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拓巳と優一が一緒に暮らし始めて二カ月が過ぎた。
豪邸に少しずつ慣れてきた拓巳だが、いまだに生活空間は広いリビングと与えられた寝室に留まっている。ほかの部屋も自由に使っていいと言われているものの、汚したり何か壊してしまったらと思うとドアを開けることすらできない。
週一でハウスクリーニングが入ると聞いたときには、さすがセレブだと思った。同時に豪邸に似つかわしくない自分がいても大丈夫だろうかと緊張したのだが、ほとんどがハウスロボットによるものでホッとした。
拓巳が一日の多くを過ごす広いリビングからは立派な庭が見える。庭も自由に散策していいと言われてはいるものの、なんとなく場違いな気がして外に出る気になれない。とくに昨日からは腹部に違和感があるせいか歩くのもおっくうに感じていた。
この家に来て一週間後に初めて感じた腹部の違和感は、先月も三日間ほど感じた。そのとき全身が少し熱っぽいような気がしたが、今回はそれにプラスして倦怠感もある。そのせいでリビングを歩くのも面倒なくらいだ。
拓巳は優一が外出した後、寝室から持ち出したタオルケットにくるまりながら、ソファの上でぼんやりと庭を見ていた。
(ついこの前まではこんなことなかったのになぁ)
小学生の頃に何度か風邪をひいたことはあったが軽いもので、中学生になってからは風邪すらひいていない。体を売るようになってから冬に何度か野宿もしたが、寒さが堪えることはあっても病気になることはなかった。それなのに今月もまた体調がおかしいなんて、自分の体はどうしてしまったんだろうかと不安になる。
「優一さんの家にいられる間はいいけど、元の生活に戻ったらどうなるんだろ」
口に出したら、ますます心配になってきた。こんなことでは以前と同じ生活は送れないに違いない。なによりそういった行為もご無沙汰なわけで、これまでのように客の相手をできるか不安だった。
(結局、なんで俺を買ったんだろうな……)
二カ月経っても優一の態度は変わらなかった。相変わらず拓巳の食事に気を遣い、睡眠時間や日光浴までも気にし始めている。体の関係を求められることはなく、手や口を使って奉仕することもない。ただ食事と寝床を与えられるだけなんて、これじゃまるでペットか何かになった気分だ。
「……ほんとにそうだったりして」
思わず出たつぶやきに拓巳は「ははっ」と笑った。セレブの考えることはわからないが、場違いなSNSで男を探したうえに半年もまとめ買いするような人だ。そういう変わった趣味があったとしても不思議じゃない。
そもそも自分にはセレブに買われるような価値はないのだ。最初からわかっていたことなのに、いまさら何を考えているんだろう。むしろそれはそれでいいじゃないかと思いながら、拓巳の心はなぜかツキンと痛んだ。
(……あと四カ月か)
優一に提示された契約期間が終わるまで、あと四カ月。それまでこうした生活が続くのだろう。一日三食食べて昼寝もでき、おかしな行為を強要されることも暴力を振るわれることもない、なんとも贅沢な毎日だ。それで十分じゃないかと思っているのに針で刺されるように胸の奥がチクチク痛む。
熱っぽい頭でこれ以上何か考えるのは無理だと判断した拓巳は、肌触りのいいタオルケットを頭からすっぽりと被り目を閉じた。
しばらくするとどこからか声のようなものが聞こえてきて意識が浮上した。
「またソファで寝ていたな。いくら空調がきいているとはいえ、風邪をひくぞ」
近くで優一の声がする。そう思って目を開けると、予想どおりすぐそばに整った顔があった。
「あれ……?」
「熱が上がっている。今夜はもう寝たほうがいい」
整った顔は朝見たままだが、どうして斜め下にあるんだろう……そう思った拓巳は、自分の体が少し揺れているような気がして視線を横にずらした。そこには見慣れたドアがあり、さらに視線を動かすと大きなベッドが見える。ここは毎日自分が使っている寝室で、優一が運んでくれたのだとわかった。
「優一さん、俺……」
「あとで栄養ドリンクを持ってきてあげるから、それまで寝ているといい」
ぼんやりとした頭で話を聞いていた拓巳の体が、ゆっくりと何かに沈み込む。ふわりと香ったのはシーツから漂う清潔な香りで、自分がベッドに寝かされたことがわかった。
「俺、熱が出て……?」
「急激な変化のせいだろうね。大丈夫、栄養ドリンクを飲んでわたしが選んだ食事をしていれば、すぐに慣れるよ」
「あの……、すいません」
「どうした?」
「だって俺、買われた体なのに……」
拓巳の掠れた声に優一がふわりと笑う。
「拓巳くんが謝る必要はない。それに思った以上に早く馴染んでいるようだし、十分期待に応えてくれている」
言葉の意味がわからず視線を向けると、ひんやりした手に瞼をそっと覆われた。熱っぽいせいか手の冷たさがやけに気持ちいい。そのままうとうとする拓巳の耳に、独り言のような優一の声が入ってきた。
「二カ月でこれなら、来月は本格的な発情を迎えるだろうね。いまから楽しみだ」
(……はつじょう、って……?)
どんな意味だったっけと考えようとしたものの、ぼんやりした頭ではうまく考えることができない。そのまま抗いがたい睡魔に襲われた拓巳は、何かが引っかかりながらもすぅっと意識を手放した。
腹部の違和感と発熱は五日ほど続いたが、六日目には何事もなかったかのようにケロリと治っていた。そのことを不思議に思いながらも、優一が用意してくれる栄養ドリンクと食事のおかげだろうと拓巳は納得した。
体調が元に戻ってからは、庭に面した大きな掃き出し窓を開けてぼんやりと庭を眺めることが多くなった。雨の季節を迎える前だからか、大きな木も小さな花も色鮮やかに見える。そんな植物に癒やされながらも庭に出る気分にはなれず、ただ毎日ぼんやりと風に揺れる木の葉や花を眺めて過ごした。
少し前までは「優一さんはどうして自分を買ったんだろう」と考えることもあったが、それも段々と気にならなくなってきた。行為を求められないなら別にそれでかまわない。以前は適度にしていた自慰も、この家に住むようになってからはご無沙汰になっている。規則正しい生活になると性欲も減退するんだろうかと思いながら、拓巳は流されるように日々を過ごした。
(それに、こんなに贅沢させてもらってるんだしな。いまのうちに堪能しておかないと)
贅沢で何の変化もない毎日を過ごしながら、さらに一カ月が経った。三カ月目にもなれば、さすがの拓巳も「今月もどこかおかしくなるかもしれない」と体調を気にするようになった。優一に迷惑をかけないようにと出された食事は残さず食べ、朝晩の栄養ドリンクも欠かさず飲んで体調管理に気を配ったりもする。
そうして過ごしていたある日、拓巳は自分の鼻がやけに敏感になっていることに気がついた。食事の匂いだけでなく寝具や服の香り、シャンプーやハンドソープの香りまで気になって仕方がない。それどころか優一が使っている香水にまで敏感になり、香りに気づくたびに落ち着かなくなった。いまも香水の香りが気になりソワソワしてしまう。
「どうかしたかい?」
拓巳の様子に気づいたのか、出掛ける直前の優一がそんなことを訊ねてきた。自分でも原因がよくわからない拓巳は「なんでもないんですけど……」と答えながらも、無意識にクンと鼻を鳴らす。
「何か匂うかい?」
「え……と、匂うっていうか」
「加齢臭だったら困るな」
苦笑する優一に、慌てて首を振った。
「そんなの、全然匂わないです。むしろいい匂いがするっていうか……。これ、香水ですか?」
以前は優一に近づかれても香りに気づくことはなかった。風呂上がりにシャンプーやソープの香りがすることはあっても気にかけることもない。それなのに今朝はやけにいろんな香りが気になって仕方がない。
(俺、どうしたんだろ)
自分でも少しおかしいと思いながら、鼻が勝手にクンクンと匂いをたどってしまう。そうして一番強く感じたのは、やはり優一の香りだった。最初にすぅっと入ってくるのは爽やかですっきりとした香りで、その後を追いかけるように漂うのがふわりとした優しく甘い香りだ。
(この甘い匂いって……薔薇かな)
拓巳は、伯父夫婦の家の庭にあった薔薇を思い出した。春と秋に咲く薔薇は風に乗ってかすかに甘い香りを運んでいたが、近づくと驚くほど鮮やかな香りだったことを思い出す。
「香水はつけないんだが……」
「……ぇ?」
匂いを嗅ぐことに夢中になっていたせいで優一の言葉を聞き逃してしまった。聞き返そうと改めて顔を見ると、碧色にも灰色にも見える目がじっと自分を見つめている。もしかして気分を害してしまったのだろうかと思った拓巳は、慌てて「すみません」と謝った。
「謝らなくていいよ。むしろ喜ばしい限りだ」
「……?」
ふわりと笑った様子から怒っていないことはわかったが、言われた意味がよくわからない。改めて優一を見たが、いつもと同じように優しい笑顔を浮かべているだけだ。
「あの、」
「今日は部屋でおとなしくしていなさい。なるべく早く帰ってくるつもりだが、もしつらくなったら……はい。これで連絡するように」
「これ……」
手渡されたのは携帯デバイスだった。
「ここ、タッチすればわたしに繋がるからね」
「……わかりました」
携帯デバイスを渡すくらい自分の様子はおかしいのだろうか。それとも、それだけ心配してくれているということだろうか。後者ならうれしいのにと思いながら拓巳が頷くと、にこりと笑った優一にポンと頭を撫でられた。
優一が出掛けた後も、拓巳の嗅覚はますます敏感になっていった。優一に言われたとおり窓も開けずにリビングでおとなしくしているが、あちこちに漂う香りが気になって落ち着かない。いつもなら定位置のソファに座って庭をぼんやり眺めているのに、香りが気になってうろうろ歩き回ってしまう。
そんな中で一番気になったのは、やはり優一の香水だった。出掛ける前に嗅いだからか、鼻の奥に残っているような気がしてソワソワする。それどころか、気がつけば優一の匂いを探して犬のように鼻をクンクン鳴らしてしまっているほどだ。
(……ここも少しだけ匂ってる)
食事時にいつも優一が座っている椅子をクンと嗅ぐ。背もたれも座面も嗅いでみるが、少し弱い。
もっと強い香りを嗅ぎたくて、ダイニングルームからリビングに戻った。毎日のように優一が使っている一人掛けのソファに近づくと、椅子よりも少しだけ強く香りを感じた。思わず座面に顔を埋めスゥハァと深呼吸をするように嗅ぐ。
(俺、やっぱり変だよな)
自分がおかしなことをしている自覚はある。まるで変態みたいな行動だとわかっているものの、拓巳は自分の行動を抑えることができなかった。
そんなおかしな行動につられるように腹部の違和感も徐々に強くなってきた。優一の香りを嗅ぐたびに腹の奥がじんわりと熱くなる。相変わらず痛みはないものの、きゅっと引き締まるような変な感覚もあった。頭がぼんやりしてきて、一カ月前よりも症状がひどくなっているような気がする。
(これって風邪なのかな)
風邪なら薬を飲んだほうがいいかもしれない。そう考えた拓巳は、薬箱を探してリビングにある棚という棚を調べて回った。
こういう豪邸でも何かのために常備薬くらいはあるはずだ。アパートのときも伯父夫婦の家も、薬箱は皆が使いやすい居間の棚に置いてあった。そう思ってあちこち探してはみたものの、それらしい箱は見つからない。
(もしかして寝室に置いてるとか?)
そう思った拓巳は、いままで一度も近づいたことがなかった優一の寝室に足を向けた。いつもなら絶対にしないことなのに、熱に浮かされているからか気がつけばドアノブに手をかけている。
「……っ」
ドアを開けた瞬間、優一の香りに全身を包まれた気がした。いや、正しくは今朝嗅いだ優一の香水の香りがしているのだ。しかし拓巳にはそれが優一自身の香りのような気がして仕方がなかった。
(……いい匂い……)
部屋に入るとますます香りが強くなる。拓巳は香りに誘われるまま大きなベッドにボフッと倒れ込んだ。途端に甘い香りがぶわっと広がり全身を包み込む。
「……この匂い、好きだな……」
なんという香水かはわからないが、いくらでも嗅いでいられる。香りが鼻の奥に入ってくるだけで頭がフワフワして気分がよくなった。ふと、ベッドの上に置いてあるパジャマが目に入った。
(昨日着てたやつかな……)
そう思ったら手が伸びていた。パジャマの上着を引き寄せてクンと匂いを嗅ぐ。ふわっと広がったのは香水と同じ香りで、拓巳は「やっぱり優一さんの匂いだ」と確信した。
そう思った途端にもっと強い香りがほしくてたまらなくなった。上着の香りを嗅ぎながら、チラッと脇に視線を向ける。
(あっちのほうが……もっといい匂いがしそうだよな……)
拓巳の目に映っていたのはパジャマのズボンだった。頭のどこかで駄目だと思いながらも、伸びた右手がズボンをつかみ引き寄せる。寝転がったままの胸に上着を置き、代わりに手に入れたズボンに顔を埋めた。
(……すごく、いい匂い……)
優一の濃い香りに頭がクラクラした。心臓がバクバクして胸がぎゅうっと絞られるように痛む。わけもなく切なくなり目尻から涙がこぼれた。
(俺……どうしちゃったんだろ……)
自分の何もかもがおかしいと思いながらも、気持ちはもっとと催促するように優一の香りを求めた。欲するままにズボンに鼻を埋めていた拓巳は、気がつけばパジャマの股間あたりの布地を必死に噛み締めていた。
(足りない……もっと、もっと……)
優一の香りが足りない。もっと濃い香りがほしい。もっと、もっと……止めどなくあふれ出す欲望のままにベッドからムクッと上半身を起こす。
(もっと匂いを集めないと……)
ベッドから降りた拓巳は、備え付けの大きなクローゼットを開けた。スーツやネクタイを一枚ずつ嗅ぎ、より濃い香りがついているものを引っ張り出す。それらをベッドに放り投げると、今度は部屋の奥にあるシャワールームに目をつけた。
拓巳に宛がわれている寝室にもシャワールームがついている。この家には広いバスルームもあるが、初日に案内されたときに見ただけで拓巳は寝室のシャワールームを使っていた。それは優一も同じで、早く帰宅したときには部屋着に着替えるついでにシャワーを浴びてリビングに出てくることもあった。
(あそこなら……)
シャワールームに入った拓巳は目当てのものを探した。ふかふかのバスタオルをつかみ、今朝使ったであろうフェイスタオルをタオル掛けからむしり取る。そうしながら昨日優一が着ていたシャツを見つけ、その下から目的のものを発見した。
(すべすべしてる……シルクかな……)
収穫物に頬ずりをしながらベッドに戻った拓巳は、再びベッドに寝転がるといい香りがする服やタオルを次々と自分の体の上に載せていった。そうして最後に手にしたものを見て、にこりと笑う。
(濃くていい匂いがいっぱいだけど……これが一番だ)
拡げたトランクスタイプの下着は真っ黒だ。まるで優一の髪の毛みたいに艶々していると思いながら、そっと顔を近づける。途端に濃密な香りが鼻を通り抜け、拓巳の体を電流のようなものが走り抜けた。
(この匂いが一番かも……)
うっとりしながら嗅ぐと、腹部の奥がぎゅっと熱くなった気がした。昨日までなら「やっぱり体調がおかしい」と思ったのだろうが、いまの拓巳には優一の香り以外に意識を向けることができない。腹部の違和感を頭の片隅で気にしながらも、目の前の香りがもっとほしくて口の中に唾液があふれそうになる。
「いい匂い……これ、好きだな……」
ぎゅうっと鼻に押しつけ、それでも足りなくてガジガジと布地を噛んだ。拓巳は腹部の奥の熱とソワソワした感覚に焦れながら、夢見心地で優一の香りを嗅ぎ続けた。
豪邸に少しずつ慣れてきた拓巳だが、いまだに生活空間は広いリビングと与えられた寝室に留まっている。ほかの部屋も自由に使っていいと言われているものの、汚したり何か壊してしまったらと思うとドアを開けることすらできない。
週一でハウスクリーニングが入ると聞いたときには、さすがセレブだと思った。同時に豪邸に似つかわしくない自分がいても大丈夫だろうかと緊張したのだが、ほとんどがハウスロボットによるものでホッとした。
拓巳が一日の多くを過ごす広いリビングからは立派な庭が見える。庭も自由に散策していいと言われてはいるものの、なんとなく場違いな気がして外に出る気になれない。とくに昨日からは腹部に違和感があるせいか歩くのもおっくうに感じていた。
この家に来て一週間後に初めて感じた腹部の違和感は、先月も三日間ほど感じた。そのとき全身が少し熱っぽいような気がしたが、今回はそれにプラスして倦怠感もある。そのせいでリビングを歩くのも面倒なくらいだ。
拓巳は優一が外出した後、寝室から持ち出したタオルケットにくるまりながら、ソファの上でぼんやりと庭を見ていた。
(ついこの前まではこんなことなかったのになぁ)
小学生の頃に何度か風邪をひいたことはあったが軽いもので、中学生になってからは風邪すらひいていない。体を売るようになってから冬に何度か野宿もしたが、寒さが堪えることはあっても病気になることはなかった。それなのに今月もまた体調がおかしいなんて、自分の体はどうしてしまったんだろうかと不安になる。
「優一さんの家にいられる間はいいけど、元の生活に戻ったらどうなるんだろ」
口に出したら、ますます心配になってきた。こんなことでは以前と同じ生活は送れないに違いない。なによりそういった行為もご無沙汰なわけで、これまでのように客の相手をできるか不安だった。
(結局、なんで俺を買ったんだろうな……)
二カ月経っても優一の態度は変わらなかった。相変わらず拓巳の食事に気を遣い、睡眠時間や日光浴までも気にし始めている。体の関係を求められることはなく、手や口を使って奉仕することもない。ただ食事と寝床を与えられるだけなんて、これじゃまるでペットか何かになった気分だ。
「……ほんとにそうだったりして」
思わず出たつぶやきに拓巳は「ははっ」と笑った。セレブの考えることはわからないが、場違いなSNSで男を探したうえに半年もまとめ買いするような人だ。そういう変わった趣味があったとしても不思議じゃない。
そもそも自分にはセレブに買われるような価値はないのだ。最初からわかっていたことなのに、いまさら何を考えているんだろう。むしろそれはそれでいいじゃないかと思いながら、拓巳の心はなぜかツキンと痛んだ。
(……あと四カ月か)
優一に提示された契約期間が終わるまで、あと四カ月。それまでこうした生活が続くのだろう。一日三食食べて昼寝もでき、おかしな行為を強要されることも暴力を振るわれることもない、なんとも贅沢な毎日だ。それで十分じゃないかと思っているのに針で刺されるように胸の奥がチクチク痛む。
熱っぽい頭でこれ以上何か考えるのは無理だと判断した拓巳は、肌触りのいいタオルケットを頭からすっぽりと被り目を閉じた。
しばらくするとどこからか声のようなものが聞こえてきて意識が浮上した。
「またソファで寝ていたな。いくら空調がきいているとはいえ、風邪をひくぞ」
近くで優一の声がする。そう思って目を開けると、予想どおりすぐそばに整った顔があった。
「あれ……?」
「熱が上がっている。今夜はもう寝たほうがいい」
整った顔は朝見たままだが、どうして斜め下にあるんだろう……そう思った拓巳は、自分の体が少し揺れているような気がして視線を横にずらした。そこには見慣れたドアがあり、さらに視線を動かすと大きなベッドが見える。ここは毎日自分が使っている寝室で、優一が運んでくれたのだとわかった。
「優一さん、俺……」
「あとで栄養ドリンクを持ってきてあげるから、それまで寝ているといい」
ぼんやりとした頭で話を聞いていた拓巳の体が、ゆっくりと何かに沈み込む。ふわりと香ったのはシーツから漂う清潔な香りで、自分がベッドに寝かされたことがわかった。
「俺、熱が出て……?」
「急激な変化のせいだろうね。大丈夫、栄養ドリンクを飲んでわたしが選んだ食事をしていれば、すぐに慣れるよ」
「あの……、すいません」
「どうした?」
「だって俺、買われた体なのに……」
拓巳の掠れた声に優一がふわりと笑う。
「拓巳くんが謝る必要はない。それに思った以上に早く馴染んでいるようだし、十分期待に応えてくれている」
言葉の意味がわからず視線を向けると、ひんやりした手に瞼をそっと覆われた。熱っぽいせいか手の冷たさがやけに気持ちいい。そのままうとうとする拓巳の耳に、独り言のような優一の声が入ってきた。
「二カ月でこれなら、来月は本格的な発情を迎えるだろうね。いまから楽しみだ」
(……はつじょう、って……?)
どんな意味だったっけと考えようとしたものの、ぼんやりした頭ではうまく考えることができない。そのまま抗いがたい睡魔に襲われた拓巳は、何かが引っかかりながらもすぅっと意識を手放した。
腹部の違和感と発熱は五日ほど続いたが、六日目には何事もなかったかのようにケロリと治っていた。そのことを不思議に思いながらも、優一が用意してくれる栄養ドリンクと食事のおかげだろうと拓巳は納得した。
体調が元に戻ってからは、庭に面した大きな掃き出し窓を開けてぼんやりと庭を眺めることが多くなった。雨の季節を迎える前だからか、大きな木も小さな花も色鮮やかに見える。そんな植物に癒やされながらも庭に出る気分にはなれず、ただ毎日ぼんやりと風に揺れる木の葉や花を眺めて過ごした。
少し前までは「優一さんはどうして自分を買ったんだろう」と考えることもあったが、それも段々と気にならなくなってきた。行為を求められないなら別にそれでかまわない。以前は適度にしていた自慰も、この家に住むようになってからはご無沙汰になっている。規則正しい生活になると性欲も減退するんだろうかと思いながら、拓巳は流されるように日々を過ごした。
(それに、こんなに贅沢させてもらってるんだしな。いまのうちに堪能しておかないと)
贅沢で何の変化もない毎日を過ごしながら、さらに一カ月が経った。三カ月目にもなれば、さすがの拓巳も「今月もどこかおかしくなるかもしれない」と体調を気にするようになった。優一に迷惑をかけないようにと出された食事は残さず食べ、朝晩の栄養ドリンクも欠かさず飲んで体調管理に気を配ったりもする。
そうして過ごしていたある日、拓巳は自分の鼻がやけに敏感になっていることに気がついた。食事の匂いだけでなく寝具や服の香り、シャンプーやハンドソープの香りまで気になって仕方がない。それどころか優一が使っている香水にまで敏感になり、香りに気づくたびに落ち着かなくなった。いまも香水の香りが気になりソワソワしてしまう。
「どうかしたかい?」
拓巳の様子に気づいたのか、出掛ける直前の優一がそんなことを訊ねてきた。自分でも原因がよくわからない拓巳は「なんでもないんですけど……」と答えながらも、無意識にクンと鼻を鳴らす。
「何か匂うかい?」
「え……と、匂うっていうか」
「加齢臭だったら困るな」
苦笑する優一に、慌てて首を振った。
「そんなの、全然匂わないです。むしろいい匂いがするっていうか……。これ、香水ですか?」
以前は優一に近づかれても香りに気づくことはなかった。風呂上がりにシャンプーやソープの香りがすることはあっても気にかけることもない。それなのに今朝はやけにいろんな香りが気になって仕方がない。
(俺、どうしたんだろ)
自分でも少しおかしいと思いながら、鼻が勝手にクンクンと匂いをたどってしまう。そうして一番強く感じたのは、やはり優一の香りだった。最初にすぅっと入ってくるのは爽やかですっきりとした香りで、その後を追いかけるように漂うのがふわりとした優しく甘い香りだ。
(この甘い匂いって……薔薇かな)
拓巳は、伯父夫婦の家の庭にあった薔薇を思い出した。春と秋に咲く薔薇は風に乗ってかすかに甘い香りを運んでいたが、近づくと驚くほど鮮やかな香りだったことを思い出す。
「香水はつけないんだが……」
「……ぇ?」
匂いを嗅ぐことに夢中になっていたせいで優一の言葉を聞き逃してしまった。聞き返そうと改めて顔を見ると、碧色にも灰色にも見える目がじっと自分を見つめている。もしかして気分を害してしまったのだろうかと思った拓巳は、慌てて「すみません」と謝った。
「謝らなくていいよ。むしろ喜ばしい限りだ」
「……?」
ふわりと笑った様子から怒っていないことはわかったが、言われた意味がよくわからない。改めて優一を見たが、いつもと同じように優しい笑顔を浮かべているだけだ。
「あの、」
「今日は部屋でおとなしくしていなさい。なるべく早く帰ってくるつもりだが、もしつらくなったら……はい。これで連絡するように」
「これ……」
手渡されたのは携帯デバイスだった。
「ここ、タッチすればわたしに繋がるからね」
「……わかりました」
携帯デバイスを渡すくらい自分の様子はおかしいのだろうか。それとも、それだけ心配してくれているということだろうか。後者ならうれしいのにと思いながら拓巳が頷くと、にこりと笑った優一にポンと頭を撫でられた。
優一が出掛けた後も、拓巳の嗅覚はますます敏感になっていった。優一に言われたとおり窓も開けずにリビングでおとなしくしているが、あちこちに漂う香りが気になって落ち着かない。いつもなら定位置のソファに座って庭をぼんやり眺めているのに、香りが気になってうろうろ歩き回ってしまう。
そんな中で一番気になったのは、やはり優一の香水だった。出掛ける前に嗅いだからか、鼻の奥に残っているような気がしてソワソワする。それどころか、気がつけば優一の匂いを探して犬のように鼻をクンクン鳴らしてしまっているほどだ。
(……ここも少しだけ匂ってる)
食事時にいつも優一が座っている椅子をクンと嗅ぐ。背もたれも座面も嗅いでみるが、少し弱い。
もっと強い香りを嗅ぎたくて、ダイニングルームからリビングに戻った。毎日のように優一が使っている一人掛けのソファに近づくと、椅子よりも少しだけ強く香りを感じた。思わず座面に顔を埋めスゥハァと深呼吸をするように嗅ぐ。
(俺、やっぱり変だよな)
自分がおかしなことをしている自覚はある。まるで変態みたいな行動だとわかっているものの、拓巳は自分の行動を抑えることができなかった。
そんなおかしな行動につられるように腹部の違和感も徐々に強くなってきた。優一の香りを嗅ぐたびに腹の奥がじんわりと熱くなる。相変わらず痛みはないものの、きゅっと引き締まるような変な感覚もあった。頭がぼんやりしてきて、一カ月前よりも症状がひどくなっているような気がする。
(これって風邪なのかな)
風邪なら薬を飲んだほうがいいかもしれない。そう考えた拓巳は、薬箱を探してリビングにある棚という棚を調べて回った。
こういう豪邸でも何かのために常備薬くらいはあるはずだ。アパートのときも伯父夫婦の家も、薬箱は皆が使いやすい居間の棚に置いてあった。そう思ってあちこち探してはみたものの、それらしい箱は見つからない。
(もしかして寝室に置いてるとか?)
そう思った拓巳は、いままで一度も近づいたことがなかった優一の寝室に足を向けた。いつもなら絶対にしないことなのに、熱に浮かされているからか気がつけばドアノブに手をかけている。
「……っ」
ドアを開けた瞬間、優一の香りに全身を包まれた気がした。いや、正しくは今朝嗅いだ優一の香水の香りがしているのだ。しかし拓巳にはそれが優一自身の香りのような気がして仕方がなかった。
(……いい匂い……)
部屋に入るとますます香りが強くなる。拓巳は香りに誘われるまま大きなベッドにボフッと倒れ込んだ。途端に甘い香りがぶわっと広がり全身を包み込む。
「……この匂い、好きだな……」
なんという香水かはわからないが、いくらでも嗅いでいられる。香りが鼻の奥に入ってくるだけで頭がフワフワして気分がよくなった。ふと、ベッドの上に置いてあるパジャマが目に入った。
(昨日着てたやつかな……)
そう思ったら手が伸びていた。パジャマの上着を引き寄せてクンと匂いを嗅ぐ。ふわっと広がったのは香水と同じ香りで、拓巳は「やっぱり優一さんの匂いだ」と確信した。
そう思った途端にもっと強い香りがほしくてたまらなくなった。上着の香りを嗅ぎながら、チラッと脇に視線を向ける。
(あっちのほうが……もっといい匂いがしそうだよな……)
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(……すごく、いい匂い……)
優一の濃い香りに頭がクラクラした。心臓がバクバクして胸がぎゅうっと絞られるように痛む。わけもなく切なくなり目尻から涙がこぼれた。
(俺……どうしちゃったんだろ……)
自分の何もかもがおかしいと思いながらも、気持ちはもっとと催促するように優一の香りを求めた。欲するままにズボンに鼻を埋めていた拓巳は、気がつけばパジャマの股間あたりの布地を必死に噛み締めていた。
(足りない……もっと、もっと……)
優一の香りが足りない。もっと濃い香りがほしい。もっと、もっと……止めどなくあふれ出す欲望のままにベッドからムクッと上半身を起こす。
(もっと匂いを集めないと……)
ベッドから降りた拓巳は、備え付けの大きなクローゼットを開けた。スーツやネクタイを一枚ずつ嗅ぎ、より濃い香りがついているものを引っ張り出す。それらをベッドに放り投げると、今度は部屋の奥にあるシャワールームに目をつけた。
拓巳に宛がわれている寝室にもシャワールームがついている。この家には広いバスルームもあるが、初日に案内されたときに見ただけで拓巳は寝室のシャワールームを使っていた。それは優一も同じで、早く帰宅したときには部屋着に着替えるついでにシャワーを浴びてリビングに出てくることもあった。
(あそこなら……)
シャワールームに入った拓巳は目当てのものを探した。ふかふかのバスタオルをつかみ、今朝使ったであろうフェイスタオルをタオル掛けからむしり取る。そうしながら昨日優一が着ていたシャツを見つけ、その下から目的のものを発見した。
(すべすべしてる……シルクかな……)
収穫物に頬ずりをしながらベッドに戻った拓巳は、再びベッドに寝転がるといい香りがする服やタオルを次々と自分の体の上に載せていった。そうして最後に手にしたものを見て、にこりと笑う。
(濃くていい匂いがいっぱいだけど……これが一番だ)
拡げたトランクスタイプの下着は真っ黒だ。まるで優一の髪の毛みたいに艶々していると思いながら、そっと顔を近づける。途端に濃密な香りが鼻を通り抜け、拓巳の体を電流のようなものが走り抜けた。
(この匂いが一番かも……)
うっとりしながら嗅ぐと、腹部の奥がぎゅっと熱くなった気がした。昨日までなら「やっぱり体調がおかしい」と思ったのだろうが、いまの拓巳には優一の香り以外に意識を向けることができない。腹部の違和感を頭の片隅で気にしながらも、目の前の香りがもっとほしくて口の中に唾液があふれそうになる。
「いい匂い……これ、好きだな……」
ぎゅうっと鼻に押しつけ、それでも足りなくてガジガジと布地を噛んだ。拓巳は腹部の奥の熱とソワソワした感覚に焦れながら、夢見心地で優一の香りを嗅ぎ続けた。
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あっ!脇道から出てきたハイヤーが僕の自転車の前輪にぶつかり、転倒してしまった。ハイヤーの後部座席に乗っていたのは若いアルファの社長である東条秀之だった。大学生の木村千尋は病院の特別室に入院し怪我の治療を受けた。退院の時期になったらなぜか自宅ではなく社長宅でお世話になることに。溺愛アルファ×可愛いオメガのハッピーエンドBLです。読んで頂きありがとうございます。今後随時追加更新するかもしれません。
学内一のイケメンアルファとグループワークで一緒になったら溺愛されて嫁認定されました
こたま
BL
大学生の大野夏樹(なつき)は無自覚可愛い系オメガである。最近流行りのアクティブラーニング型講義でランダムに組まされたグループワーク。学内一のイケメンで優良物件と有名なアルファの金沢颯介(そうすけ)と一緒のグループになったら…。アルファ×オメガの溺愛BLです。
βな俺は王太子に愛されてΩとなる
ふき
BL
王太子ユリウスの“運命”として幼い時から共にいるルカ。
けれど彼は、Ωではなくβだった。
それを知るのは、ユリウスただ一人。
真実を知りながら二人は、穏やかで、誰にも触れられない日々を過ごす。
だが、王太子としての責務が二人の運命を軋ませていく。
偽りとも言える関係の中で、それでも手を離さなかったのは――
愛か、執着か。
※性描写あり
※独自オメガバース設定あり
※ビッチングあり
うそつきΩのとりかえ話譚
沖弉 えぬ
BL
療養を終えた王子が都に帰還するのに合わせて開催される「番候補戦」。王子は国の将来を担うのに相応しいアルファであり番といえば当然オメガであるが、貧乏一家の財政難を救うべく、18歳のトキはアルファでありながらオメガのフリをして王子の「番候補戦」に参加する事を決める。一方王子にはとある秘密があって……。雪の積もった日に出会った紅梅色の髪の青年と都で再会を果たしたトキは、彼の助けもあってオメガたちによる候補戦に身を投じる。
舞台は和風×中華風の国セイシンで織りなす、同い年の青年たちによる旅と恋の話です。
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