従者の体から黒い煙のようなものが広がった。
「……っ」
珠吉は咄嗟に右手で顔を庇った。そうしながら指の隙間から従者を見た。
従者から吹き出した煙のようなものはあっという間に大きな塊になった。それが人のように従者の後ろに立っている。モクモクと膨らむ塊はついに従者の倍ほどの大きさになったが、それでもなお膨らみ続けた。
不意に黒い塊のてっぺんに二つの穴らしきものが現れた。墨より真っ黒なそれは目のような様子で、しかもじっと珠吉を見下ろしている。続けて二つの穴の少し下に亀裂が入った。くわっと大きく開いた亀裂は口のような様子で、まるで血のように真っ赤だというのに奥のほうは闇より深い黒色をしている。
「おまえのような子どもでさえ俺を馬鹿にする」
振り上げた手がゆらりと揺れた。刃物が月明かりを反射してギラッと光る。
「リチャード様と同じ異国人だというのに誰も彼もが馬鹿にする。そうしたやつには罰を与えなくてはいけない」
謳うようにそう口にした従者が大きく手を振りかぶった。
(やられる!)
逃げなくては、珠吉はそう思った。頭ではわかっているのに、煌めく刃物よりも背後に立つ真っ黒な塊に睨まれて微動だにすることができない。妖を見ても足をすくめることのない珠吉だが、妖とはまったく違う塊の気配に瞬きすらできずにいた。
光る刃物が振り下ろされた。動けない珠吉は襲い来る刃物をただ見つめることしかできずグゥッと唇を噛み締める。そうして顔をしかめながら覚悟を決めたときだった。
『おいっ!』
声とともに目の前に大きな真っ黒いものが立ちはだかった。驚く珠吉の耳に「うわぁっ」という従者の叫び声が聞こえてくる。その声に反応するかのように目の前の黒い毛がゆらゆらと揺れた。
「……もしかして茶々丸?」
思わずそう口にしたのは猫とは思えない見た目だったからだ。体は珠吉を載せたときと同じくらい大きく、しかし体を覆う毛は獣のものというより霧や煙のように揺れている。まるで炎が揺らめくような輪郭は、まさに妖といった様子だ。
『まったく、無茶をするのも大概にしろ。俺が間に合わなかったらどうするつもりだったんだ』
「ごめん。でもあの人を放っておけなくて」
珠吉の目が地面に横たわる遊女を見た。ちらっと視線を向けた茶々丸が「遊女を守りたい気持ちはわかるが、よく考えて行動しろ」と言って三本の尻尾をブンと振る。
「わかってる。守ってくれてありがとう」
『なんだ、珍しく殊勝な様子だな』
振り返った茶々丸の顔を見た珠吉はギョッとした。
「ねぇ、その口に付いてるのって……」
『心配するな。噛みついたのは念のほうだ』
茶々丸の返事に珠吉はホッとした。真っ黒な茶々丸の口には、明らかに毛とは違う黒々としたものがべっとりと付いている。色が違えば血のように見えたことだろう。それに気づいたから珠吉はギョッとし、「まさか」と考えた。
『小屋にも男が撒き散らしたものがあちこちに残っていた。そいつらに邪魔されたせいで出てくるのが遅くなった』
茶々丸が大きな体をブルン、ブルンと震わせた。そのたびにゆらゆらとした毛先が震え、それが次第にフワフワとしたものに変わっていく。気がつけば茶々丸の体はいつもの猫の大きさに戻り、毛並みも珠吉がよく知る艶々としたものになっていた。
「あっ」
小さくなった茶々丸の向こう側に従者が倒れている。しかし怪我をした様子はなく、ただ気を失っている様子に胸を撫で下ろした。
「え……?」
ホッとしたのも束の間、珠吉の目が丸くなった。従者の後ろに太い足のようなものが見えたからだ。よく見れば足首らしきところには食い千切られたような跡があり、その上には何もない。
「……茶々丸、もしかしてさっき口に付いてたのって」
『悪食とか言うなよ。これが一番手っ取り早かったんだ』
「……こういうのも食いしん坊って言っていいのかな」
『好きで食ったわけじゃない。あれが妖ならまだしも、澱んだ念の塊を食ったところで腹の足しにもならないからな』
「念の塊?」
『あの黒い塊はその男の念だ。それが膨らみすぎて具現化してしまったんだろう』
「もしかして小間物屋のところでわたしを襲ったやつと同じってこと?」
『あっちはまだ可愛げがあったがな』
茶々丸と話ながら珠吉の目は倒れている従者を見ていた。珠吉を見下ろしていた目のような穴と大きく裂けた口のようなものを思い出すだけで背筋がゾッとする。あれは従者の鬱屈した思いや周囲に抱いていた妬み、不満といったものが集まったものだったのだ。異国の地で大変な思いをしていたのかもしれないが、だからといって遊女を傷つけていい理由にはならない。
「あんなに真っ黒くて禍々しいものは初めて見た」
『あれだけの念だ、放っておいたら妖になっていたかもしれないな』
「妖に……」
異国人も妖になるのか珠吉は知らない。異国にそうした存在がいるかも知らなかった。しかし茶々丸が言うとおり妖になってもおかしくないくらいの禍々しさを漂わせていた。従者の様子も尋常ではなかった。
「ねぇ、あんなもの食べちゃってお腹壊したりしないの?」
『俺の腹はそんな柔じゃない。なんなら鰻を食う余裕もまだあるぞ』
「この食いしん坊め」
口ではそう言いながらも珠吉は茶々丸に感謝していた。もしあの黒い塊をそのままにしていたら従者も元吉原も危なかったはずだ。そのうち身も心も乗っ取られ、茶々丸が言うとおり妖になっていたかもしれない。それが新吉原に現れれば親しい遊女たちが危険な目に遭っていたかもしれないということだ。
「元吉原の遊女たちを殺めていたのは、この男だったんだね」
『念に操られていたのか、それとも自分の意志でやったのかはわからないがな』
「茶々丸はいつこの人が犯人だって気がついたの?」
『違和感を覚えたのは簪にあの異国人が触れた夜だ』
そういえば「予想外のことも起きたがな」と言っていたことを思い出す。
「あのとき簪が重くなったような気がしたのは気のせいじゃなかったんだ」
『おい、それならもっと早くにどうにかすればよかったのに、なんて言うなよ? 俺は正義の味方でも払い屋でもないんだ。そもそも簪に巻きついた念も本当にこの男のものか、あの段階でははっきりしていなかったんだからな』
妖を見ることができる珠吉も人の念までは見ることができない。それは化け猫の茶々丸も同じなのだろう。念だとわかっても、それが誰のものかはっきり見定めるのに時間がかかったのだ。
(それがわかったのが、リチャード様に藤の簪をもらったときだったんだ)
だから茶々丸は従者の足元にいたのだろう。
「この人が元吉原の犯人だってことはわかった。でも、それを突き止めるだけなら元吉原にまで来る必要はなかったよね? 警察におかしな人がいますって言えば済むことだし」
直接訴え出なくても紙に書いてどこかの警察署に投げ込めばいい。それでも動かなければ噂を流し、元吉原の遊女たちに気をつけるように促すこともできたはずだ。そもそも珠吉が危ない目に遭うかもしれない場所に茶々丸が連れて来るとは思えなかった。
『これはただのきかっけだ。おまえをここに連れて来た理由は別にある』
「どういうこと?」
『ついてこい』
いつもの調子で茶々丸がトトトと歩き出す。向かうのは華やかな表通りではなく真逆の方向だ。おとなしくついていきながらも珠吉が「また変なものがいるところじゃ?」と眉をひそめたときだった。
小径の奥に辻が見えた。角には古い祠があり、かすかに水が流れるような音が聞こえるということは隅田川が近いのかもしれない。
「ここは……?」
元吉原の一画だろうが、まったく人気がなかった。辻待ちの遊女もおらず、いくつか家屋は見えるもののほとんどが荒ら屋で住人の気配もない。珠吉がキョロキョロと辺りを見回していると、突然ぴゅうと冷たい風が吹き抜けた。風の中に人の声のようなものが聞こえた気がした珠吉が風上の祠に目を向ける。
(あれは……)
祠の傍らに何かがうっすらと立っている。白か薄灰色か、もしくは淡い青の着物に長い黒髪の女だ。
(女の幽霊?)
物心つく前から妖を見ていた珠吉にとって幽霊は恐れるものではない。妖と違って悪さをしないぶん面倒がなく、ただ存在するだけなら気にかけることもなかった。それでも積極的に見たいものではない。もしかして成仏できない遊女だろうか、まさかあの従者に殺された遊女だろうか。そんなことを思いながらじっと見る。
(それにしては動かないし、こっちを見ようともしない)
幽霊は何かを訴えたくて姿を現す。もし珠吉に何か言いたくて姿を見せたならこちらを見るはずだ。それなのに女の幽霊はどこかをぼうっと見るばかりで珠吉たちのほうを見ようともしない。
(変な幽霊だな)
それなのに何かが引っかかった。見たことがない顔なのに懐かしい気さえしてくる。
(……あれ?)
幽霊のそばにもう一人、別の人影が現れた。じぃっと見つめると、人影だと思っていたものが段々と獣の姿に変わっていく。耳はピンと尖り体は大きく、尻のあたりからは八本の尻尾らしきものが揺れていた。
「……尻尾が八つの幽霊?」
つぶやきに反応するかのように、獣の顔らしき部分がゆっくりと珠吉のほうを見た。
「たとえ辻待ちであっても客からはちゃんと金を取る、それが遊女だ。店かどうかなんて関係ない。新吉原か元吉原かも関係ない。あなたもわかっていて遊女を買ったんだろう?」
「なんだ、おまえも文句を言うのか?」
「文句じゃない、説明しているだけだ」
珠吉の返事に従者の顔が不自然なほど歪んだ。笑っているようにも見えるが、泣いているような、それでいて怒っているようにも見える。
「あぁ、あぁ、おまえもそうなのか。誰も彼もが異国人だともてはやすのに俺のことは馬鹿にする。所詮おまえは身分の低い従者なのだと下に見る。生まれは小作人でも俺はリチャード様の従者になった。文字も算術もマスターし異国の言葉さえ自由に操ることができる。おかげでこうして異国にまで連れて来てもらった。そんな優秀な俺がリチャード様とどれほど違うというんだ?」
刃物を手にしたまま、まるで役者のように両手を広げて言葉を続けた。
「俺はこんなにも優秀だ。それなのに誰も彼もがリチャード様しか見ない。商人も役人も、そんな落ちぶれた遊女でさえもだ。体を売るしか能がないくせに無礼だよなぁ」
歪んだ顔にニタァと嫌な笑みを浮かべながら従者が珠吉を見た。「しかも、こんな子どもにまで説教されるとはなぁ」と言いながらゆらりゆらりと近づいてくる。
「子どもを叱るのは大人の務めだ、そう思わないか?」
目の前に立った従者がニタァと笑いながら珠吉を見下ろした。そうして役者のように大仰な動きで刃物を持ち上げる。その瞬間、従者の体から黒い煙のようなものが広がった。
「……っ」
珠吉は咄嗟に右手で顔を庇った。そうしながら指の隙間から従者を見た。
従者から吹き出した煙のようなものはあっという間に大きな塊になった。それが人のように従者の後ろに立っている。モクモクと膨らむ塊はついに従者の倍ほどの大きさになったが、それでもなお膨らみ続けた。
不意に黒い塊のてっぺんに二つの穴らしきものが現れた。墨より真っ黒なそれは目のような様子で、しかもじっと珠吉を見下ろしている。続けて二つの穴の少し下に亀裂が入った。くわっと大きく開いた亀裂は口のような様子で、まるで血のように真っ赤だというのに奥のほうは闇より深い黒色をしている。
「おまえのような子どもでさえ俺を馬鹿にする」
振り上げた手がゆらりと揺れた。刃物が月明かりを反射してギラッと光る。
「リチャード様と同じ異国人だというのに誰も彼もが馬鹿にする。そうしたやつには罰を与えなくてはいけない」
謳うようにそう口にした従者が大きく手を振りかぶった。
(やられる!)
逃げなくては、珠吉はそう思った。頭ではわかっているのに、煌めく刃物よりも背後に立つ真っ黒な塊に睨まれて微動だにすることができない。妖を見ても足をすくめることのない珠吉だが、妖とはまったく違う塊の気配に瞬きすらできずにいた。
光る刃物が振り下ろされた。動けない珠吉は襲い来る刃物をただ見つめることしかできずグゥッと唇を噛み締める。そうして顔をしかめながら覚悟を決めたときだった。
『おいっ!』
声とともに目の前に大きな真っ黒いものが立ちはだかった。驚く珠吉の耳に「うわぁっ」という従者の叫び声が聞こえてくる。その声に反応するかのように目の前の黒い毛がゆらゆらと揺れた。
「……もしかして茶々丸?」
思わずそう口にしたのは猫とは思えない見た目だったからだ。体は珠吉を載せたときと同じくらい大きく、しかし体を覆う毛は獣のものというより霧や煙のように揺れている。まるで炎が揺らめくような輪郭は、まさに妖といった様子だ。
『まったく、無茶をするのも大概にしろ。俺が間に合わなかったらどうするつもりだったんだ』
「ごめん。でもあの人を放っておけなくて」
珠吉の目が地面に横たわる遊女を見た。ちらっと視線を向けた茶々丸が「遊女を守りたい気持ちはわかるが、よく考えて行動しろ」と言って三本の尻尾をブンと振る。
「わかってる。守ってくれてありがとう」
『なんだ、珍しく殊勝な様子だな』
振り返った茶々丸の顔を見た珠吉はギョッとした。
「ねぇ、その口に付いてるのって……」
『心配するな。噛みついたのは念のほうだ』
茶々丸の返事に珠吉はホッとした。真っ黒な茶々丸の口には、明らかに毛とは違う黒々としたものがべっとりと付いている。色が違えば血のように見えたことだろう。それに気づいたから珠吉はギョッとし、「まさか」と考えた。
『小屋にも男が撒き散らしたものがあちこちに残っていた。そいつらに邪魔されたせいで出てくるのが遅くなった』
茶々丸が大きな体をブルン、ブルンと震わせた。そのたびにゆらゆらとした毛先が震え、それが次第にフワフワとしたものに変わっていく。気がつけば茶々丸の体はいつもの猫の大きさに戻り、毛並みも珠吉がよく知る艶々としたものになっていた。
「あっ」
小さくなった茶々丸の向こう側に従者が倒れている。しかし怪我をした様子はなく、ただ気を失っている様子に胸を撫で下ろした。
「え……?」
ホッとしたのも束の間、珠吉の目が丸くなった。従者の後ろに太い足のようなものが見えたからだ。よく見れば足首らしきところには食い千切られたような跡があり、その上には何もない。
「……茶々丸、もしかしてさっき口に付いてたのって」
『悪食とか言うなよ。これが一番手っ取り早かったんだ』
「……こういうのも食いしん坊って言っていいのかな」
『好きで食ったわけじゃない。あれが妖ならまだしも、澱んだ念の塊を食ったところで腹の足しにもならないからな』
「念の塊?」
『あの黒い塊はその男の念だ。それが膨らみすぎて具現化してしまったんだろう』
「もしかして小間物屋のところでわたしを襲ったやつと同じってこと?」
『あっちはまだ可愛げがあったがな』
茶々丸と話ながら珠吉の目は倒れている従者を見ていた。珠吉を見下ろしていた目のような穴と大きく裂けた口のようなものを思い出すだけで背筋がゾッとする。あれは従者の鬱屈した思いや周囲に抱いていた妬み、不満といったものが集まったものだったのだ。異国の地で大変な思いをしていたのかもしれないが、だからといって遊女を傷つけていい理由にはならない。
「あんなに真っ黒くて禍々しいものは初めて見た」
『あれだけの念だ、放っておいたら妖になっていたかもしれないな』
「妖に……」
異国人も妖になるのか珠吉は知らない。異国にそうした存在がいるかも知らなかった。しかし茶々丸が言うとおり妖になってもおかしくないくらいの禍々しさを漂わせていた。従者の様子も尋常ではなかった。
「ねぇ、あんなもの食べちゃってお腹壊したりしないの?」
『俺の腹はそんな柔じゃない。なんなら鰻を食う余裕もまだあるぞ』
「この食いしん坊め」
口ではそう言いながらも珠吉は茶々丸に感謝していた。もしあの黒い塊をそのままにしていたら従者も元吉原も危なかったはずだ。そのうち身も心も乗っ取られ、茶々丸が言うとおり妖になっていたかもしれない。それが新吉原に現れれば親しい遊女たちが危険な目に遭っていたかもしれないということだ。
「元吉原の遊女たちを殺めていたのは、この男だったんだね」
『念に操られていたのか、それとも自分の意志でやったのかはわからないがな』
「茶々丸はいつこの人が犯人だって気がついたの?」
『違和感を覚えたのは簪にあの異国人が触れた夜だ』
そういえば「予想外のことも起きたがな」と言っていたことを思い出す。
「あのとき簪が重くなったような気がしたのは気のせいじゃなかったんだ」
『おい、それならもっと早くにどうにかすればよかったのに、なんて言うなよ? 俺は正義の味方でも払い屋でもないんだ。そもそも簪に巻きついた念も本当にこの男のものか、あの段階でははっきりしていなかったんだからな』
妖を見ることができる珠吉も人の念までは見ることができない。それは化け猫の茶々丸も同じなのだろう。念だとわかっても、それが誰のものかはっきり見定めるのに時間がかかったのだ。
(それがわかったのが、リチャード様に藤の簪をもらったときだったんだ)
だから茶々丸は従者の足元にいたのだろう。
「この人が元吉原の犯人だってことはわかった。でも、それを突き止めるだけなら元吉原にまで来る必要はなかったよね? 警察におかしな人がいますって言えば済むことだし」
直接訴え出なくても紙に書いてどこかの警察署に投げ込めばいい。それでも動かなければ噂を流し、元吉原の遊女たちに気をつけるように促すこともできたはずだ。そもそも珠吉が危ない目に遭うかもしれない場所に茶々丸が連れて来るとは思えなかった。
『これはただのきかっけだ。おまえをここに連れて来た理由は別にある』
「どういうこと?」
『ついてこい』
いつもの調子で茶々丸がトトトと歩き出す。向かうのは華やかな表通りではなく真逆の方向だ。おとなしくついていきながらも珠吉が「また変なものがいるところじゃ?」と眉をひそめたときだった。
小径の奥に辻が見えた。角には古い祠があり、かすかに水が流れるような音が聞こえるということは隅田川が近いのかもしれない。
「ここは……?」
元吉原の一画だろうが、まったく人気がなかった。辻待ちの遊女もおらず、いくつか家屋は見えるもののほとんどが荒ら屋で住人の気配もない。珠吉がキョロキョロと辺りを見回していると、突然ぴゅうと冷たい風が吹き抜けた。風の中に人の声のようなものが聞こえた気がした珠吉が風上の祠に目を向ける。
(あれは……)
祠の傍らに何かがうっすらと立っている。白か薄灰色か、もしくは淡い青の着物に長い黒髪の女だ。
(女の幽霊?)
物心つく前から妖を見ていた珠吉にとって幽霊は恐れるものではない。妖と違って悪さをしないぶん面倒がなく、ただ存在するだけなら気にかけることもなかった。それでも積極的に見たいものではない。もしかして成仏できない遊女だろうか、まさかあの従者に殺された遊女だろうか。そんなことを思いながらじっと見る。
(それにしては動かないし、こっちを見ようともしない)
幽霊は何かを訴えたくて姿を現す。もし珠吉に何か言いたくて姿を見せたならこちらを見るはずだ。それなのに女の幽霊はどこかをぼうっと見るばかりで珠吉たちのほうを見ようともしない。
(変な幽霊だな)
それなのに何かが引っかかった。見たことがない顔なのに懐かしい気さえしてくる。
(……あれ?)
幽霊のそばにもう一人、別の人影が現れた。じぃっと見つめると、人影だと思っていたものが段々と獣の姿に変わっていく。耳はピンと尖り体は大きく、尻のあたりからは八本の尻尾らしきものが揺れていた。
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