身代わりβの密やかなる恋

朏猫(ミカヅキネコ)

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αとβの熱1

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 修一朗さんとのキスの回数が増えるにつれて、僕はすっかりおかしくなってしまっていた。キスのことを思い出すだけで体が熱くなり、背中や腰の辺りがもぞもぞしてしまう。
 キスをしている最中はもっとひどい。触れ合えるだけで十分幸せなのに、心では「もっと触れてほしい」と強く願ってしまう。キスの最中に修一朗さんの指が首筋に触れるだけで「もっと」と口に出しそうになった。離れていく唇に「どうして」と言いそうになる。

(僕は、なんて浅ましくていやらしくなったんだろう)

 これまで自慰すらあまりしていなかったというのに、こんなにも強い劣情を抱くなんて思ってもみなかった。しかもαの男性である修一朗さんに対してだ。同じ男性にこんなにも強い欲望を抱くなんて、僕は本格的におかしくなってしまったに違いない。
 いまだってそうだ。ソファに座っている修一朗さんの横顔を見るだけで、どうしようもなく淫らな気持ちがわき上がりそうになる。

「もしかして、千香彦くんが話していた詩集とは違った?」
「え?」
「いや、本を開こうとしないから違うのかと思ってね」

 指摘されて、膝の上の詩集に視線を落とした。
 ボードレールの詩集は思っていたより豪華な装丁本だった。黒い表紙に金の模様は想像以上に美しくて素晴らしい。『悪の華』というタイトルの文字も美しく、それでいてどこか不穏な気配を感じる書体は妖しい魅力さえ漂わせている。

(不穏というよりも、情熱的というか卑猥な感じがするというか)

 そう思った自分に驚き、慌てて否定した。修一朗さんに淫らな欲を抱いてしまうどころか、本にまでそんなことを感じるなんて僕は本当にどうしてしまったんだろう。

(そういえば『悪の華』には削除された詩があるって聞いたけど)

 作者の祖国では、初版に載っていた六つの詩が反道徳的だという理由で削除されたと聞いたことがある。きっとこの詩集にも載っていないだろう。初めてその話を聞いたとき、“禁断詩篇六篇”という言葉に少し恐怖を抱いたのを思い出した。
 でもいまは、その言葉がなぜか魅力的に感じられた。禁じられているからこそ読んでみたいと思ってしまう。きっと人は禁じられるものにほど惹かれるに違いない。駄目だと思えば思うほど、より一層ほしくなって手を伸ばしてしまうのだ。

(修一朗さんに劣情を抱くなんて駄目なのに、つい淫らな想像をしてしまうのもきっと同じことだ)

 一人掛けのソファに座り、足を組んで本を読んでいる修一朗さんをそっと窺う。正面ではなく斜めから見る顔は鼻筋がはっきり見えて、とても綺麗な顔をしていることを改めて実感した。
 ふと、閉じている唇に視線がとまった。少し薄い唇は形がよくて、女性のようではないのに艶やかで魅力的に見える。

(あの唇が、いつも僕にキスしてくれるんだ)

 そう思った途端に首筋がぞわりとした。唇に触れる熱を思い出し、同時に修一朗さんの指が耳や首に触れる感触まで思い出して体がカッと熱くなる。夕食に誘われ、修一朗さんの部屋で食べた後こうしてゆったりと本を読んでいるだけだというのに、僕の頭は淫らなことですっかり埋まってしまっていた。

「顔が少し赤いね」
「え……?」

 近いところから声が聞こえてきて驚いた。ハッとしたときには隣に修一朗さんが座っていて、心配そうに僕の顔を見ている。

「熱は……少し熱いかな?」
「……っ」

 額に大きな手が触れている。もし僕の額が熱くなっているとしたら、それは修一朗さんが触れているからだ。

「頬も少し赤い。目も潤んでいる」
「……っ」

 額を覆っていた手が頬に触れた途端に鼓動が一気に速くなった。真っ赤になっているはずの顔を見られたくないと思っているのに、目の前の修一朗さんから視線が外せない。

「千香彦くんはとても美しい。それにとても魅力的だ」

 突然の言葉にドキッとした。思わず目を見開くと、修一朗さんが困ったように微笑む。

「あぁ、すまない。つい思っていたことを口に出してしまった」
「いえ……」

 頬に触れていた手が少し離れた。それを残念に思いながら視線を落とすと、すぐに手の感触が戻ってくる。どうしたんだろうと視線を上げれば、いつもと雰囲気の違う黒目が僕をじっと見ていた。

「本当は僕とのことにきちんと納得してもらってから、ゆっくり距離を縮めようと思っていたんだ。僕は若者ではないし欲望にがっつく年でもない。そのくらいは待てると思ってもいた。もちろんいまもそう思っているし、千香彦くんを怖がらせたくないと思っている。あぁ、違う。こんな言い訳じみたことを伝えたかったんじゃない」

 修一朗さんが苦笑するように眉尻を下げている。

「いや、何を言っても言い訳にしかならないか」

 近づいてくる爽やかな香水の香りに心臓が飛び跳ねた。

「僕は千香彦くんに劣情を抱いている。こうして肌に触れたいと思っているし……」

 優しく触れるだけのキスに唇がじんわり痺れたような気がした。

「こんなふうにキスもしたい。内心ではそれ以上のこともしたいと思っている。軽蔑するかい?」
「そんなこと……思うはずありません」

 むしろ僕のほうこそ懺悔すべきだ。キスをされながら、もっと触れ合いたいとずっと思っていた。淫らな欲望を抱きながら、それをひた隠しにしていた。修一朗さんのようにきちんと言葉にすることもなく、ただ悶々としながらいやらしい目で見ていた。

「僕が怖くないかい?」
「怖いなんて……修一朗さんは、いまも昔もずっと優しいです」
「その信頼を裏切りたくはないけど、駄目だな。どうにも我慢できそうにない。どうやら僕は、自分が思っていたよりも辛抱がきかない男だったらしい」

 苦笑する修一朗さんに、はしたなくも僕は喜びを感じていた。だって、ただのβの男でしかない僕に、修一朗さんがそういう欲望を抱いてくれているとわかったのだ。
 僕にはαを引き寄せる香りがない。Ωを誘うαの香りもわからない。そんな僕でも目の前にいる修一朗さんの香りがわかるような気がした。そう思ってしまうくらい修一朗さんしか見えていなかった。
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