新吉原の珠吉は三尾の化け猫と明け暮らす

朏猫(ミカヅキネコ)

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「リチャード様?」

 呼びかけに碧眼がハッと珠吉を見た。戸惑うようにもう一度地面に落ちた鏡を見るが、もう女の顔は映っていない。それでもなお鏡を見ながら「どういうことだ?」と眉を寄せている。

「どうして鏡に松山卿の娘が映っているんだ?」
「松山卿?」
「松山卿は横濱に住む商人で、元は貴族、あぁ、この国では旧華族と言うんだったか、そうした身分だったと聞いている」

「その娘がどうして鏡に……?」とつぶやく声は戸惑いの色が濃い。一方、珠吉はなるほどと納得した。横濱に住む商人ならリチャードとのつき合いもそこそこあるだろう。その家の娘が生き霊の正体なら納得もいく。
 しかし、なぜ鏡に生き霊の正体が映ったのだろうか。付喪神にそんな力はなかったはずなのにと眉をひそめる珠吉を三本の尻尾がペシッと叩いた。

『この付喪神、元は照魔鏡しょうまきょうだったみたいだな』

 茶々丸の言葉に「えぇ」と珠吉が眉を寄せる。

「それって妖の姿を見せる鏡じゃなかったっけ」
『あれだけ強烈な気配を漂わせていれば生き霊でも鏡に映るだろう』
「たしかにあの臭いはひどかったけど……っと、」

 ギョッとしているリチャードに珠吉が気がついた。突然独り言を話し始めて驚いたのだろう。「ええと、これは」と言い訳を考える珠吉の足を茶々丸が再び尻尾でペシッと叩く。

『どうやら異国人には俺の声が聞こえているようだぞ』
「えぇ? まさか……」

 リチャードを見ると大きく見開いた碧眼が茶々丸を見ていた。

「本当に?」
『異国人さん、聞こえているんだろう?』
「…………もしかして、さっきから聞こえるこの声はこの猫の……なのか?」

 足元の黒猫を見ながらリチャードが眉をひそめた。

『ほらな』
「……ねぇ、もしかして前から茶々丸の声が聞こえてたとか?」
『いいや。おそらく照魔鏡の影響を一時的に受けているんだろう。もし普段から俺の声が聞こえるくらいなら生き霊にもとっくに気づいているはずだ』

 ちらりと見たリチャードは「しゃべる猫? いやまさか……しかしいまの声は」と額を押さえている。

「生き霊のほうには気づいてないみたいだね」

 囁く珠吉にリチャードがパッと顔を上げた。

「イキリョウ? イキリョウ、いきりょう、聞いたことがあるな……そうだ、たしかゴーストを指す言葉だ」
「ごーす……?」
「ゴースト、幽霊のことだ」
「あー、幽霊とは少し違いますけど……」

 話しながら、珠吉はふと目眩が収まっていることに気がついた。鼻をつくような不快な匂いも薄くなっている。

(……もしかしてリチャード様が触れたから?)

 リチャードが肩を掴んだのはわずかの間だが、簪のときのように無意識に祓う力を使ったのだろう。その衝撃でついてきた鏡が落ちたに違いない。

(つまり、いまならリチャード様は力を使えるかもしれないってことだ。……それなら生き霊を祓うことができるかもしれない)

 見えなくても祓う力さえあれば可能性はある。そう考えた珠吉は「ちょっと手伝ってもらえますか?」とリチャードを見た。

「手伝う?」
「はい」

 珠吉の申し出にリチャードが首を傾げる。足元では茶々丸が「おい」と前脚で着物の裾を引っ張った。

「だって、このままじゃどのみちよくないでしょ」
『それはそうだが……いいのか?』

 茶々丸が気にしているのはリチャードが新しい雇い主だからだろう。ここで妖や幽霊の話を続ければ不気味がられるかもしれない。そうなればせっかくの身請け話、もとい雇い話もなかったことになりかねない。

「心配してくれてるのはわかってる。でも、やっぱりこのままにはしておけない」

 珠吉の言葉に『まったく』とため息をついた茶々丸が前脚を引っ込めた。

『おまえは案外頑固だからな』
「だって、このままじゃいつか太夫姐さんたちにもよくないことが起きる。わかってて放っておくなんてできないよ」
『最後のご奉公ってやつか』
「このままじゃ茶々丸だって気になるでしょ」

 話をじっと聞いていたリチャードが「さっき鏡に映ったのは幽霊なんだな?」と確認した。

「そしてあの幽霊はわたしに取り憑いている、そうなんだな?」
「正確には幽霊じゃありませんけど、似たようなものです」
「このままでは牡丹楼に何か起きるのか?」
「わかりません。でも、おそらくは」

 珠吉の返事にしばらく考え込んだリチャードは、「何を手伝えばいい?」と珠吉を見た。

「手伝っていただけるんですか?」
「そうしなければ牡丹楼や伊勢太夫が危ない目に遭うんだろう? わたしはそれを望まない」
「……ありがとうございます」

 予想していなかった申し出に珠吉は内心ホッとしていた。てっきり不気味がられるかと思っていたが、この異国人は案外肝が据わっている。いや、妖や幽霊を感じないからこそ平気なのかもしれない。

「鏡に映ってるこの人のこと、知ってるんですよね?」

 リチャードの右肩あたりを鏡に映しながら珠吉がそう尋ねた。鏡にはぼんやりとながら洋装の女が映っている。

「あぁ。この女性は松山卿の三女、早恵さえさんだ。間違いない」

 珠吉が鏡を覗き込むと、映っていた女の顔が恐ろしい形相に変わった。それを見たリチャードが目を見開くと、気配でそれを感じたのか生き霊が鏡から逃れようと体を伸ばす。生き霊であっても醜い自分を見られたくないのだろう。しかしリチャードに憑いているため頭二つ分ほどしか離れることができない。

「年明けに赤坂の迎賓館で会ったばかりだ。あのときは振り袖の着物姿だった」

 リチャードの言葉に、今度はうれしそうにゆらゆらと揺れ出した。穴蔵のような目と口の裂け目を三日月型にしながらぐぅんと左肩へ頭を伸ばす。そうして覗き込むようにリチャードを見た。珠吉には一連の動きが見えているが、やはりリチャードには見えてないらしい。すぐそばに幽霊にも似た顔があるが平然としている。

「その人と何か揉めてませんか?」
「いいや。何度か食事に誘われたくらいだな」
「その食事、行きました?」
「断った。誰か一人と行けばほかの人たちとも行かなくてはいけなくなる。それに二人きりで食事に行けば気を持たせてしまうことになる。そんなことはできない」
「……なるほど」

 どうやら大勢に好意を寄せられていることには気づいているらしい。そして誰の気持ちも受け取る気がないこともわかった。
 生き霊はリチャードの声が聞こえないのか、まるで作り物の面のような笑みでリチャードを見つめていた。ときどきゆらゆらと揺れるのは興奮しているからだろう。もし実際の顔があったなら頬を染めていたかもしれない。
 生き霊が落ち着いているうちに何か方法を考えなくては……珠吉だけでなく茶々丸もそう思ったのか、一人と一匹の目がぱちりと合った。

「こういうとき、どうすれば消えてくれると思う?」
『さぁて、生き霊になるくらい強く思っている女が簡単に消えるとは思えないが』
「でもこのままじゃ太夫姐さんにも被害が出るでしょ?」
『おそらくな。生き霊とは思えない強さに照魔鏡が反応したくらいだ。こうなったら本人が諦めるまで異国人の近くにいる女全員の前に現れかねないぞ』
「そっか、本人に諦めさせれば消えるかもしれないってことか……」

 だが、それがもっとも難しい。珠吉がウンウンと考えていると茶々丸が足元を尻尾でペシッと叩いた。

『いい方法があるぞ』
「なに?」
『異国人が思い人がいるのだと言えばいい』
「好きな人を告白させるってこと?」
『自分の思いは叶わないのだとわかれば、あるいは衝撃を受けてしばらくは消えるかもしれない。妖も幽霊も驚くと大抵は姿を消す。生き霊もおそらく似たような反応をするはずだ』
「でも、それじゃあまた戻って来る」
『再び取り憑かれる前にお札でもなんでもいいから持たせればいい』

 相談し合う一人と一匹をリチャードが難しい顔で見ていた。そうして珠吉が提案しようとするのを遮るように「いないぞ」とリチャードが口にする。

「まさか、好きな人いないんですか?」
「これまで商売のことばかりでそれどころではなかったんだ」
「それじゃあ……好きとまではいかなくても好意を抱いている相手はいませんか?」
「好意か……」

 悩む姿にまさかと驚いた。どう見てもそれなりの年齢だというのに恋人の一人もいないなんてあり得るだろうか。「いや、恋人がいたら遊郭で豪遊三昧なんてしないか」と思ったところで「あ!」と珠吉が声を上げる。

「伊勢太夫はどうですか? これだけ通い詰めているんですから、多少は気持ちがあるんですよね?」
「いいや、彼女に男女の好意は抱いてない。太夫には尊敬と敬愛を持って接している」
「……それって遊女に抱く感情じゃないと思いますけど」
「遊郭の女性であろうと尊敬できる人物は尊敬する。彼女は慈悲深く知性豊かでわたしに様々なことを教えてくれる。あの慈愛に満ちた微笑みは幼い頃から何度も見た聖母マリアのようだ」
「せいぼ……?」
『たしか異国の神様じゃなかったか?』
「えぇ……」

 たしかに伊勢太夫は弁天様と呼ばれるほど美しい。それは見た目だけでなく芸事も才も新吉原一だと言われているからだ。しかし生まれたときからそばにいる珠吉は、彼女がそれだけでないこともよく知っていた。とくに閨事は誰よりも長けていて、太夫と同衾した者は忘れられずに牡丹楼に通い詰める。そのせいで勘当されかかった若旦那も片手で収まらないくらいだ。
 引きつる頬で「それじゃあ、ほかに誰か適当な人を」と言いかけた足を茶々丸がぴしゃんと叩いた。「何さ?」と見れば「適当な人物ならいるだろう」と髭をひくつかせる。

「誰?」
『おまえだ』
「……えぇ?」
『万が一のことがあっても俺がいる。牡丹楼の誰かを身代わりにするよりましだろう』
「それはそうだけど……えぇ……」

 珠吉が渋い顔でリチャードを見た。リチャードのほうも困惑したような表情を浮かべている。

『いまだけだ』
「それでもなぁ」
『このままでは周囲に何かしら影響を与えるだけでは収まらなくなるぞ。これだけ強い気配なら、いずれ妖になってもおかしくない』

 茶々丸の言葉に珠吉がグッと唇を噛み締めた。生き霊がどんなご令嬢かは知らないが、妖になるのを放っておいては気分が悪い。

「でもいまの話、生き霊も聞いてるよね?」
『どうだろうな。さっきから異国人に見惚れっぱなしだからな』

 見れば生き霊は変わらず満面の笑みでリチャードを見ている。実際にはあんな近くで見ることができないから夢中なのだろう。
 ため息をついた珠吉は、「仕方ないか」と覚悟を決めリチャードにスッと身を寄せた。それに気づいた生き霊がゆらゆらと揺れる。三日月の形をしていた穴蔵の目が少しずつ目尻を持ち上げ始めた。それに気づきながらリチャードの胸元を引っ張り、内緒話をするように耳に口を近づける。

「わたしを身請けするのだと生き霊に話してください」
「身請け話を?」
「はい。一応、表向きは身請けですから嘘じゃありません。それならリチャード様も言いやすいですよね?」
「そうすればイキリョウは消えるんだな?」
「おそらく」

 珠吉の返事にリチャードが小さく頷いた。顔を離し、真面目な表情を浮かべると「もうすぐ身請けの日が来るな」と話し始める。

「そうですね」
「身請けの話をしたのは昨年だったが、早くその日が来ないかと待ち遠しかった」
「そうおっしゃっていただけるとうれしいです」

 珠吉がそっとリチャードの腕に触れる。途端に生き霊が音にならない叫び声を上げた。リチャードには聞こえていないが、金属を擦り合わせたような音に珠吉は眉を寄せ茶々丸は全身の毛を逆立てている。

「住居は横濱に用意してある。身一つで来てくれてかまわない」
「ありがとうございます」
「身請けとなれば生活のすべてを用意するものだろう? 遠慮しなくていい」

 リチャードの返事に「うれしい」と身を寄せた珠吉が意味ありげに指先でコートの胸元を撫でる。その瞬間、凄まじい金属音が雷のように鳴り響いた。
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