新吉原の珠吉は三尾の化け猫と明け暮らす

朏猫(ミカヅキネコ)

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 どのくらい時間が経っただろうか。雲の隙間から覗いていた月も再び雲に覆われ始め、幽霊と化け猫の影が見えづらくなる。暗闇に紛れた輪郭が陽炎のようにゆらめき、そうかと思えば足元から薄くなり始めた。
 珠吉は一瞬、「母さん」と呼びかけそうになった。それをグッと押し留め、消えていく幽霊を見守る。幽霊のほうも珠吉に声をかけることはなく、そんな幽霊を珠吉はただじっと見つめた。
 帯が消え、胸元あたりも背後が透け始める。そうして首まで消えとき、珠吉は「え?」と小さく声を漏らした。

(いま笑った……?)

 消える直前、ほんの一瞬だったが幽霊が珠吉を見て笑ったような気がした。驚き戸惑っている間に隣にいた化け猫も幽霊の後を追うように姿を消す。あとには古い祠があるだけで、遠くで「にゃあん」と猫の鳴き声がした。
 月明かりが消えた暗闇に祠がぼんやりと浮き上がった。しばらく静かに見つめていた珠吉が「茶々丸はわたしに二人の姿を見せたくて元吉原に連れて来たんだね」とつぶやいた。それに答えるように三本の尻尾がぺしぺしと珠吉の足元を撫でる。

「二人に会えるのが今日だった、そういうこと?」
『あの男の念は妖に匹敵するほど膨れ上がっていた。膨れ上がる限界が今日だと踏んだんだ。あれほどの念を感じれば消えかかっていた二人も姿を現すに違いないと前々から考えてはいた。妖も幽霊も人の念に敏感だからな』
「そっか」

 あの男の念のおかげで両親に会えたと思うと感謝すべきかもしれないが、どうしてもそんな気持ちにはなれない。そんな珠吉の表情に気づいた茶々丸が「最後の手段だったんだ」と口にした。

『本当は行き交う人間の念でどうにかするつもりだった。だから祠を作ったというのに、この辺りはすっかり寂れて一向に念が集まらない。十六年待ってもだ』
「十六年って……」

 珠吉は今年十六歳になった。つまり珠吉が捨てられたときから両親に会わせようとしてくれていたことになる。

「昔、このあたりには店が建ち並び人も多かった。だからここに祠を作ったんだがな」

 近づくと祠の中に地蔵らしきものが見える。粗末な作りだが、誰かが手入れをしてくれているのか両脇には野の花が供えられていた。

『祈りも念の一種だ。こうした祠の地蔵でも人は祈り、願いや欲望を顕わにする。妖はそうした念に惹かれやすい』

 茶々丸が前脚でちょいちょいと花に触れた。

『たとえ体を失っても兄は化け猫だ。兄が念に惹かれて姿を現せばおまえの母親も一緒に現れるんじゃないかと思った。そして予想どおりになった』

 茶々丸の言葉にこみ上げるものがあった。しかしそれを言葉に表すのは気恥ずかしい。思わず「茶々丸って、たまにいいことするよね」と告げると、『たまにじゃないだろう』と三本の尻尾がべしっと珠吉の足を叩いた。

「ごめんってば」

 謝りながらも珠吉は「どうして母さんは妖の子どもを生むことになったんだろう」と考えた。

(それにあの化け猫は……父さんはどうして母さんの気持ちを受け入れたんだろう)

 知りたいことはいろいろある。しかし茶々丸に尋ねることはしなかった。今回のようにそのときがくればきっと話してくれる。そう思いながらしゃがんだ珠吉がそっと両手を合わせる。

『さて、こうして両親にも会えた。これでおまえも心置きなく新吉原を去ることができるだろう?』

 茶々丸の言葉に珠吉が「気づいてたんだ」と笑った。珠吉は禿ではなく遊女になる予定もない。珠吉を可愛がってくれている遊女たちのおかげで下働きとして働いているが、それにも限界がある。

(それに、いつかは大門の外に出てみたいと思ってたんだ)

 最初は小さな興味だった。お使いで仲見世に行くときに見ていた世界はおもしろく、次第に惹かれるようになった。しかし、新吉原にいる限り自分には妓楼の下働きという人生しかない。いくら太夫に可愛がられ豪華で高価なものを見ることができても、それだけだ。

(大門の外に出れば新吉原にはないものがたくさんある)

 興味はいつしか憧れに変わった。それをひた隠しにしながら珠吉は日々を生きていた。

(それに、どのみち新吉原にずっとはいられないし)

 追い出される前に出て行くほうがいい。初めてそう考えたのは体の変化を感じた十三歳のときだ。しかしどうしても踏ん切りがつかない。自分がなぜ新吉原に捨てられたのか、どうして茶々丸も一緒だったのか、新吉原に手がかりがあると考えていたからだ。

『おまえを大門前に置いたのは兄だ』

 しゃがんでいる珠吉の隣に茶々丸が座る。

『兄は妖の力をほとんど失い消えかけていた。おまえの母親はおまえを生んですぐに息を引き取り、おまえを育てることができなかった』
「……そっか」
『あの頃、すでに元吉原には陰りが見えていた。そんな元吉原よりも新吉原のほうが生き延びられると考えたんだろう。それでも心配だからと俺を付き添わせた。しかも自分の尻尾を一つ食わせてましてな』
「……お兄さんの尻尾を食べたの?」
『食いしん坊とか言うなよ。ほとんど無理やりだったんだ』

 当時を思い出したのか、三本の尻尾が不機嫌そうにゆらゆらと揺れている。

『おかげで俺は子猫の姿に戻って一から人生をやり直す羽目になった』
「どういうこと?」
『何本も尻尾を持つ妖にとって尻尾は妖力が具現化したものだ。それが一本増えるだけでも体の負担が大きい。いくら兄弟の尻尾とはいえ体が赤ん坊に戻るくらいの衝撃だったということだ』
「だから茶々丸の尻尾は三本ってことか」

 化け猫は二またの尻尾を持つことで有名だ。珠吉がこれまで見た化け猫も二まただった。それなのに茶々丸がなぜ三本持っているのか不思議だったが、ようやく理由がわかった。
 しかしそうなると別の疑問が浮かぶ。父親だという化け猫には八つの尻尾があった。一つを茶々丸が食べたとすると、もとは尻尾が九つあったことになる。

(それって丸きり化け狐じゃないか)

 九尾の妖狐は妖の中でもとくに有名で、場所によっては神様のような扱いを受けている。新吉原にも商売繁盛を願って稲荷神社があるが、境内にあるのは狛犬ではなくお狐様だ。

(まさか、本当は化け狐ってことは……)

 ちらりと隣の黒猫を見る。どこからどう見ても猫にしか見えない。たまに油揚げを食べることがあるものの好物のようにも思えない。

(……ま、いっか)

 自分がどうして新吉原に捨てられたのか、なぜ茶々丸と一緒だったのか、いまはそれがわかっただけでいい。そのうえ影とはいえ両親の姿を見ることもできた。珠吉の心は晴れ晴れとしていた。

『さぁ、新吉原に戻るぞ』
「そうだね」

 立ち上がった珠吉の足元で茶々丸がブルッと体を震わせた。それを見た珠吉が「待った!」と声を上げる。

「帰りは馬車鉄道を使うから。あんなひどい乗り物酔い、帰りもなんて冗談じゃない」
『馬車鉄道では猫の俺が乗れないだろう』
「懐に隠してこっそり乗れないかな」
『誰がおまえの懐なんかに入るか。それにすぐに見つかって蹴り出されるのがオチだ。そもそも馬車鉄道はもう終わっている時間だろう。ということで帰りも空だな』
「まだ最終があるかもしれない……って、ちょっと待って! ひゃあっ!」

 ぶるんと大きく体を震わせた茶々丸がボンと煙を上げて大きくなった。慌てて逃げようとする珠吉の帯を咥えると、行きと同じようにひょいと背中に放り投げる。

「ちょっと! 扱いが雑!」
『今度はちゃんと前向きになっただろう』
「そういう問題じゃ……ぅわっ」

 珠吉が文句を言い終わる前に茶々丸がひとっ飛びに空へと駆け上がった。そうして一度グンと下降し、そのまま宙を走り出す。腹の底がひゅんと上がるような感覚に珠吉が「茶々丸!」と声を荒げた。

『わめくと舌を噛むぞ』
「……っ」

 慌てて口を閉じた珠吉は、行きと同じように茶々丸の首にしがみついて必死に目を閉じた。
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