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年が明けたある日、リチャードが大きな風呂敷包みを抱えて新吉原にやって来た。従者ジョンの一件があって以来、リチャードは従者を連れて歩くことがなかった。新しい従者を雇っていないのか、それとも事件を思い出させてはよくないと考えてのことかはわからない。
(なんとなく後者のような気もするけど)
身請け話が進むにつれてリチャードと話をする機会が増えた珠吉はそう感じていた。言葉の端々から他人に優しく、遊女にも気を遣う異国人だということはなんとなくわかった。異国では、そういう男を“じぇんとるまん”と呼ぶらしい。一方で、生まれたときからの金持ちだからか抜けているところもあった。遊女たちはその落差がたまらないのだという。羽振りのよさも大事だが、つい世話を焼きたくなる男というのが魅力的なのだろう。
(たしかに悪い人じゃないっぽいけど)
あの伊勢太夫が妹分とまで言う珠吉の身請け話を持ちかけるくらいだから人として信頼できるに違いない。それでも珠吉が一抹の不安を覚えるのは、抜けているところがあの事件に繋がったに違いないと思えて仕方がないからだ。
(四六時中一緒にいる従者から向けられる妬み嫉みに気づかないなんてなぁ)
それとも、そういう人物だから妖を祓う力があるんだろうか。
「この着物は太夫に、あぁ、この鏡も太夫がいいかな。可愛らしい簪は禿にと思ってまとめて買ってしまったよ。こっちの襟巻きや簪は遊女たちにいいと思ってね」
そう言いながらリチャードが風呂敷の中身を並べている。出てきたのは手入れが行き届いた簪や手鏡、襟巻き、そして高価な打ち掛けまであった。伊勢太夫にとリチャードが手にした着物は京の都に住んでいた公家の姫君の持ち物だったらしく豪華な仕立てだ。手鏡は小さなものが多いが、大ぶりで値打ちのありそうなものも混じっている。漆塗りのものはおそらく大名のような身分の高い家にあったものに違いない。
年末年始を横濱の商館で過ごしたリチャードは、挨拶に来たいくつかの取引先からこれらを手に入れたのだそうだ。遊女たちへの手土産にちょうどいいと考えたのだろう。「太夫にならまだしも、普通の遊女には高価すぎるものも混じってるけど」と思いつつ、本人がそうしたいのなら口出しはしない。珠吉は「姐さんたち、喜ぶだろうな」と思いながら打ち掛けと古い手鏡を見た。
(これは……うーん、どうかなぁ)
土産物を広げているのは店に入ってすぐのところで、珠吉はちょうど店先の掃き掃除をしていた。リチャードに声をかけられ荷物を持とうとしたものの、あまりの大きさと重さにすぐに断念した。それで入り口で仕分けすることになったのだが、奥から火鉢を持ってくるとすぐに茶々丸がそばで丸くなる。
その茶々丸をちらりと見た。いつもなら妓楼を渡り歩いて残り物の相伴に預かる時間帯だが、あまりの寒さに諦めたのだろう。昨夜は遅くから雪が舞っていたようで、店先にもわずかだが白いものがあった。
珠吉の視線を感じても茶々丸は丸くなったまま顔を上げようとしない。代わりに耳をピクピクッと何度か動かした。三本の尻尾も先がトントンと床を叩くように動いている。
(やっぱりそうだよなぁ)
いくら妖を祓える力があっても、それを使いこなせるかは別だ。おそらくだがリチャードは意識して力を使うことができないのだろう。だからこうして憑き物を持ってきた。内心ため息をつきながら「こっちの手鏡はわたしが頂戴してもいいですか?」と一つを指さしながら尋ねる。
「うん? きみにはこちらの簪をと思っていたんだが……」
リチャードが手にしたのは椿の絵が描かれた簪だ。銀杏型の漆塗りで中央に真っ赤な椿の花が咲いている。きちんと結い上げた髪なら似合うだろうが、てっぺんで団子にしただけの珠吉には不釣り合いなものだ。そもそも珠吉は遊女どころか女でもない。
「お忘れかもしれませんけど、わたし、男です」
珠吉が小声で告げるとリチャードがハッとした顔をした。「それはそうなんだが……」と言いながら眉尻を下げる。
「リチャード様?」
「気を悪くしないでほしいんだが、簪を見ると、つい似合いそうだと思ってしまうんだ」
「お望みならここを出た後もこのままでいますけど」
「あぁいや、それはさすがに……そういう趣味だと思われても困るし……」
少女を買ったと思われたくないのだろうか。それともお稚児趣味だと思われるのが嫌なのだろうか。
(この国じゃ別に変じゃないけど、異国だと勝手が違うのかもな)
この国の華族や富豪には着飾った少年少女を連れて歩く者がいる。いまでこそ減ったものの侍の時代には稚児趣味もそれなりに流行っていた。吉原界隈にはそうした店はなかったが、茶屋が並ぶところにはいまも数件残っていると聞いている。最近でも女装をして華やかな舞台に立つ男が話題になったばかりだ。歌舞伎では相変わらず女形は大人気だし気にすることもない。
(その気はないから雇い主がリチャード様でよかったけど)
そんなことを思いながら珠吉ははっきりと「簪より鏡がいいです」と告げた。
「きみがそういうなら簪はほかの遊女にあげよう。鏡というのはこれかい?」
「いいえ、こちらを」
「これはまた随分と渋いものを選ぶね」
リチャードがそう口にしたのは、珠吉が選んだのが古めかしく少し大ぶりな手鏡だからだ。リチャードが「これかい?」と差し出したのは愛らしい小さな手鏡で、持ち手の部分に鳥を模した鈴が付いていた。同い年の禿ならそれを選ぶに違いない。しかし珠吉は手鏡の中でも存在感がある古めかしいものを指さした。蒔絵が施された華やかな見た目だが、それがかえって手にしづらい雰囲気を漂わせている。
「本当にこれでいいのかい?」
「はい」
不思議な顔をしながらもリチャードはその手鏡を珠吉に渡し、「きみたちも、ほら」と言って奥でそわそわしている禿たちを呼んだ。わっと出てきた禿たちの後ろには起きたばかりの遊女の姿もある。「きみたちも好きなものを選ぶといい」というリチャードの声に、入り口はあっという間に店先のように賑やかになった。
店の主人は「まいったねぇ」と言いながら咎めることはない。牡丹楼の三代目主人は気が優しく遊女や禿につらく当たることがなかった。そうした主人だから珠吉は男ながら妓楼で生きていくことができたのだと感謝している。
「騒がしくして申し訳ない」
「いいえ、珠吉もお世話になるんですからかまいませんよ。それに年明けの昼間はお客様もおりませんしね」
「伊勢太夫のところに土産を持って行ってもかまわないか?」
「もちろんですとも。珠吉、頼むよ」
「ご案内します」
太夫にとより分けていた着物や簪などを手早く風呂敷で包むと手鏡と一緒に持ちながら立ち上がった。そのまま「こちらへ」とリチャードを促し二階の奥座敷へ向かう。
「伊勢太夫、リチャード様がいらっしゃいました」
昨夜は泊まり客がいなかったため、すでに朝食を済ませて部屋に戻っている。声をかけても大丈夫だろうと襖越しに来客を告げると、「あら」という声とともに襖が開いた。ちょうど廊下に出ようとしていたのか開けたのは太夫で、ゆったりした着物姿にリチャードが目元を赤くする。「もう何度も通っているのに初心な反応だな」と思った珠吉だが、そういえばリチャードが本格的な朝帰りをしたことがないのを思い出した。太夫のもとに来たときも宴会ばかりで、座敷にはほかの遊女も呼ばれる。もしかして奥の部屋を使ったことがないんだろうかと襖を見ながら「お荷物、こちらに置きますね」と言って座敷に風呂敷包みを置いた。
「やけに下が賑わっていると思ったらリチャード様でしたか」
「お土産をたんとお持ちになったんです。しかも禿たちにまでですよ」
「おやまぁ、正月早々豪勢だこと」
微笑みながら「どうぞ」とリチャードを座敷へと促す。
「太夫にはお着物と簪だそうです」
「あらまぁ、うれしい。珠吉も何か頂戴したの?」
「はい」
頷く珠吉の手元を見た太夫が「あらあら」と目を細めた。それを見たリチャードが「はじめは簪を考えていたんだけどね」と苦笑する。
「珠吉がそれがいいと言ったのでしょう? きっと珠吉の手に渡るべき鏡だったということね」
「少し古めかしくはないかな?」
「ふふふ、リチャード様もいずれおわかりになるわ」
伊勢太夫は珠吉が見えないものを見ることができると知っている。牡丹楼に古くからいる遊女たちは全員知っているが、太夫のように気味悪がらない者は少ない。それでも珠吉が爪弾きにされないのは、昔から新吉原のような遊郭では妖や幽霊といった存在が珍しくないからだ。
「そうだ、珠吉。ちょいとお使いを頼めるかしら」
「はい」
「門前町に臨時の洋菓子屋が建つというんだけどね、チョコレエトクリィムがあるそうなの。ほら、前に桜蘭楼で振る舞われたっていう、あれ」
珠吉が知っているチョコレエトといえばエクレエルだ。しかしチョコレエトクリィムだけを食べたことはない。それを桜蘭楼で太夫が振る舞ったという話を聞いたのは年の瀬だった。
(太夫姐さん、案外負けず嫌いだからなぁ)
牡丹楼を背負う一番席の太夫として負けていられないと思ったのだろう。
「これで買えるだけ買ってきておくれ」
渡された紙幣は相変わらず驚くような金額だった。二人のやり取りを見ていたリチャードが「横濱のレンガ通りにも数件、チョコレート菓子を売る店ができたね」と話に参加する。
「クッキーやビスケットにもよく合う。チョコレートを売っているなら焼き菓子も売っているだろうから、これで焼き菓子も買ってくるといい」
リチャードが差し出した紙幣に「団子なら何十個分だろう」と頬を引きつらせた。太夫もだがリチャードも金銭感覚が少しおかしい。「わかりました」と受け取った珠吉は、太夫の部屋を出ると一度自分の部屋に戻った。
「ぅわっ。なんだ茶々丸、戻ってたの」
襖を開けると店の出入り口にいたはずの茶々丸がくわっと大あくびをしていた。「こっちは寒いでしょ」と言いながら机に鏡を置いたところで「おい」と茶々丸が声をかける。
『また面倒なものをもらったな』
「悪さはしないだろうけど、着物よりこっちのほうが怖がるかと思って」
『さぁて、着物もどうかはわからないぞ』
「太夫姐さんなら平気でしょ」
『ま、そうだな』
「それにしてもリチャード様が持って来たのにこれってことは、やっぱり意識して力を使えないってことなのかな」
『払い屋じゃないんだ。それに異国人にこの国の妖が見えるのかもわからない』
「それじゃあ、前の簪のときは無意識に祓ったってこと?」
『だろうな。そもそもあの異国人は自分の力に気づいていない』
「便利なんだか不便なんだかわからないね。あ、これからちょっとお使いに行ってくるから」
お使いという言葉に茶々丸の耳がピンと立った。「どこに行く?」と問われ「門前町」と答えると緑色の目が光る。
『こう寒いと甘酒が飲みたくなるな』
「ちょっと、猫のくせに甘酒飲む気? 人前ではやめなよ」
『焼きたての団子でもいいぞ』
「喉に詰まらせても知らないからね」
『せっかくの正月なんだ、景気よく鰻でもいいな』
「時期じゃありません。茶々丸はお留守番してなよ」
襖を開けたが茶々丸が付いてくる気配はない。さすがの食いしん坊も寒さには勝てないのだろう。
上着に襟巻きを巻いた珠吉は、まだ賑やかに土産物を見ている禿たちを横目に「お使いに行ってきます!」と奥にいる主人に声をかけた。「気をつけるんだよ」という声に「はぁい!」と返事をして外に出た途端に、ぴゅうっと冷たい風が頬を撫でる。
「さむっ」
思わず首をすくめながら大門へと足早に向かった。新吉原もだが、大門の外も正月らしい賑わいを見せている。近くに大きな寺社があるため門前町はお参り客がひしめき合い、人々の間をすり抜けるのも一苦労だ。目的の洋菓子屋を探しながら「横濱はもっと賑わってるって言ってたっけ」とリチャードの話を思い出す。
(この景色も今年で見納めかぁ)
そう思うと感慨深くなった。生まれてすぐに新吉原に捨てられた珠吉にとって新吉原と門前町は故郷のようなものだ。しかし新吉原は一度出たら里帰りすることはできない。男に戻れば門前町に顔を出すのも控えたほうがいいだろう。もし珠吉が男だとばれれば牡丹楼に迷惑をかけることになる。
(けっこう好きな場所だったんだけどなぁ)
少しの寂しさを覚えながら洋菓子屋へ入った珠吉は、チョコレエトクリィムとビスケットを買えるだけ買った。差し出した紙幣を見た店員はギョッとし、「ですよねぇ」と愛想笑いを浮かべながら両手いっぱいに菓子を持つ。
店の外で「よいしょ」と荷物を抱え直すと真っ白な息が空に消えた。賑やかな声を聞きながら、珠吉は慣れ親しんだ門前町を抜け大門へと足早に向かった。
(なんとなく後者のような気もするけど)
身請け話が進むにつれてリチャードと話をする機会が増えた珠吉はそう感じていた。言葉の端々から他人に優しく、遊女にも気を遣う異国人だということはなんとなくわかった。異国では、そういう男を“じぇんとるまん”と呼ぶらしい。一方で、生まれたときからの金持ちだからか抜けているところもあった。遊女たちはその落差がたまらないのだという。羽振りのよさも大事だが、つい世話を焼きたくなる男というのが魅力的なのだろう。
(たしかに悪い人じゃないっぽいけど)
あの伊勢太夫が妹分とまで言う珠吉の身請け話を持ちかけるくらいだから人として信頼できるに違いない。それでも珠吉が一抹の不安を覚えるのは、抜けているところがあの事件に繋がったに違いないと思えて仕方がないからだ。
(四六時中一緒にいる従者から向けられる妬み嫉みに気づかないなんてなぁ)
それとも、そういう人物だから妖を祓う力があるんだろうか。
「この着物は太夫に、あぁ、この鏡も太夫がいいかな。可愛らしい簪は禿にと思ってまとめて買ってしまったよ。こっちの襟巻きや簪は遊女たちにいいと思ってね」
そう言いながらリチャードが風呂敷の中身を並べている。出てきたのは手入れが行き届いた簪や手鏡、襟巻き、そして高価な打ち掛けまであった。伊勢太夫にとリチャードが手にした着物は京の都に住んでいた公家の姫君の持ち物だったらしく豪華な仕立てだ。手鏡は小さなものが多いが、大ぶりで値打ちのありそうなものも混じっている。漆塗りのものはおそらく大名のような身分の高い家にあったものに違いない。
年末年始を横濱の商館で過ごしたリチャードは、挨拶に来たいくつかの取引先からこれらを手に入れたのだそうだ。遊女たちへの手土産にちょうどいいと考えたのだろう。「太夫にならまだしも、普通の遊女には高価すぎるものも混じってるけど」と思いつつ、本人がそうしたいのなら口出しはしない。珠吉は「姐さんたち、喜ぶだろうな」と思いながら打ち掛けと古い手鏡を見た。
(これは……うーん、どうかなぁ)
土産物を広げているのは店に入ってすぐのところで、珠吉はちょうど店先の掃き掃除をしていた。リチャードに声をかけられ荷物を持とうとしたものの、あまりの大きさと重さにすぐに断念した。それで入り口で仕分けすることになったのだが、奥から火鉢を持ってくるとすぐに茶々丸がそばで丸くなる。
その茶々丸をちらりと見た。いつもなら妓楼を渡り歩いて残り物の相伴に預かる時間帯だが、あまりの寒さに諦めたのだろう。昨夜は遅くから雪が舞っていたようで、店先にもわずかだが白いものがあった。
珠吉の視線を感じても茶々丸は丸くなったまま顔を上げようとしない。代わりに耳をピクピクッと何度か動かした。三本の尻尾も先がトントンと床を叩くように動いている。
(やっぱりそうだよなぁ)
いくら妖を祓える力があっても、それを使いこなせるかは別だ。おそらくだがリチャードは意識して力を使うことができないのだろう。だからこうして憑き物を持ってきた。内心ため息をつきながら「こっちの手鏡はわたしが頂戴してもいいですか?」と一つを指さしながら尋ねる。
「うん? きみにはこちらの簪をと思っていたんだが……」
リチャードが手にしたのは椿の絵が描かれた簪だ。銀杏型の漆塗りで中央に真っ赤な椿の花が咲いている。きちんと結い上げた髪なら似合うだろうが、てっぺんで団子にしただけの珠吉には不釣り合いなものだ。そもそも珠吉は遊女どころか女でもない。
「お忘れかもしれませんけど、わたし、男です」
珠吉が小声で告げるとリチャードがハッとした顔をした。「それはそうなんだが……」と言いながら眉尻を下げる。
「リチャード様?」
「気を悪くしないでほしいんだが、簪を見ると、つい似合いそうだと思ってしまうんだ」
「お望みならここを出た後もこのままでいますけど」
「あぁいや、それはさすがに……そういう趣味だと思われても困るし……」
少女を買ったと思われたくないのだろうか。それともお稚児趣味だと思われるのが嫌なのだろうか。
(この国じゃ別に変じゃないけど、異国だと勝手が違うのかもな)
この国の華族や富豪には着飾った少年少女を連れて歩く者がいる。いまでこそ減ったものの侍の時代には稚児趣味もそれなりに流行っていた。吉原界隈にはそうした店はなかったが、茶屋が並ぶところにはいまも数件残っていると聞いている。最近でも女装をして華やかな舞台に立つ男が話題になったばかりだ。歌舞伎では相変わらず女形は大人気だし気にすることもない。
(その気はないから雇い主がリチャード様でよかったけど)
そんなことを思いながら珠吉ははっきりと「簪より鏡がいいです」と告げた。
「きみがそういうなら簪はほかの遊女にあげよう。鏡というのはこれかい?」
「いいえ、こちらを」
「これはまた随分と渋いものを選ぶね」
リチャードがそう口にしたのは、珠吉が選んだのが古めかしく少し大ぶりな手鏡だからだ。リチャードが「これかい?」と差し出したのは愛らしい小さな手鏡で、持ち手の部分に鳥を模した鈴が付いていた。同い年の禿ならそれを選ぶに違いない。しかし珠吉は手鏡の中でも存在感がある古めかしいものを指さした。蒔絵が施された華やかな見た目だが、それがかえって手にしづらい雰囲気を漂わせている。
「本当にこれでいいのかい?」
「はい」
不思議な顔をしながらもリチャードはその手鏡を珠吉に渡し、「きみたちも、ほら」と言って奥でそわそわしている禿たちを呼んだ。わっと出てきた禿たちの後ろには起きたばかりの遊女の姿もある。「きみたちも好きなものを選ぶといい」というリチャードの声に、入り口はあっという間に店先のように賑やかになった。
店の主人は「まいったねぇ」と言いながら咎めることはない。牡丹楼の三代目主人は気が優しく遊女や禿につらく当たることがなかった。そうした主人だから珠吉は男ながら妓楼で生きていくことができたのだと感謝している。
「騒がしくして申し訳ない」
「いいえ、珠吉もお世話になるんですからかまいませんよ。それに年明けの昼間はお客様もおりませんしね」
「伊勢太夫のところに土産を持って行ってもかまわないか?」
「もちろんですとも。珠吉、頼むよ」
「ご案内します」
太夫にとより分けていた着物や簪などを手早く風呂敷で包むと手鏡と一緒に持ちながら立ち上がった。そのまま「こちらへ」とリチャードを促し二階の奥座敷へ向かう。
「伊勢太夫、リチャード様がいらっしゃいました」
昨夜は泊まり客がいなかったため、すでに朝食を済ませて部屋に戻っている。声をかけても大丈夫だろうと襖越しに来客を告げると、「あら」という声とともに襖が開いた。ちょうど廊下に出ようとしていたのか開けたのは太夫で、ゆったりした着物姿にリチャードが目元を赤くする。「もう何度も通っているのに初心な反応だな」と思った珠吉だが、そういえばリチャードが本格的な朝帰りをしたことがないのを思い出した。太夫のもとに来たときも宴会ばかりで、座敷にはほかの遊女も呼ばれる。もしかして奥の部屋を使ったことがないんだろうかと襖を見ながら「お荷物、こちらに置きますね」と言って座敷に風呂敷包みを置いた。
「やけに下が賑わっていると思ったらリチャード様でしたか」
「お土産をたんとお持ちになったんです。しかも禿たちにまでですよ」
「おやまぁ、正月早々豪勢だこと」
微笑みながら「どうぞ」とリチャードを座敷へと促す。
「太夫にはお着物と簪だそうです」
「あらまぁ、うれしい。珠吉も何か頂戴したの?」
「はい」
頷く珠吉の手元を見た太夫が「あらあら」と目を細めた。それを見たリチャードが「はじめは簪を考えていたんだけどね」と苦笑する。
「珠吉がそれがいいと言ったのでしょう? きっと珠吉の手に渡るべき鏡だったということね」
「少し古めかしくはないかな?」
「ふふふ、リチャード様もいずれおわかりになるわ」
伊勢太夫は珠吉が見えないものを見ることができると知っている。牡丹楼に古くからいる遊女たちは全員知っているが、太夫のように気味悪がらない者は少ない。それでも珠吉が爪弾きにされないのは、昔から新吉原のような遊郭では妖や幽霊といった存在が珍しくないからだ。
「そうだ、珠吉。ちょいとお使いを頼めるかしら」
「はい」
「門前町に臨時の洋菓子屋が建つというんだけどね、チョコレエトクリィムがあるそうなの。ほら、前に桜蘭楼で振る舞われたっていう、あれ」
珠吉が知っているチョコレエトといえばエクレエルだ。しかしチョコレエトクリィムだけを食べたことはない。それを桜蘭楼で太夫が振る舞ったという話を聞いたのは年の瀬だった。
(太夫姐さん、案外負けず嫌いだからなぁ)
牡丹楼を背負う一番席の太夫として負けていられないと思ったのだろう。
「これで買えるだけ買ってきておくれ」
渡された紙幣は相変わらず驚くような金額だった。二人のやり取りを見ていたリチャードが「横濱のレンガ通りにも数件、チョコレート菓子を売る店ができたね」と話に参加する。
「クッキーやビスケットにもよく合う。チョコレートを売っているなら焼き菓子も売っているだろうから、これで焼き菓子も買ってくるといい」
リチャードが差し出した紙幣に「団子なら何十個分だろう」と頬を引きつらせた。太夫もだがリチャードも金銭感覚が少しおかしい。「わかりました」と受け取った珠吉は、太夫の部屋を出ると一度自分の部屋に戻った。
「ぅわっ。なんだ茶々丸、戻ってたの」
襖を開けると店の出入り口にいたはずの茶々丸がくわっと大あくびをしていた。「こっちは寒いでしょ」と言いながら机に鏡を置いたところで「おい」と茶々丸が声をかける。
『また面倒なものをもらったな』
「悪さはしないだろうけど、着物よりこっちのほうが怖がるかと思って」
『さぁて、着物もどうかはわからないぞ』
「太夫姐さんなら平気でしょ」
『ま、そうだな』
「それにしてもリチャード様が持って来たのにこれってことは、やっぱり意識して力を使えないってことなのかな」
『払い屋じゃないんだ。それに異国人にこの国の妖が見えるのかもわからない』
「それじゃあ、前の簪のときは無意識に祓ったってこと?」
『だろうな。そもそもあの異国人は自分の力に気づいていない』
「便利なんだか不便なんだかわからないね。あ、これからちょっとお使いに行ってくるから」
お使いという言葉に茶々丸の耳がピンと立った。「どこに行く?」と問われ「門前町」と答えると緑色の目が光る。
『こう寒いと甘酒が飲みたくなるな』
「ちょっと、猫のくせに甘酒飲む気? 人前ではやめなよ」
『焼きたての団子でもいいぞ』
「喉に詰まらせても知らないからね」
『せっかくの正月なんだ、景気よく鰻でもいいな』
「時期じゃありません。茶々丸はお留守番してなよ」
襖を開けたが茶々丸が付いてくる気配はない。さすがの食いしん坊も寒さには勝てないのだろう。
上着に襟巻きを巻いた珠吉は、まだ賑やかに土産物を見ている禿たちを横目に「お使いに行ってきます!」と奥にいる主人に声をかけた。「気をつけるんだよ」という声に「はぁい!」と返事をして外に出た途端に、ぴゅうっと冷たい風が頬を撫でる。
「さむっ」
思わず首をすくめながら大門へと足早に向かった。新吉原もだが、大門の外も正月らしい賑わいを見せている。近くに大きな寺社があるため門前町はお参り客がひしめき合い、人々の間をすり抜けるのも一苦労だ。目的の洋菓子屋を探しながら「横濱はもっと賑わってるって言ってたっけ」とリチャードの話を思い出す。
(この景色も今年で見納めかぁ)
そう思うと感慨深くなった。生まれてすぐに新吉原に捨てられた珠吉にとって新吉原と門前町は故郷のようなものだ。しかし新吉原は一度出たら里帰りすることはできない。男に戻れば門前町に顔を出すのも控えたほうがいいだろう。もし珠吉が男だとばれれば牡丹楼に迷惑をかけることになる。
(けっこう好きな場所だったんだけどなぁ)
少しの寂しさを覚えながら洋菓子屋へ入った珠吉は、チョコレエトクリィムとビスケットを買えるだけ買った。差し出した紙幣を見た店員はギョッとし、「ですよねぇ」と愛想笑いを浮かべながら両手いっぱいに菓子を持つ。
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